同じ量、軽くなる馬車
三か月後、王都からパンが消えた。
正確には、パンを焼くための小麦が足りなくなった。
朝、王宮へ向かう途中、私はパン屋の前にできた列を見た。
まだ朝の鐘が六つ鳴ったばかりなのに、人の列は通りの角まで続いている。店の扉には、昨日までなかった板が掛けられていた。
『一人一個まで』
列の先頭で、幼い男の子が母親の袖を引いた。
「昨日より小さい」
「声を出さないの」
「でも、小さいよ」
母親は周囲を気にしながら、受け取った黒パンを布で包んだ。
男の子の言うとおりだった。
値段は先月の倍近くに上がっているのに、パンは一回り小さい。
店の奥では、主人が何度も頭を下げていた。
「小麦が入ってこないんです。これでも、今日は多く焼いたほうでして」
列の後ろから、不満の声が上がった。
今年、北部の収穫量は前年を下回った。
けれど、王国全体が飢えるほどの凶作ではない。足りない分は各地の備蓄から補われ、王都には例年と同じ量が送られたことになっている。
少なくとも、帳簿の上では。
◇
「王都東倉庫の備蓄は、あと十二日分です」
財務局の会議室で、その報告が読み上げられた。
長い机を囲んでいるのは、財務局、穀物管理局、王宮警備局の役人たちだった。
末席には、記録局から呼ばれた私とマルタさんも座っている。
「西倉庫は?」
「十五日分です」
「南倉庫は?」
「九日分しかありません」
ざわめきが広がった。
「地方からの追加輸送はどうなっている」
「すでに命令を出しています。ただ、北街道の一部が雪で塞がれており、王都への到着には二十日ほどかかる見込みです」
「九日しかないのに、二十日だと?」
怒鳴り声が机にぶつかった。
誰も答えなかった。
窓の外では、薄い雪が降り始めている。
会議室の暖炉には十分な薪が入っていた。それでも、部屋の空気は冷たかった。
「原因は、北部の不作です」
穀物管理局の役人が立ち上がった。
「北部三領の収穫量は、前年より八パーセント減少しました。その影響で、例年どおりの備蓄を確保できなかったものと考えられます」
「それだけでは説明できません」
気づいたときには、声が出ていた。
部屋中の視線が私へ向けられる。
マルタさんが机の下で、私の袖を軽く引いた。
もう遅かった。
「誰だ、君は」
上座に座る財務局長が尋ねた。
「王宮記録局のエリナ・ヴァルトです」
「ああ、君が」
彼の目に、わずかな好奇の色が浮かんだ。
婚約を破棄された記録係。
三か月たっても、その話は王宮から完全には消えていなかった。
「何が説明できないのかね」
「北部の収穫量が減ったことは事実です。しかし、王都への輸送記録に減少はありません」
私は持参した帳簿の写しを開いた。
「不足分は各領の備蓄から補われています。ベルナ、ローデン、ハインツ。三つの中継倉庫を通過した小麦も、王都の各倉庫が受領した小麦も、前年と同量です」
「ならば、帳簿と現在の備蓄量が合わないということか」
「はい」
「記載ミスではないのか」
「三つの中継倉庫と、王都側の三つの倉庫。そのすべてに、同じ量が記録されています。単独の記載ミスとは考えにくいです」
会議室の中央で、椅子が小さく鳴った。
レオンが座っていた。
三か月前より、制服の胸についた飾りが一つ増えている。バルガス侯爵家との縁談は順調らしく、今では穀物管理局との会議にも財務局の代表として出席していた。
「それでも、紙に書かれた数字だ」
レオンが言った。
「今は王都の食糧が尽きようとしている。古い帳簿の間違いを探している場合ではない」
「食糧が尽きようとしているから、確認する必要があります」
「何を確認する」
「小麦が本当に、記録された量だけ運ばれたのかを」
私は三種類の記録を机の上へ並べた。
「主要な穀物帳簿には、小麦の量が記されています。輸送記録には、使用した馬車の延べ台数。飼料支給簿には、馬へ与えた飼料。修繕記録には、壊れた車輪と車軸の数が残っています」
「それが何だ」
「同じ量の小麦を、同じ型の馬車で、同じ道を通って運んだのなら、必要な馬車の数は大きく変わりません」
私は五年前の数字を読み上げた。
「ベルナ倉庫から王都東倉庫まで。小麦六万升。馬車の延べ台数は百二十台。飼料二百四十袋。車輪と車軸の修繕は十八件です」
続けて、昨年の数字を示す。
「小麦は同じく六万升。ところが、馬車は九十六台。飼料は百八十袋。修繕は五件です」
財務局長が眉を寄せた。
「途中の年は?」
「馬車、飼料、修繕のすべてが、少しずつ減っています。しかし、小麦の量だけは五年間、六万升のままです」
「輸送の効率が上がったのではないか」
「私も最初は、そう考えました」
「ならば、問題はないだろう」
「いいえ」
私は馬車の規格表を開いた。
「使用されている馬車の型は変わっていません。車軸の太さも、耐えられる重さも同じです。一台に積む小麦を増やしたのなら、車輪や車軸への負担は大きくなります」
「街道が整備された可能性は?」
「該当区間に、大規模な改修記録はありません」
「馬が強くなったのではないか」
「購入先も品種も変わっていません」
私は二つの数字を指した。
「帳簿を信じるなら、五年前より多くの小麦を一台の馬車へ積んでいます。それなのに、車軸の修繕は十八件から五件へ減りました」
部屋が静まる。
「荷物が軽くなったと、まだ断定はできません」
私は続けた。
「ですが、帳簿に書かれた積載量と、馬車に残された負担が一致していません。この二つの記録が、同時に正しいとは考えにくいです」
暖炉の薪が、音を立てて崩れた。
穀物管理局の役人が身を乗り出す。
「馬車が減ったというだけで、不正を疑うのか」
「不正だとは申し上げていません」
「では、何だ」
「原因を確認する必要があると申し上げています」
「現場では、記録どおりに作業している。積み方を変えたのかもしれない。御者が経験を積んだのかもしれない」
「その可能性もあります」
「ならば――」
「可能性と事実は、分けなければなりません」
役人は口を閉じた。
私は、三か月前に作成した処分目録の写しを机へ置いた。
「十二年以上前の輸送記録は、整理処分命令によって焼却されました。しかし、処分した帳簿名と対象期間は、この目録に残っています」
マルタさんが保管を認めてくれた、もう一部の記録。
その頁には、三つの倉庫名が並んでいる。
「処分前に確認した備品記録では、ベルナ、ローデン、ハインツの三倉庫が、王国規格の穀物升を何度も交換していました」
「古い升が壊れただけだ」
レオンが言った。
私は彼を見た。
「その可能性はあります」
「また、それか」
「だからこそ、現在使われている升と、現場の輸送状況を確認する必要があります」
レオンは不満そうに息を吐いた。
財務局長が指先で机を二度叩く。
「三つの倉庫を同時に調べる余裕はない」
「最初に馬車の数が減り始めたのは、ベルナ倉庫です」
「北街道か」
「はい。現在の不足も、北部から送られた分が最も大きくなっています」
財務局長が穀物管理局の役人へ顔を向けた。
「ベルナ倉庫から、現在使っている升を取り寄せろ」
役人はすぐに答えなかった。
「どうした」
「現地から、すでに報告が届いております」
「何の報告だ」
役人は手元の書類を開いた。
「ベルナ倉庫へ小麦を送る北部備蓄庫の管理官が、受領量に疑問があると。王都へ三度、調査を求める報告を出しています」
「なぜ、この会議まで上がっていない」
「現場の数え間違いとして、処理されていました」
「管理官の名は?」
「カイル・レグナード。北部備蓄庫の管理官です」
財務局長は書類を受け取り、素早く目を通した。
それから、私を見る。
「調査隊を派遣する」
会議室に緊張が走った。
「財務局の監査官一名、護衛二名。それに、記録局から帳簿を照合できる者を同行させる」
彼の視線が私の上で止まる。
「エリナ・ヴァルト。君が行け」
「私が、ですか」
「帳簿だけでは分からないと言ったのは君だ。現地の記録、保管されている小麦、使用中の量器を確認しろ」
「しかし、私は記録係です。倉庫への立入権限は――」
「正式な検査命令書を出す。現地の責任者には、すべての帳簿と設備を開示させる」
レオンが立ち上がった。
「局長、記録係を現地へ送る必要までは――」
「王都の小麦が九日で尽きる」
財務局長の一言で、レオンは黙った。
「出発は明朝。報告は可能な限り早く、先行の騎馬便で送れ」
窓の外で、雪が強くなっていた。
ベルナ倉庫までは、馬車で五日。
北へ向かうほど、街道の雪は深くなる。
「承知しました」
私は机の上に並ぶ数字を見た。
変わらない小麦の量。
減り続ける馬車。
軽くなっていく車軸への負担。
そして、現場から三度送られ、三度無視された報告。
帳簿の外にある答えを確かめるため、私は初めて王都を出ることになった。
お読みいただき、ありがとうございます。




