消される帳簿
翌朝、婚約解消の書類より先に届いたのは、帳簿を捨てる命令だった。
『王宮記録局保管資料・整理処分命令』
そう記された羊皮紙を、私は二度読んだ。
発行日は五日前。
昨夜の婚約破棄より前に作成された命令だ。
署名は財務局長。
その下には、実務責任者としてレオン・グラーツの名があった。
「ずいぶん早いわね」
向かいの机で、マルタさんが眼鏡を外した。
五十二歳になる彼女は、私が記録局へ入ったときから、この部屋にいる。王宮のどこに、何年の、どんな記録が保管されているのか、目録を開かずに答えられる人だった。
「処分のことでしょうか」
「違うわよ」
マルタさんは私を見た。
「あなたが、いつもどおり仕事を始めていること」
私は命令書へ視線を戻した。
昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、大広間に広がった笑い声が聞こえた。レオンがセシリア様の手を取る姿も、何度も浮かんだ。
それでも朝になれば、いつもの時刻に目が覚めた。
制服を着て、髪を結い、王宮へ来た。
休んだからといって、昨日がなかったことにはならない。
「対象は、十二年以上前の輸送記録と倉庫付属記録……」
私は処分対象の一覧を指で追った。
穀物輸送簿。
馬車使用記録。
飼料支給記録。
車軸と車輪の修繕記録。
倉庫夜間勤務表。
灯油や蝋燭の支給記録。
主要な出納帳簿は保存される。
処分されるのは、その周辺にある細かな記録ばかりだった。
「保管庫が足りないのは事実よ」
マルタさんが言った。
「去年から古い記録を整理しろという話は出ていたわ。湿気で読めなくなったものも多いし、新しい帳簿を置く場所もない」
「はい」
「正式な命令書もある。私たちに拒む権限はないわ」
「分かっています」
答えながら、私は昨夜見つけた記録を思い出していた。
王宮へ届く前日に製粉所へ運ばれた小麦。
書き換えられた納入日。
レオンの署名。
あの一件と、この処分命令が直接関係しているとは限らない。
命令は五日前に作られている。
私が異常に気づいたのは昨夜だ。
それでも、日付を見比べる癖のせいで、二つを完全に切り離すこともできなかった。
「処分はいつですか」
「三日後」
「三日……」
「短いと思う?」
「これだけの量を確認するには足りません」
命令書に記された保管場所は三か所。
地下第二保管庫、南塔保管室、旧厩舎書庫。
帳簿だけでも三百冊はある。書類箱なら五十を超えるだろう。
年号だけを見て分ければ、三日で終わる。
けれど、それでは何を捨てたのかさえ、後から確かめられない。
「命令は処分よ。再調査ではないわ」
マルタさんの声が低くなった。
「それに今は、あまり目立たないほうがいい。昨夜のことを面白がっている人は多いから」
「心配してくださっているのですか」
「あなたが記録局へ来た最初の日から、ずっと心配しているわ」
マルタさんは眼鏡を掛け直した。
「仕事はできる。でも、曲がれない。まっすぐすぎる木は、強い風が吹くと折れるのよ」
「曲がれば、折れませんか」
「少なくとも、風が過ぎるまで立っていられる」
私は返事をしなかった。
マルタさんの言うことは正しい。
王宮では、正しいことだけで身を守れない。
それは昨夜、十分に思い知らされた。
扉が開き、若い局員が木箱を抱えて入ってきた。
「処分対象の資料を、地下から運んできました」
机の横へ置かれた箱から、古い紙と黴の匂いが立ち上る。
マルタさんが一冊を取り出した。
革表紙の端は黒ずみ、綴じ糸も切れかけている。開かれた頁の文字は、湿気で半分ほど滲んでいた。
「これは残せないわね」
「はい」
すべての記録を、永遠に保存することはできない。
だからこそ、何を、いつ、なぜ捨てたのかを残す必要がある。
「処分目録を作ります」
私が言うと、マルタさんの手が止まった。
「命令書には、そこまでしろとは書かれていないわ」
「禁止もされていません」
「エリナ」
「帳簿を捨てた事実まで、消すべきではありません」
マルタさんはしばらく私を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「目録には、保管場所、帳簿名、対象期間、処分理由、確認者を記載しなさい」
「はい」
「二部作ること。一部は財務局へ。もう一部は記録局に残す」
「よろしいのですか」
「処分した後で、『そんな帳簿は最初から存在しなかった』と言われたら、私も困るもの」
マルタさんは新しい紙束を、私の机へ置いた。
「三日しかないわよ」
「間に合わせます」
「食事は取りなさい」
「努力します」
「それは、取らない人の答えよ」
呆れたように言いながら、彼女はほんの少し笑った。
◇
地下第二保管庫には、朝も夜もない。
壁に掛けられた灯りを頼りに、私は帳簿を一冊ずつ確認した。
表紙の名称。
記録された期間。
保存状態。
処分理由。
目録へ書き写し、確認済みの紐を結ぶ。
同じ作業を繰り返していると、似た記録の中にある、小さな違いが見え始める。
十五年前、十四年前、十三年前。
王都へ小麦を運ぶ三つの中継倉庫。
北街道のベルナ倉庫。
西街道のローデン倉庫。
川沿いのハインツ倉庫。
主要出納帳簿を見る限り、どの年も予定どおりの量が王都へ送られている。
異常はなかった。
次の木箱に入っていたのは、倉庫備品の購入記録だった。
縄。
荷車用の覆い布。
封印用の蝋。
そして、穀物を量る木製の升。
王国で穀物を取引するときは、定められた大きさの升を使う。底面に王室の刻印があり、一杯分の量は、どの領地でも同じでなければならない。
その購入記録に、同じ言葉があった。
『破損につき交換』
ベルナ倉庫。十五年前の春。
同じ年の秋にも、もう一度。
私は次の頁をめくった。
ローデン倉庫。十四年前。
春と冬に、『破損につき交換』。
さらに次の帳簿を開く。
ハインツ倉庫。十三年前。
ここにも、まったく同じ記載が二度あった。
普通の倉庫なら、穀物升は数年使われる。
水を吸って変形したり、落として割れたりすることはある。それでも、倉庫にある升を年に二度もまとめて交換するのは不自然だった。
しかも、三つの倉庫が、一年ずつずれて同じことをしている。
私は備品記録の横に、自分の作業帳を開いた。
処分対象の帳簿を持ち出すことはできない。
頁を破ることも、許可なく写しを作ることも禁じられている。
けれど、確認作業で気づいた点を作業記録に残すことは、記録係の職務の範囲内だった。
倉庫名。
交換した年月。
交換理由。
購入した升の数。
一つずつ書き留めていく。
最後の数字を書いたとき、背後から足音が聞こえた。
「ずいぶん熱心だな」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると、保管庫の入口にレオンが立っていた。
昨夜の礼装ではない。
財務局の濃紺の制服を着て、腰には役職を示す銀色の印章を下げている。
「財務局の確認ですか」
「ああ。作業が予定どおり進んでいるか見に来た」
レオンは、私の前に積まれた帳簿へ目を落とした。
「全部読むつもりか」
「処分目録を作っています」
「目録?」
「何を処分したのか、記録局に残すためです」
「命令書には、そんな作業は含まれていない」
「保管責任者の許可を得ています」
レオンの視線が、閉じた作業帳で止まった。
「昨夜のことへの当てつけか?」
「違います」
「私の署名がある命令だから、間違いを探しているんじゃないのか」
胸の奥がわずかに痛んだ。
けれど私は、首を横に振った。
「誰の署名があっても、同じように確認します」
「それが、君の嫌なところだ」
レオンは吐き捨てるように言った。
それから、少しだけ声を落とす。
「今回の整理は、王宮全体で決められたものだ。私が君への嫌がらせで命じたわけではない」
「発行日を確認しました。承知しています」
「なら、期限を守れ。君の確認のせいで処分が遅れれば、責任を取るのは私だ」
「三日以内に終わらせます」
「余計な騒ぎは起こすなよ」
それだけ言い残し、レオンは保管庫を出ていった。
足音が遠ざかってから、私は作業帳を開いた。
レオンは、私が何を見つけたのか知らない。
知らないまま、自分の署名を置き、期限だけを気にしている。
それは無実の証明にはならない。
けれど、すべてを知っている人間の態度にも見えなかった。
私は三つの倉庫の記録へ戻った。
ベルナ倉庫。
ローデン倉庫。
ハインツ倉庫。
場所も、管理人も違う。
交換された年も違う。
それでも、一つだけ共通点があった。
三つとも、バルガス侯爵が管轄する王国穀物管理局の中継倉庫だった。
私は作業帳に三つの名を書き、線で結んだ。
繰り返し交換された、王国規格の穀物升。
その記録が焼かれるまで、あと三日。
そして昨夜、レオンが新たに選んだ女性の名は――セシリア・バルガスだった。
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