数字しか見ない女
婚約を破棄すると告げられたとき、私は泣かなかった。
泣くより先に、レオンの肩越しに見えた一枚の書類に、目が止まったからだ。
小麦の納入日は、今月十八日。
製粉代の支払日は、その前日の十七日。
まだ届いていない小麦が、前日に挽かれている。
「エリナ・ヴァルト。聞いているのか」
名前を呼ばれ、私はようやく顔を上げた。
王宮の大広間から、音楽が消えていた。
磨き上げられた床。壁を照らす無数の燭台。手に杯を持ったまま、こちらを見つめる貴族たち。
五年に一度開かれる豊穣祭の祝宴で、私たちは人々の視線の中心に立っていた。
私の正面には、婚約者であるレオン・グラーツ。
その隣には、淡い金色のドレスをまとったセシリア・バルガス侯爵令嬢がいた。
レオンと彼女の距離は、婚約者ではない男女に許されるものより、少しだけ近かった。
「申し訳ありません」
喉が乾いていた。
「もう一度、お聞かせいただけますか」
周囲から、押し殺した笑いが漏れた。
レオンの眉間に皺が寄る。
「今、この場で、君との婚約を破棄すると言ったんだ」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「それも今、説明した」
「確認のためです」
また、笑い声がした。
右手の指先が冷たくなっていた。
それでも私は、レオンから目をそらさなかった。
彼は昔から、私のこういうところを嫌っていた。
言葉を聞けば、意味を確かめる。
数字を見れば、前後の記録と照らし合わせる。
分からないことを、分かったふりで済ませない。
婚約したばかりの頃、レオンはそれを「慎重で信頼できる」と言っていた。
いつから「人の心が分からない」に変わったのだろう。
「君はいつもそうだ」
レオンが吐き捨てるように言った。
「人の気持ちより、紙に書かれた数字のほうが大切なんだ。婚約者と食事をしていても、給仕が運んだ葡萄酒の本数を数えている。私が将来について話していても、帳簿の間違いばかり気にしている」
「あの日は、納品書と実際の本数が合っていませんでした」
「今もそれか!」
広間に笑い声が広がった。
言ってから、私は唇を結んだ。
間違ったことは言っていない。
けれど今、彼が求めている答えがそれではないことくらい、私にも分かっていた。
分かっていても、事実ではない言葉を選ぶことができなかった。
レオンは一度大きく息を吐くと、隣に立つセシリア様の手を取った。
「私は、隣に立つ者を間違えた。必要なのは、数字を書き写すだけの女ではない。人の心を理解し、私とともに社交界を歩める女性だ」
セシリア様は伏せていた目を上げた。
困っているようにも、勝ち誇っているようにも見えなかった。
ただ、レオンに手を預けていた。
今夜のことを知らされていたのだろう。
「エリナ」
レオンが私を見た。
「記録係など、誰にでもできる仕事だ。書類が一枚なくなったところで、王国は困らない。君はそんなことも分からず、自分が必要な人間だと思い込んでいる」
胸の奥に、細い針を差し込まれたような痛みが走った。
婚約を破棄されたからではない。
少なくとも、その痛みだけではなかった。
十一歳の冬、父が領地から持ち帰った収支簿を、初めて見せてもらった。
そこには、冷害で収穫が減った年の数字が残っていた。
村ごとに納めた麦の量。
領主から配られた種籾。
壊れた橋を直すために働いた人の数。
帳簿の中には名前のない人たちの暮らしがあり、声に出されなかった困窮があった。
正しく記録されていれば、数字は弱い立場の人の代わりに事実を語る。
私は、そう信じて記録係になった。
その仕事を、レオンは「誰にでもできる」と言った。
「承知しました」
私が答えると、広間が静かになった。
レオンは、少し拍子抜けしたような顔をした。
「……それだけか」
「正式な婚約解消の書類は、両家を通してお送りください。受領後、内容と日付、双方の署名を確認いたします」
「最後まで書類の話か」
「婚約は、両家の間で交わされた契約ですから」
「だから君とは話にならない」
レオンは私から目をそらした。
楽団の指揮者が周囲の様子をうかがい、止まっていた腕を動かす。
ぎこちない音楽が再び始まった。
人々はレオンとセシリア様の周りに集まり、二人へ祝いの言葉をかけた。私のそばからは、潮が引くように人が消えていく。
その場を離れようとして、足が動かなかった。
履き慣れない靴のせいではない。
五年という時間が、何の音も立てずに切り落とされたのだと、身体だけが遅れて理解したのだ。
私は一度だけ目を閉じた。
それから、壁際に設けられた事務机へ戻った。
今夜、この広間で使われた食材、酒、蝋燭、花、楽団への報酬。そのすべてを確認し、祝宴が終わるまでに仮集計を済ませる。
それが、今夜の私の仕事だった。
婚約を破棄されても、記録の締め切りは延びない。
椅子に座り、先ほど目に入った支出記録を引き寄せた。
見間違いではなかった。
小麦百二十袋。
王都南部の製粉所へ運び、祝宴用の小麦粉に加工するよう記されている。
納入日は、十八日。
製粉代の支払いは、十七日。
私は二枚の書類を並べた。
製粉所の名前も、数量も一致している。
十七日に挽かれた小麦が、王宮へ届いたのは十八日。
それだけなら、おかしくはない。
だが、納入先の欄に記されていたのは製粉所ではなく、王宮東倉庫だった。
つまり、記録上の小麦は十八日に王宮へ届き、その前日の十七日に、王宮から製粉所へ運ばれている。
存在しない小麦が運ばれ、挽かれ、代金まで支払われていた。
私は納入日の数字へ指を触れた。
紙の表面が、わずかに毛羽立っている。
十八日の「八」の下に、削り取られた別の線が残っていた。
誰かが日付を書き換えている。
王宮の記録を訂正する場合、理由と訂正者の署名を残さなければならない。
欄外に、小さな文字があった。
『記載誤りにつき訂正』
私は燭台を近づけた。
その下に記された署名を、一度読み、もう一度読み直した。
レオン・グラーツ。
つい先ほど、私を役立たずと呼んだ男の名前だった。
私は広間の向こうへ目を向けた。
レオンはセシリア様と並び、バルガス侯爵家の人々に囲まれて笑っている。
その背後を、給仕が焼きたてのパンを載せた籠を持って通り過ぎた。
小麦は、どこから来たのだろう。
いいえ。
本当に、記録された量が届いていたのだろうか。
婚約を失った夜。
私は初めて、婚約者だった男の署名を疑った。
お読みいただき、ありがとうございます。




