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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人
帳簿にいない人々

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29/55

署名した理由

 日没の鐘が鳴り終わる前に、カイルの包帯は半分以上赤く染まっていた。


「先に医務室へ行きます」


「レオンのところへ行くんだろう」


「その前です」


「歩ける」


「歩けるかどうかを聞いているのではありません」


 私が言うと、カイルは黙った。


 ローディス監察官が、わずかに口元を緩める。


「今回は記録係に従ったほうがよさそうだ」


「監察官まで何を」


「君の腕が使えなくなれば、明日から報告書が一枚増える」


「何の報告書ですか」


「負傷を軽視した行政官についての報告書だ」


 カイルは諦めたように息を吐いた。


 王宮医務室へ入ると、年配の医官が吊り布を外し、血のにじんだ包帯を切った。


 焼けた皮膚の上で、閉じかけていた傷が再び開いている。


「何を持ち上げた」


「荷車の枠を少し」


「この腕で?」


「右腕と肩を使いました」


「左腕は身体から外れているのか」


 医官の言葉に、カイルは答えなかった。


 傷を洗う水が赤く染まる。


 彼は顔をしかめたが、声は出さなかった。


「今夜はここから動かすな」


 医官が新しい包帯を巻きながら言う。


「熱が出る可能性もある。次に傷が裂けたら、腕の動きが戻らなくなると思え」


「レオンへの確認が終わるまで——」


「終わるまで、何だ」


 医官が顔を上げる。


「行政官の命令で傷が閉じるなら、私の仕事はいらない」


 カイルはそれ以上言わなかった。


 ローディス監察官が先に部屋を出る。


 私も続こうとすると、カイルに呼び止められた。


「エリナ」


 振り向く。


 彼は右手で腰の小さな鍵束を外した。


 その中から、黒い縁取りのある鍵を一本選ぶ。


「保護室へ入るための臨時鍵だ。監察官に渡してくれ」


「分かりました」


「俺がいないからといって、一人で行くな」


「ローディス監察官と一緒に行きます」


「そうしてくれ」


 私は鍵を受け取った。


 寝台の端に置かれていた外套が床へ落ちかけている。


 拾って枕元へ置くと、カイルがこちらを見ていた。


「何ですか」


「いや」


 彼は目を伏せた。


「戻ってこい」


「確認が終わったら」


「確認の結果に関係なく」


 答えるまで、彼は目をそらさなかった。


「戻ります」


 そう言って、私は医務室を出た。


          *


 レオンが保護されている部屋は、王宮西棟の一階にあった。


 窓には鉄格子がない。


 扉の外には二人の門衛が立っている。


 一人はまだ若く、もう一人も私より少し年上に見えるだけだった。


 二人とも剣を外し、壁際に置いていた。


「なぜ武装を解除しているのですか」


 ローディス監察官が尋ねる。


 年上の門衛が答えた。


「今朝、監察局から通達がありました。我々には、被保護者と不正に接触した疑いがあると」


「誰の通達だ」


「署名はありません。監察官の通行牌を持った者から、口頭で伝えられました」


「その者を部屋へ通したのか」


 二人の顔が強張る。


「はい」


 若い門衛が答えた。


「通行牌を確認しました。番号も入室簿へ記録しています」


 ローディス監察官は何も言わず、カイルから預かった鍵で扉を開けた。


 部屋の中に、レオンは一人で座っていた。


 机の上には、夕食の皿が置かれている。


 パンは半分残り、スープには手をつけた跡がなかった。


 彼は私を見ると、立ち上がった。


「エリナ」


「確認したいことがあります」


 私は挨拶をせず、地下記録庫で見つけた移交票を机に置いた。


 レオンの顔から色が消える。


 視線は、文書の下にある署名へ向けられていた。


「見覚えがありますか」


 長い沈黙のあと、彼は椅子へ座り直した。


「ある」


「あなたの署名ですか」


「ああ」


 ローディス監察官が扉を閉める。


 私はレオンの向かいに座った。


「王宮へ緊急報告を提出しましたか」


「していない」


「でも、署名はした」


「その署名は、私が書いた」


 否定も言い訳もしなかった。


 それがかえって、胸の奥に重く残る。


「何の書類だと思っていたの?」


「ハルト門衛長の件だ」


「毒を盛られたことについて?」


「私が保護される前、財務官として扱った文書の中に、不自然な薬品購入の記録がなかったか。そう聞かれた」


「誰に」


「監察局の人間だと名乗る男に」


 レオンは扉の方を見た。


「そこにいる二人の前で、通行牌を見せた。ローディス監察官の指示だとも言った」


 監察官の表情は変わらない。


「男の顔を覚えているか」


「帽子を深くかぶっていた。三十代か、もう少し上かもしれない。髪は黒に近い。左手に薄い手袋をしていた」


「ほかには?」


「声は低かった。だが、聞き覚えはない」


「書類には、何と書かれていましたか」


 私が尋ねる。


「ハルト門衛長の中毒に関する証言確認。私が過去に扱った支出記録について、覚えている範囲を答えるという内容だった」


「その書類と、この移交票が同じだと?」


「紙の下半分は同じだ」


 レオンが署名欄を指す。


「罫線の位置も、王宮記録局の印も」


「上半分は?」


 彼は答えなかった。


「レオン」


「空白だった」


 部屋の空気が止まる。


「どのくらいの空白?」


「文書名を一つ書き加えられる程度だ」


「危険だと分かっていたでしょう」


「ああ」


 返事は小さかった。


「あなたは財務官だった。空白の残った公文書に署名すれば、あとから何を書かれるか分からない。それでも署名したの?」


「した」


「なぜ?」


 レオンは扉の外を見た。


 そこにいる二人の門衛を見ることはできない。


 けれど、彼が誰のことを考えているのかは分かった。


「男は、あの二人がすでに共犯者として記録されていると言った」


「共犯者?」


「私に外部の人間を接触させ、証拠を持ち込ませた疑いがあると」


「それは事実ではない」


「分かっている」


「なら、なぜ信じたの?」


「信じたわけじゃない」


 レオンは両手を組んだ。


 指先が震えている。


「だが、男は二人の登録番号と家族構成まで知っていた。若い方には病気の母親がいる。もう一人には、まだ幼い娘が二人いる」


「それをどうして、あなたが知っているのですか」


 ローディス監察官が尋ねる。


「ここへ来てから、毎日顔を合わせている。若い方は勤務が終わると、母親の薬を取りに行く。もう一人は、娘が描いた絵を手帳に挟んでいる」


 レオンは自嘲するように笑った。


「閉じ込められていると、それくらいしか見るものがない」


「男は、署名すれば二人の嫌疑を消すと言った?」


「証言確認に応じれば、接触は正式な事情聴取として処理される。二人は命令に従っただけになると」


「拒否した場合は?」


「私を正式な拘禁施設へ移し、二人は職務違反として処分する。その家族への手当も止まると言った」


「だから署名した」


「ああ」


 怒りより先に、疲れが押し寄せた。


 レオンはまた、誰かに用意された道を選んだ。


 書類の危険を知りながら、自分で確かめることをやめた。


 けれど今回は、地位を守るためでも、私を切り捨てるためでもなかった。


「君なら署名しなかっただろう」


 レオンが言った。


「分かりません」


 彼が顔を上げる。


「同じ状況にならなければ、私にも分からない」


「慰めるつもりか」


「違います」


 私は移交票へ手を置いた。


「でも、署名するなら、その結果まで見なければならなかった」


 レオンは黙っている。


「二人を守るために署名したのなら、その署名で百二十人が暴徒にされかけたことも見てください」


 彼の表情が歪んだ。


「百二十人?」


「西区で仕事を待っていただけの人たちです。あなたの署名が付いた報告書では、倉庫を襲った暴徒になっていました」


「知らなかった」


「ええ。でも、署名は残りました」


 私が言うと、レオンは目を閉じた。


 逃げるようにではなく、その言葉を受け止めるように。


「私は昔、君が帳簿しか見ていないと思っていた」


 しばらくして、彼が言った。


「紙の上の数字にしか興味がない、つまらない女だと」


 婚約を破棄された日の声がよみがえる。


 役に立たない記録係。


 人前でそう言われた。


「違った」


 レオンは続ける。


「見ていなかったのは、私の方だ」


 謝罪の言葉を待っていた時期が、私にもあった。


 彼が間違いを認めれば、傷つけられた時間が少しは戻るような気がしていた。


 けれど、何も戻らない。


 戻す必要もないのだと思った。


「今は、あなたが見た人のことを話してください」


 私は言った。


「その男が何をしたのか。どんな癖があったのか。一つでも多く」


 レオンはうなずいた。


「書類を置いたのは右手だった。ペンも右で持っていた」


「左手には手袋?」


「ああ。だが、印泥の箱を閉じるときだけ左手を使った」


「なぜ?」


「分からない。手袋を外さなかったから、怪我を隠していたのかと思った」


「封蝋を扱った跡かもしれない」


 ローディス監察官が言う。


 熱した封蝋を長く扱う者は、指先に火傷を負うことがある。


 王宮文書の封印を担当する職員なら、不自然ではない。


「ほかに覚えていることは?」


「通行牌を見せたとき、表面を指で隠すように持っていた」


「番号は?」


「門衛が記録した」


 ローディス監察官は扉を開け、外の二人を中へ呼んだ。


 門衛たちは緊張したまま、壁際に並ぶ。


「今朝の者を通した責任について、現時点での処分を停止する」


 二人が顔を上げる。


「正式な通行牌を確認し、入室記録を残し、立会いもしている。少なくとも、故意に接触させた証拠はない」


「しかし、我々は」


 年上の門衛が言いかける。


「無実だとはまだ言っていない」


 ローディス監察官の声は厳しかった。


「調査が終わるまで、業務から外れてもらう。ただし、共犯者として拘束はしない。家族手当も止めさせない」


 若い門衛の肩から力が抜けた。


 隣の男は唇を結び、深く頭を下げる。


 レオンは何も言わなかった。


 ただ、その二人を見ていた。


「入室簿を」


 監察官が命じる。


 年上の門衛が廊下の小机から帳簿を持ってきた。


 今朝の欄には、訪問時刻、所属、通行牌番号が記されている。


 所属は王宮監察局。


 訪問目的は中毒事件の事情聴取。


 通行牌番号は、十七の四。


「間違いないか」


「はい。牌の裏側を確認し、自分で記録しました」


 監察官は胸元から銀色の通行牌を外した。


「これと同じ意匠だったか」


「同じです」


「顔は私ではなかったのだな」


「はい。しかし、代理人が使用する場合もありますので」


 監察官は牌を裏返す。


 油灯のそばへ近づけ、刻まれた番号を見る。


 その動きが止まった。


「どうしましたか」


 私は尋ねた。


 監察官は答えず、親指で裏面をこすった。


 古い銀の表面から、細かな黒ずみが落ちる。


 現れた番号は、十七の四ではなかった。


 十七の四十。


「似ていますね」


 若い門衛が言った。


「末尾の零は、汚れていれば見落とすかもしれません」


 ローディス監察官は牌を握ったまま、黙っていた。


「これは、いつからお持ちですか」


「監察官になった日に受け取った」


「番号を確認したことは?」


「最初だけだ」


「そのときは?」


「十七の四だった」


 室内の誰も動かなかった。


 王宮監察官の通行牌は、身分そのものだ。


 持ち主以外が触れる機会はほとんどない。


「では、これは」


「私の牌ではない」


 ローディス監察官が言った。


 今朝、レオンの部屋へ入った男は、十七の四を持っていた。


 そして、本来その番号を持つはずの監察官の胸元には、よく似た別の牌が残されている。


 誰かが偽造したのではない。


 気づかれないように、すり替えたのだ。


「最後に牌を外したのは、いつですか」


 私が尋ねる。


 監察官は目を閉じ、記憶をたどった。


 やがて、ゆっくりと顔を上げる。


「ハルト門衛長が倒れた夜だ」


「どこで?」


「中央財務評議会の医務室」


「そこにいた人は?」


「医官、門衛、それから——」


 監察官の言葉が止まる。


「アルベルト・クロイツ」


 机の上で、移交票の端がわずかに揺れた。


 今まで曖昧な場所に立っていた人物の名前が、初めて記録の中心へ現れた。

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