燃える前の名前
「日没まで、あとどれくらいですか」
私が尋ねると、王宮使節は西の空を見た。
「一刻もない」
地下記録庫で廃棄済みとされた文書は、日没の鐘に合わせて焼却される。
偽の報告書が王宮を動かした。
その報告が誰の手を通って王宮へ入ったのかを示す原本は、まだ燃えていない。
だが、記録の上ではすでに存在しない。
「地下記録庫を確認させてください」
「記録庫は閉鎖中だ」
「だから行くんです」
「確認して、すでに燃えていたら?」
「燃えた時刻を記録します」
使節が私を見る。
「それで何が変わる」
「誰かが、事実を確認される前に証拠を消したことが残ります」
ローディス監察官が、使節の手にある現場確認書を指した。
「あなた自身が、王宮報告と現場の不一致を確認した。その根拠となる文書が、今夜にも焼かれようとしている」
使節は短く息を吐いた。
「馬車を出す」
*
王宮へ続く大通りには、すでに中央財務評議会の兵が配置されていた。
西区から戻ったギルベルトが、先に手を回したのだろう。
王宮使節の馬車であっても、正門へ向かうには二度の検問を通らなければならない。
「このままでは間に合わない」
ローディス監察官が窓の外を見る。
夕日が屋根の端へ沈みかけていた。
「北棟の裏に、文書搬入口があります」
カイルが言った。
「古い帳簿を荷車で運び込むための坂道です。外門は門衛隊、中は王宮記録局の管轄になっている」
使節が御者に行き先を変えさせた。
馬車は大通りを外れ、王宮北側の細い石畳へ入る。
装飾のない低い門の前に、空の荷車が二台並んでいた。
門を守る兵は、使節の銀章を見ても道を開けなかった。
「記録庫管理官の命令により、搬入口は閉鎖されています」
「王宮裁定に関する文書の確認だ」
「いかなる者も通すなと命じられています」
使節は、西区で作成したばかりの現場確認書を差し出した。
「ならば、ここに名を書け」
兵の顔がこわばる。
「何の名でしょうか」
「王宮報告と現場の事実が一致しないことを知ったうえで、原本の確認を拒んだ者の名だ」
兵は確認書を見た。
倉庫に損壊なし。
労働者に武装なし。
暴動の事実を確認できず。
そこには使節本人の署名がある。
「中に職員は残っているか」
「分かりません」
「今朝から誰か出てきたか」
兵は首を横に振った。
「誰も」
「王宮使節の立会いのもと、内部に残された職員の安否を確認する。開けろ」
今度は兵も拒まなかった。
太い錠が外される。
門の向こうには、地下へ続く緩い坂道があった。
石壁には油灯が掛けられ、湿った空気の中に、古い紙と防虫用の薬草の匂いが混じっている。
坂道の先にある鉄扉は、内側から閂が下ろされていた。
カイルが扉へ耳を当てる。
「誰かいる」
使節が扉を叩いた。
「王宮使節だ。内部の者は返答しろ」
紙を動かすような音が止まる。
しばらくして、男の声が聞こえた。
「何名ですか」
「四名だ。私とローディス監察官、北部行政官カイル・レグナード、それから記録係のエリナ・ヴァルト」
私の名が告げられた直後、閂が動いた。
扉がわずかに開く。
隙間から、痩せた男がこちらを見た。
四十代半ばだろうか。
袖口には墨が染みつき、右手の指先は乾いてひび割れている。
「エリナ・ヴァルトさんですね」
「そうです」
「間に合った」
男は私たちを中へ入れ、再び搬入口の閂を下ろした。
「あなたが伝言を?」
「ユリウス・フェン。王宮記録局の抄写係です」
「なぜ私の名前を知っているのですか」
「あなたが北部から提出した月次帳簿を、何度か清書しました」
私には彼の名前に覚えがなかった。
帳簿の下端に、抄写係の番号が残るだけだったからだ。
「私が訂正印を付けた帳簿を、あなたはそのまま返してきた」
「訂正印?」
「多くの担当官は、清書に不要だと言って削らせます。自分の帳簿に、抄写係の手が入ったことを残したくないのでしょう」
ユリウスは私をまっすぐ見た。
「あなたは消さなかった。次の提出分には、修正理由まで書き添えた」
忘れていた。
私にとっては、間違いを直した者の記録を残しただけだった。
だが、彼は覚えていた。
「それで、私に?」
「自分の名が残らなくても、訂正が残る帳簿なら信じられると思いました」
遠くで金属の蓋が閉まる音がした。
ユリウスが奥を振り返る。
「急いでください」
「ほかにも人がいるのですか」
「廃棄係が三人、正面側から入っています。管理官の命令書を持っていました」
「あなたが閉じたのは?」
「この搬入口だけです。焼却を止めようとしましたが、抄写係に命令を止める権限はありません」
地下記録庫には、王宮内部から通じる正面入口と、帳簿を運び込む搬入口がある。
ユリウスは正面側の作業を止められないまま、こちら側の扉を閉ざし、私たちを待っていたのだ。
*
天井近くまで届く木棚が、奥へ向かって何列も並んでいた。
棚の端には年代と保管区分が記され、布紐で綴じた文書が隙間なく収められている。
ユリウスは油灯を持ち、北棟の第三列へ進んだ。
「四十二号ですね」
「その番号には、もうありません」
彼が指した棚は空だった。
「焼かれたのですか」
「いいえ。最初から、ここに原本は入っていませんでした」
ローディス監察官が眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「王宮へ届いたのは写しです。それが原本として登録されました」
ユリウスは棚の奥から薄い検査票を抜き取った。
紙質、封蝋、折り方、添付書類の数を確認するためのものだ。
「報告書には、中央財務評議会の原本を示す透かしがありませんでした。通常なら受領できません」
「それでも受け入れた?」
「王都四門が閉ざされ、西区で暴動が起きたという緊急報告でした。照合を待てば被害が広がると押し切られたのです」
「誰が持ち込んだのですか」
「提出者は受領書に残っています」
「その受領書は?」
「報告書と同じ箱へ移されました」
「それなら、なぜ先に取り出さなかったのですか」
私が尋ねると、ユリウスは首を横に振った。
「私が受領書を持ち出せば、あとから作った偽物だと言われます」
彼は奥にある黒い帳簿へ視線を向けた。
「だから原本には触れず、規則どおり移交目録に記録しました。どの文書が、誰から提出され、どこへ移されたのか。それなら私一人の証言ではなく、王宮記録局の正式な記録として残せます」
遠くから鐘が一度鳴った。
日没ではない。
焼却準備の合図だった。
「こちらです」
ユリウスが足を速める。
通路の先から熱い空気が流れてきた。
*
石造りの焼却室では、すでに炉に火が入っていた。
灰色の作業服を着た三人の廃棄係が、文書箱を荷車から下ろしている。
「作業を止めろ」
王宮使節が銀章を掲げた。
「王宮裁定に関する文書を確認する」
廃棄係たちは顔を見合わせた。
「ですが、管理官の命令が」
「責任は私が負う。止めろ」
三人が荷車から離れる。
一番奥の荷車には、赤い札が下がっていた。
緊急廃棄。
「あれが四十二号です」
ユリウスが駆け寄る。
荷車には、複数の文書箱が積まれていた。
北部救済物資輸送記録。
第七備蓄制度設立時資料。
オスカー・ベルン提出異議書。
私は札を追った。
ミリア・ソーン臨時雇用記録の名も、移送票にはある。
しかし、それに対応する箱だけが見当たらない。
「ミリアの記録は?」
ユリウスが荷車を確認する。
「今朝、ここへ移されたはずです」
「ありません」
「移交目録では、どこへ?」
「焼却室です」
記録上はここにある。
だが、実物がない。
誰かが焼却前に持ち出したのだ。
「あとで確認します。今は四十二号を」
ユリウスが荷車の留め具へ手を伸ばす。
「待って」
カイルが低い声を出した。
彼は荷車の右側へしゃがみ込む。
左腕は布で吊られたままだ。
「車輪止めがない」
石床には、荷車を固定する木片を差し込む溝があった。
左の車輪には留め木が残っている。
右側だけ、空だった。
「外れたのですか」
「抜かれている」
カイルが床を指した。
木片を引きずった細い跡が、炉の裏へ続いていた。
「荷を下ろそうとすれば、炉の方へ傾くようになっている」
事故ではない。
誰かが、文書を取り戻そうとする者が現れたときのために、仕掛けていた。
「別の留め木を」
廃棄係の一人が壁際へ走る。
そのとき、焼却炉の中で薪が崩れた。
火の粉が噴き出す。
驚いた廃棄係が荷車の縁へ触れた。
右の車輪が動く。
「離れろ!」
カイルが叫んだ。
荷車が傾いた。
上段の箱が一斉に崩れ落ちる。
ユリウスが私を突き飛ばした。
次の瞬間、倒れた木箱と荷車の枠が、彼の足を挟んだ。
「ユリウスさん!」
開いた箱から文書が滑り落ちる。
北部の輸送記録が炉の前へ散り、紙端に火が移った。
四十二号の箱も荷車から落ち、蓋が開いている。
「受領書を!」
ユリウスが叫ぶ。
あと数歩だった。
走れば、まだ一部は取り戻せる。
だが、彼の上には重い荷車の枠が乗っていた。
顔から血の気が引いている。
「文書を先に……」
私は燃え始めた箱を見た。
それから、ユリウスの手をつかんだ。
「カイル、こちらを」
カイルは何も言わず、荷車の枠へ身体を入れた。
右腕と肩で押し上げる。
吊られた左腕の包帯に、赤い染みが広がった。
「今だ」
ローディス監察官と私で、ユリウスを引きずり出す。
使節も倒れた木箱を押しのけた。
ユリウスの足が枠の下から抜ける。
背後で紙の燃える音がした。
振り返ったときには、北部救済物資の輸送記録と、第七備蓄制度の設立資料が炎に包まれていた。
四十二号の箱にも火が回っている。
オスカーの異議書は床へ落ち、半分だけが燃えていた。
私は火の届いていない封底をつかみ、踏みつける。
文字の大半は失われた。
それでも、提出番号と受付印は残った。
ミリアの記録は、最初からこの場所になかった。
「すみません」
ユリウスがかすれた声で言った。
「守れませんでした」
「謝らないでください」
「でも、記録が」
「あなたが生きていなければ、誰がこの記録を見たと証明するんですか」
私はユリウスの足を確かめた。
骨は折れていないようだが、自力では立てない。
カイルが壁へ背を預ける。
包帯から落ちた血が、石床に小さな染みを作っていた。
「カイル」
「先に帳簿を」
「そのあと、必ず傷を見せてください」
「ああ」
返事は短かった。
ユリウスは焼却室の隅にある机を指した。
「あそこに、黒い表紙の帳簿があります」
使節が一冊の帳簿を持ってくる。
「移交目録です」
ユリウスが言った。
「廃棄登録が入る前に、対象文書の出所、提出者、受領時刻、移動先を記録しました」
原本は焼くことができる。
しかし、それをどこへ移したかという記録は、処分後も残さなければならない。
処分するためにも、記録が必要だった。
私は黒い帳簿を開いた。
今日の日付。
第二の鐘の前。
緊急報告書一通。
中央財務評議会より受領。
王宮裁定室へ移交。
提出者の欄に書かれた名前を見て、指が止まった。
――レオン・グラーツ。
「レオン?」
ローディス監察官が帳簿をのぞき込む。
「彼は保護下にいる。今朝も二人の監視が付いていたはずだ」
「同姓同名では?」
使節が尋ねる。
私は首を横に振った。
名前の横には、旧財務官の登録番号まで記されている。
「提出者の確認は、名前だけですか」
「いいえ」
ユリウスが答える。
「移交票にも、本人の署名を求めます」
「その移交票は?」
「四十二号の箱に」
もう燃えている。
手を伸ばしても届かない。
そのとき、廃棄係の一人が床を指した。
「これではありませんか」
荷車が傾いたとき、箱の底から滑り出したのだろう。
細長い紙が、炉から離れた石壁の下に落ちていた。
使節が拾い、私へ渡す。
報告書の受領時刻。
提出先。
文書の枚数。
そして、提出者の署名。
レオン・グラーツ。
婚約を破棄された日、彼が残した署名を私は何度も見た。
以前使われた空白署名も、それと同じだった。
けれど、これは違う。
文字の傾きがわずかに深い。
最後の一画には、彼が急いで書くときの癖が出ている。
古い署名を切り取り、貼りつけたものではない。
誰かが形だけをまねた筆跡でもない。
今朝、レオン自身が書いた署名だった。
だが、その時刻、彼には二人の監視が付いていた。
王宮へ来られるはずがない。
日没の鐘が、王宮の上で鳴り始めた。
私は移交票を閉じる。
「レオンに会います」
彼が何に署名したのか。
それを知っているのは、まだ本人だけだった。
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