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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人


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王宮が信じた記録

 第四の鐘が鳴る前に、王宮の使節が中央財務評議会へ入ってきた。


 彼が差し出した書簡には、赤い王印があった。


 ギルベルトは封を切り、内容を確かめる。


 そして、最初の命令を下した。


「西区を封鎖しろ」


 控えていた門衛たちが動き出す。


「報告にある百二十名を、事情確認のため拘束する。四門と備蓄倉庫は、ただちに中央財務評議会の管理下へ移せ」


「待ってください」


 声を上げたのは私だった。


 ギルベルトが書簡から顔を上げる。


「何を待つ」


「その百二十名は、暴徒ではありません」


「暴徒かどうかを確認するために拘束する」


「先に拘束すれば、その時点で王都の人々は彼らを暴徒だと思います」


「それを決めるのは、記録係ではない」


 ギルベルトは書簡をたたんだ。


「王宮の裁定だ」


 ローディス監察官が使節へ歩み寄る。


「裁定の内容を確認したい」


 使節がうなずき、書簡を受け取った。


「王都における混乱を防ぐための暫定措置です。事実確認が完了するまで、四門、備蓄倉庫、食糧価格に関する管理権を中央財務評議会へ委ねる、とあります」


「第七備蓄制度の発動ではないのですね」


「違います」


 ノーラが小さく息を吐いた。


 私たちは第七備蓄制度の登録を止めた。


 ギルベルトの署名も、命令にはならなかった。


 それでも敵は、先に王宮へ送った報告を使い、別の道から同じ権限を手に入れた。


「裁定の根拠となった報告書はありますか」


 私が尋ねると、使節は一枚の写しを取り出した。


 ローディス監察官を経て、私の手に渡る。


 紙には、すでに知っている未来が並んでいた。


 王都四門の閉鎖。


 西区備蓄倉庫への襲撃。


 ハルト門衛長の負傷。


 第七備蓄制度の発動準備。


 そして、西区で騒乱を起こしたとされる者の数。


 百二十名。


 以前見つけた帳簿と同じ数字だった。


「この報告書が王宮へ届いたのは、いつですか」


「第二の鐘の直後だ」


 使節が答える。


 早すぎる。


 そう思った。


 だが、手元には労務所の原簿がない。


 百二十人がいつ集められたのか、正確な時刻までは証明できなかった。


「記載に疑問があります」


「異議があるなら、王宮へ申し立てればいい」


 ギルベルトが言った。


「それまでの間、裁定は有効だ」


 彼は扉の外へ向かって手を上げる。


「執行しろ」


 門衛たちが走り出した。


 私も報告書を持ったまま、そのあとを追った。


「エリナ」


 振り向くと、カイルが立っていた。


 左腕はまだ布で吊られている。


「西区へ行くんだろう」


「でも、その腕では」


「剣を振りに行くわけじゃない」


 カイルは王宮使節へ視線を向けた。


「報告には倉庫への襲撃があったと書かれている。ならば現場に、門衛隊の記録が残っているはずだ」


 使節の目が細くなる。


「現場記録か」


「倉庫が襲われれば、最初に到着した門衛が、時刻、損壊箇所、負傷者を記録します。それがないまま拘束すれば、順序が逆です」


 ギルベルトは答えなかった。


 使節はしばらく彼を見たあと、連れていた騎士に命じた。


「馬車を出せ。私も現場を確認する」


          *


 西区へ近づくほど、通りから人影が消えていった。


 店の扉は閉まり、住民たちは窓の隙間から外を見ている。


 倉庫前の広場には、百人を超える労働者が集められていた。


 その周囲を門衛隊が囲んでいる。


 暴徒と呼ばれた人々は、武器を持っていなかった。


 ある者は木札を握り、ある者は受け取ったばかりの黒パンを布に包んでいた。


 若い男の足元には、踏まれたパンが一つ落ちている。


「全員、膝をつけ!」


 門衛が怒鳴った。


 人々の間に動揺が走る。


 後ろにいた女が、小さな子どもを背へ隠した。


 それでも、すぐには誰も膝をつかなかった。


 前列にいた白髪交じりの男が、一歩だけ前へ出る。


 労務所の前で、最初にパンを受け取った男だった。


「俺たちは、何を壊したことになっている?」


 門衛は答えない。


 男は倉庫を見上げた。


 扉は閉じたままだった。


 錠も外れていない。


 壁には石を投げられた跡さえない。


「襲ったっていう倉庫は、あれか」


「下がれ」


「俺たちは、まだ工賃も受け取っていない」


 男が木札を掲げる。


「パンを一つもらって、ここで待てと言われただけだ」


 ギルベルトが馬から降りた。


「報告に基づき、全員を拘束する。抵抗すれば、王都の治安を乱す意思があるものと見なす」


 それを聞いた労働者たちがざわめく。


 後ろから押された男が一歩前へ出た。


 若い門衛が反射的に剣へ手をかける。


「抜くな」


 カイルの声が飛んだ。


 低い声だったが、門衛の手が止まった。


 カイルは広場を囲む者たちを見回した。


「ここは戦場ではない。相手は武装していない」


「しかし、副門衛長の命令です」


「ならば先に、襲撃の現場記録を出せ」


 門衛たちの間に沈黙が落ちる。


「最初に到着したのは誰だ」


 誰も答えない。


「扉の損壊を確認した者は?」


 手は上がらなかった。


「負傷者を運んだ者は?」


 やはり、誰も動かなかった。


 カイルは閉ざされた倉庫を見た。


「記録がないんじゃない。記録する出来事が起きていないんだ」


 使節が騎士へ命じた。


「倉庫を確認しろ」


 二人の騎士が扉と錠、外壁を調べ始める。


 ギルベルトは止めなかった。


 止める必要がないと思っているようだった。


「倉庫が無事でも、人が集まっていた事実は変わらない」


「集まっただけで暴徒になるのですか」


 私が尋ねる。


「報告には、襲撃を目的に集結したとある」


「その報告は、いつ作られたのですか」


「王宮へ聞け」


「では、ここにいる人たちが、いつ集められたのか確認します」


 私が辺りを見回したとき、広場の向こうから声が上がった。


「エリナさん!」


 ノーラだった。


 息を切らし、胸に一冊の帳簿を抱えている。


 後ろにはセヴランもいた。


 顔色は悪い。


 それでも片手で壁を支えながら、自分の足で歩いてきた。


「労務所の原簿です」


 ノーラが帳簿を石台の上へ置く。


「持ち出しには管理官の許可が必要だったはずだ」


 ギルベルトが言う。


「非常時には、担当記録官が原簿を保全できます」


 ノーラの声は震えていた。


 それでも帳簿から手を離さない。


「私は、これを失わせません」


 表紙には労務所の印が押されていた。


 頁を開く。


 労働者の名前、職種、受付時刻。


 最初の一人が登録されたのは、第三の鐘から四分後。


 最後の一人は、その半刻後だった。


「王宮で報告書を受領したのは、第二の鐘の直後でしたね」


 私は使節に確かめた。


「ああ」


「間違いありませんか」


「受領記録は私も確認した」


 私は二つの記録を並べた。


 一方は、第二の鐘の直後に王宮へ届いた報告。


 もう一方は、第三の鐘以降に書かれた労務所の原簿。


 報告書には、こうある。


 ――西区において、百二十名の暴徒が備蓄倉庫を襲撃。


「この報告書が王宮へ届いたとき、この人たちはまだここにいませんでした」


 ギルベルトの視線が原簿へ落ちる。


「雇用予定者の人数を、あらかじめ把握していたのだろう」


「雇用予定者と暴徒は、同じ意味ではありません」


「報告時刻の記載違いかもしれない」


「それなら、正しい時刻を記録した原本を出してください」


 ギルベルトは答えなかった。


 風が帳簿の頁をめくる。


 百二十人の名前が並んでいた。


 石工。


 荷運び人。


 屋根職人。


 夫を亡くし、二人の子を養っている女。


 北区から仕事を探しに来た老人。


 王宮へ送られた報告書には、誰の名前もない。


 ただ「百二十名の暴徒」とだけ書かれている。


「この人たちが暴徒になったのは、現実の中ではありません」


 私は報告書を押さえた。


「この報告書の中だけです」


 広場が静まり返る。


 王宮使節が、原簿の受付時刻を一つずつ確認する。


 騎士たちも倉庫の調査を終えて戻ってきた。


「扉、錠、外壁に損壊はありません。侵入の痕跡もありません」


「門衛隊の現場記録は?」


 使節が尋ねる。


 門衛の一人が首を振った。


「作成されていません」


「負傷者は?」


「確認できません」


 使節はしばらく目を閉じた。


 やがて騎士から板と紙を受け取り、自ら筆を取った。


 ――西区備蓄倉庫に損壊なし。


 ――集結した労働者に武装なし。


 ――襲撃および暴動の事実を確認できず。


 最後に、時刻と署名を書き入れる。


「王宮の暫定裁定は、私の権限では撤回できない」


 使節が言う。


「四門と備蓄倉庫の管理権も、現時点では中央財務評議会にある」


 労働者たちの顔から緊張は消えない。


「しかし、この百二十名を暴徒として扱う根拠は確認できなかった。事情確認を理由とした一括拘束は認めない」


 ギルベルトの表情が消えた。


「王宮の報告を否定するつもりですか」


「否定しているのは私ではない」


 使節は無傷の倉庫を見た。


「ここにある事実だ」


 門衛たちが互いを見る。


 最初に剣の柄から手を離したのは、先ほどの若い門衛だった。


 続いて、ほかの者たちも包囲を解いていく。


 白髪交じりの男は、まだ木札を握っていた。


「帰っていいのか」


「本日は解散しろ」


 使節が答える。


「ただし、木札と工賃証書は保管しておけ。後日の確認に必要になる」


「言われなくても捨てない」


 男は木札を懐へ戻した。


 地面に落ちていたパンを若い男が拾う。


 表面の土を払い、二つに割った。


 片方を、子どもを連れた女へ渡す。


 歓声は上がらなかった。


 人々はまだ、自分たちが助かったと信じきれていない。


 それでも一人、また一人と広場を離れていった。


 名簿の上では百二十名だった人々が、それぞれの足で、それぞれの家へ帰っていった。


          *


「これで終わったと思わないことだ」


 人影の減った広場で、ギルベルトが言った。


「王宮の裁定は有効だ。門も倉庫も、今は私たちの管理下にある」


 彼の言うとおりだった。


 救えたのは、今日ここにいた百二十人だけだ。


 ギルベルトには、まだ命令を出す権限がある。


 彼は部下を連れ、広場を去っていった。


 その背中に焦りは見えなかった。


 この場で報告の矛盾が見つかることさえ、最初から承知していたように見えた。


「報告書の原本を確認する必要があります」


 私は使節へ向き直った。


「王宮へ届いた原本は、どこに保管されていますか」


「地下記録庫だ」


「今から確認できますか」


「それは難しい」


「なぜですか」


「今朝、記録庫が閉鎖された。保管文書の緊急点検だと聞いている」


 ローディス監察官が眉を寄せる。


「誰の命令だ」


「王宮記録庫の管理官だ」


「報告書が疑われる日に、原本を保管した記録庫を閉じたのですか」


 使節は答えず、外套の内側から小さく折った紙を取り出した。


「王宮の抄写係から預かった」


「誰宛てですか」


「エリナ・ヴァルト。君だ」


 私の名を知らないはずの人間からの伝言だった。


 紙を開く。


 文章は短い。


 ――原本は燃えていない。


 その下に、王宮地下記録庫の保管番号が記されていた。


 北棟地下、第三列、四十二号。


 それだけなら、原本の所在を示す記録だった。


 けれど、保管番号の末尾には赤い線が引かれている。


 王宮記録庫で、廃棄処理を示す線だ。


「この印は、いつ付けられたのですか」


「今朝だ」


「原本はまだ燃えていないのに?」


「廃棄の登録だけが先に行われたらしい」


 私は紙を握り直した。


 偽の報告書は王宮を動かした。


 その一方で、本物の報告書は、まだ存在しているうちに廃棄済みと記録された。


 物が消えるより先に、記録の中から存在を消される。


 人を暴徒にしたときと、同じやり方だった。


「廃棄が実行されるのはいつですか」


 使節は王宮の塔を見た。


「日没だ」


 西の空は、すでに赤くなり始めていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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