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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人
まだ起きていない暴動

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26/55

まだ書かれていない署名

第三鐘が鳴り終わる前に、私たちは門衛本部を出た。


ギルベルト・ノインは、正式な職務代理者になった。


昨夜の署名は無効でも、今日の日付でもう一度書けばいい。


今度は、正しい権限で。


第七備蓄制度の承認が城門と倉庫へ送られる前に、中央財務評議会へ入らなければならない。


カイルは片手で馬へ乗ろうとした。


「その腕では無理です」


「乗れる」


「落ちたときに、受け身が取れません」


結局、彼は門衛の後ろへ乗った。


不満そうな顔をしていたが、言い争っている時間はなかった。


「正面玄関は使えない」


馬が走り出すと、カイルが言った。


「緊急決裁中なら、評議会は外部の出入りを止めているはずだ」


「別の入口があるんですね」


「地下の搬入口だ。北部から救済物資を届けたとき、一度だけ通った」


私たちは中央財務評議会の裏手へ回った。


同行するのは、私とカイル、ローディス監察官、セヴラン、二人の監察官。


大人数では、かえって目立つ。


評議会の建物は、王都中央区の高台にある。


正面には白い石の階段。


背後には、物資搬入用の低い建物が続いていた。


カイルが案内したのは、そのさらに裏側だった。


古い排水路の脇に、鉄で補強された木の扉がある。


扉には鍵がかかっていたが、地下倉庫へ物資を運び込む荷車が一台止まっていた。


作業員が扉を開けたところで、ローディス監察官が身分証を示す。


「監察局の緊急確認だ」


「今は、評議会の許可がない者を通すなと……」


「第七備蓄制度に関する証拠保全だ。拒否するなら、氏名と命令者を記録する」


作業員は迷った。


けれど、自分の名が監察記録に残ると聞き、扉から退いた。


地下通路は狭く、冷えていた。


石壁の下に、白い粒が落ちている。


指で触れると塩だった。


少し先には、重い樽が擦った黒い跡が続いている。


灯油の匂いも残っていた。


壁際には、切られた赤い封紐が落ちている。


北部の救済物資に使われていたものと同じ色だ。


「間違いありません」


私は赤い紐を拾った。


「北部から移された物資は、ここを通っています」


「ここに保管しているのか」


ローディス監察官が尋ねる。


「いいえ」


セヴランが答えた。


「ここは、各地へ送る物資の受領記録を作る場所です」


物資は、王都にある複数の倉庫へ送られる。


けれど帳簿の上では、一つの場所へ納められたことになる。


第七備蓄庫は建物ではない。


帳簿の中にだけ存在する倉庫だ。


通路の先に階段があった。


上から、複数の声が聞こえる。


「西側の帳簿はまだか」


「時刻は第三鐘で統一しろ」


「門衛用の実行副本を先に作れ」


すでに作業が始まっている。


カイルが右手を上げ、私たちを止めた。


「俺と監察官が先に出る」


「戦わないと言いましたよね」


「身分証を見せるだけだ」


彼は階段を上がった。


上には二人の警備兵がいた。


一人が剣の柄へ手を伸ばす。


すぐにローディス監察官が前へ出た。


「王国監察局だ。緊急決裁室を確認する」


「ギルベルト職務代理者から、誰も通すなと命じられています」


「その命令を記録した書類は?」


警備兵は答えられなかった。


口頭で命じられただけらしい。


「書面のない命令で監察を妨害するなら、その事実も記録する」


二人は顔を見合わせた。


それでも、すぐには道を空けない。


「通せ」


廊下の奥から声がした。


アルベルト・クロイツ評議官が立っていた。


灰色の上着。


乱れのない髪。


以前と変わらない、感情の読めない顔だ。


「ここへ来ると思っていました、エリナ・ヴァルト」


「なぜですか」


「あなたは、書かれたものをそのまま信じない」


アルベルト評議官は警備兵へ目を向けた。


「監察官を止めれば、あとで面倒になる。通しなさい」


警備兵たちが退く。


味方をしてくれたわけではない。


止めるより、近くで見ていたほうが都合がいいと判断しただけかもしれない。


私たちは彼の後ろを進んだ。


緊急決裁室の前には、三羽鳥の印が押された封鎖札が貼られていた。


アルベルト評議官が自分で札を剥がす。


重い扉の向こうに、長い机があった。


机の上には、数冊の台帳と三通の承認書。


奥に立っている男が、こちらを振り返った。


四十歳前後。


門衛の制服を着ているが、胸元には司令官代理の徽章が付いている。


ギルベルト・ノイン。


彼の右手には、まだ乾いていない筆が握られていた。


「遅かったな」


机の上に、王都非常備蓄制度発動承認書が置かれている。


王庫財務執行官の欄には、レオン・グラーツ。


王都門衛司令官の欄には、ギルベルト・ノイン。


今度の署名には、今日の日付と第三鐘の時刻が記されていた。


正しい権限。


正しい日付。


正しい時刻。


「まだ終わっていません」


私は言った。


中央財務評議官の欄だけが、空白だった。


アルベルト・クロイツの署名はない。


ギルベルトが彼を見る。


「評議官。門衛司令官は倒れ、西区では騒乱が起きた。これ以上、何を確認する必要がある」


「西区で騒乱は起きていません」


私が答えた。


「あなたには聞いていない」


「ですが、私は現場を見ました」


「王国の正式報告では、百人を超える暴徒が市場を占拠したことになっている」


ギルベルトは別の書類を持ち上げた。


「穀物商の窓が破壊され、武装した集団が集まった。門衛が出動しなければ、被害はさらに広がっていた」


「窓を壊したのは、集団に紛れ込んでいた煽動者です」


「証拠は?」


「捕らえた者がいます」


「背後の命令者について、供述は得たのか」


私は答えられなかった。


市場で捕らえた男たちは、まだ誰の命令で動いたのか話していない。


ギルベルトの口元に、薄い笑みが浮かぶ。


「疑いだけで王都を危険にさらすことはできない」


それは昨日、北門の守備官が口にした言葉と似ていた。


けれど意味は逆だ。


北門の守備官は、根拠なく命令へ逆らえないと言った。


ギルベルトは、根拠が確定する前に王都を封鎖しようとしている。


「ノーラ」


彼が呼んだ。


長机の端に、一人の若い女性が座っていた。


二十歳を少し過ぎたくらいだろう。


茶色い髪を後ろで結び、財務局の記録官服を着ている。


その前には、発動登記簿が開かれていた。


「門衛司令官代理の承認を登録しろ」


ノーラは筆を取った。


指が震えている。


「待ってください」


私は机へ近づいた。


ギルベルトが警備兵へ目を向ける。


だが、カイルと二人の監察官が扉の前へ立った。


カイルは剣を抜けない。


それでも道を塞ぐことはできる。


「承認書に署名があっても、発動登記簿へ記載され、時刻印と立会官の確認を受けなければ、城門や倉庫へ実行副本を送ることはできません」


私はノーラを見る。


「あなたが登録するんですね」


彼女は小さく頷いた。


「命令された内容を記録するだけです」


「旧印刷工房にあった帳簿を知っていますか」


ノーラの筆が止まった。


その反応を、私は見逃さなかった。


「何のことでしょう」


「北部救済事業、王都門衛費、市場管理費。明日以降の日付まで記された十二箱の帳簿です」


ノーラの顔から血の気が引いた。


ギルベルトが机を叩く。


「無関係な話だ。登録を続けろ」


「無関係ではありません」


私は昨日作成した現認記録を取り出した。


旧印刷工房の所在地。


十二箱の管理番号。


未来の日付が記された頁。


用紙の右下にある、途切れた枠線。


「この帳簿を作ったのは、あなたですか」


ノーラは答えない。


「答える必要はない!」


ギルベルトが声を荒らげる。


その声に、ノーラの肩が震えた。


やがて彼女は、小さく答えた。


「一部だけです」


部屋の中が静かになる。


「私は、数字と日付を清書しました。非常時に備えた演習用の見本だと聞かされて……」


「演習用の見本に、正式な支出番号は付けません」


私は現認記録を彼女の前へ置いた。


「受領印も必要ありません。実在する商会名も、実際の命令番号も書かないはずです」


ノーラが紙を見る。


「この番号は……」


「あなたが書いたものですか」


「はい」


掠れた声だった。


「ですが、練習用だと……実際には使わないと」


「その帳簿には、西区の暴動が記されていました」


私は市場で作成した記録も並べた。


集まった百二十人。


用意されていた灰色の外套。


木製警棒。


支払われなかった賃金。


市場の窓を割った煽動者。


「暴動は起きませんでした。集まった人たちは、穀物店へ押し入っていません」


「だが、窓は壊された」


ギルベルトが言う。


「未来の帳簿には、窓が壊される前から損害補償費が記されていました」


私はノーラを見た。


「あなたが今、この承認を登録すれば、まだ起きていないことを事実として書いた帳簿が、正式な記録になります」


ノーラは発動登記簿へ視線を落とした。


筆先から墨が一滴落ちる。


白い紙に、黒い染みが広がった。


「早く書け」


ギルベルトが命じる。


「これは王都を守るためだ」


「何から守るんですか」


ノーラが尋ねた。


ギルベルトの表情が止まる。


「西区では暴動が起きていない。北門も閉じていない。それなのに、何から守るんですか」


「お前は命令に従えばいい」


「私も、そう思っていました」


ノーラは震える手で筆を置いた。


「演習用の帳簿を作るだけだと。命じられた数字を写すだけだと」


彼女が私を見る。


「ですが、私が書いた帳簿が、本物として使われるんですね」


私は頷いた。


「書いた人の名前は、命令した人の名前より長く残ることがあります」


ノーラは、しばらく動かなかった。


やがて発動登記簿の空白行へ、筆を下ろした。


ギルベルトの名前ではない。


彼女は、一行ずつ書いた。


――西区騒乱および王都四門閉鎖の事実を確認できず。


――発動承認の登録を留保する。


その下に、自分の名を書く。


ノーラ・フェル。


彼女が今日初めて、自分の意思で残した記録だった。


ギルベルトが立ち上がる。


「職務命令違反だ」


「そうかもしれません」


「ならば、その筆を渡せ」


彼が登記簿へ手を伸ばす。


だが、アルベルト評議官が、その上へ手を置いた。


「登録官が事実未確認と判断した以上、あなたが自分で記入することはできません」


「評議官」


「発動登録には、登録官と立会官の確認が必要です」


「あなたが立ち会えばいい」


「私は、中央財務評議官としての承認すらしていない」


アルベルトは、空白の署名欄を示した。


「なぜ署名しない」


「必要な事実が確認されていないからです」


「王都が混乱してからでは遅い!」


「だからこそ、確認できない報告には署名しない」


アルベルトの口調は変わらない。


彼が私たちの味方なのかは、まだ分からない。


責任を負いたくないだけかもしれない。


状況がどちらへ転ぶか、見極めているだけかもしれない。


それでも今、彼は署名しなかった。


その事実だけは残る。


「登録官ノーラ・フェル」


ローディス監察官が言った。


「事実確認が終わるまで、登録を留保すると証言しますか」


「はい」


「アルベルト・クロイツ中央財務評議官。発動承認への署名を留保しますか」


「留保します」


ローディス監察官は新しい用紙を開いた。


ノーラとアルベルトの証言。


発動登録が完了していないこと。


城門および倉庫への実行副本が発行されていないこと。


その場にいる者の名。


一つずつ書き残す。


「ギルベルト・ノイン」


ローディス監察官が顔を上げた。


「偽造された騒乱記録を用いて非常制度を発動させようとした疑いがある。監察確認が終わるまで、第七備蓄制度に関する新たな署名、登録および命令発行を停止する」


「門衛司令官代理の権限を止めるつもりか」


「門衛の通常指揮権には触れない」


ローディス監察官は答えた。


「停止するのは、非常制度に関する文書の発行だけだ。この部屋には監察官を二人残す」


「私を監視するのか」


「記録を守るためだ」


ギルベルトは周囲を見回した。


警備兵たちは動かなかった。


ノーラが筆を置き、アルベルト評議官も署名しない以上、第七備蓄制度は発動できない。


承認書は登録されなかった。


ギルベルトの署名は、城門を閉じる命令にはならなかった。


倉庫を接収する実行副本にもならなかった。


今度こそ、私たちは間に合った。


「無駄だ」


ギルベルトが言った。


先ほどまでの余裕は、その声から消えていた。


「何がです」


「一人の記録官が筆を置いたところで、王宮の判断は変わらない」


王宮。


私は机の上を見た。


承認書。


門衛費の帳簿。


物資受領記録。


その端に、一冊の発送簿が置かれている。


開かれていた頁には、今朝送られた文書が並んでいた。


中央倉庫への指示。


西門への追加命令。


王城警備隊への報告。


そして、王宮。


「これは……」


私は発送簿を引き寄せた。


――王都非常事態報告。


発送時刻、第一鐘。


王宮受領、第二鐘。


第三鐘が鳴るより前。


ハルト司令官が倒れるより前に、すでに王宮へ届いている。


報告内容を確認する。


王都四門、閉鎖済み。


西区暴動、発生。


門衛司令官、襲撃により重傷。


第七備蓄制度、発動準備完了。


事実は一つも書かれていなかった。


四つの門は閉じられていない。


西区の暴動も起きなかった。


ハルト司令官は襲撃ではなく、移送中に毒で倒れた。


第七備蓄制度は、今ここで止めた。


けれど王宮には、すべて完了したものとして届いている。


「誰が、この報告を作ったんです」


私は尋ねた。


ギルベルトは答えない。


発送者の欄には、個人名がなかった。


中央財務評議会。


三羽鳥の共通印だけだ。


「評議官」


私はアルベルトを見る。


「この報告を承認しましたか」


アルベルトは発送簿を受け取った。


王宮の受領印を見たあと、ほんの一瞬だけ黙る。


「少なくとも、私は承認していません」


否定したのは、自分が承認したことだけだった。


報告の存在を知らなかったとは言っていない。


私はそれ以上追及せず、添付文書を確認した。


最後に、王宮への申請書が付いている。


――王都非常行政権限、一時委任申請。


城門の管理。


市内倉庫の接収。


市場と食糧価格の統制。


治安部隊の指揮。


監察業務の停止。


それらを一時的に、中央財務評議会へ委任するよう求めている。


国王が承認すれば、第七備蓄制度を発動できなくても、同じ権限を得られる。


「これが目的だったんですね」


私は呟いた。


敵は、第七備蓄庫だけに頼っていなかった。


封城と暴動を先に報告し、非常事態がすでに起きたと思わせる。


その上で、王都を管理する権限を要求する。


第七備蓄制度は、そのための証拠を作る手段の一つにすぎなかった。


「王宮から返答は?」


ローディス監察官が尋ねる。


発送簿の受領欄には、王宮の印がある。


だが、承認されたかどうかは記されていない。


「まだです」


ノーラが答えた。


「王宮からの返書は、第四鐘の前に届く予定です」


あと一鐘もない。


第七備蓄制度の承認書は登録されなかった。


ギルベルトの署名も、命令にはならなかった。


私たちは確かに、一つの計画を止めた。


それでも、事実より先に王宮へ届いた嘘は、まだ生きている。


敵が欲しかったのは、閉ざされた門ではなかった。


門の内側を、合法的に支配する権限だった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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