署名の時刻
ハルト司令官の職務停止は、すでに執行されていた。
旧穀物市場を出た私たちが門衛本部へ着いたとき、正面塔の旗は半分まで下ろされていた。
門の前には、武装した兵士が二列に並んでいる。
建物の中から、ベルナール・ハルト司令官が出てきた。
腰に剣はない。
胸元に付けていた門衛司令官の徽章も外されている。
その左右には、王城警備官が一人ずつ立っていた。
「待ってください!」
私は馬から降り、彼のもとへ走った。
ハルト司令官が足を止める。
昨日、北門で会ったときと変わらない厳しい顔だった。
けれど、その目には疲労が浮かんでいる。
「エリナ・ヴァルト殿か」
「何があったんです?」
「北門閉鎖命令の改竄について、調査を受けることになった」
「改竄したのは、あなたではありません」
「それを決めるのは調査官だ」
声は落ち着いていた。
怒っている様子も、逃げようとする様子もない。
「ですが、あなたが職務停止になれば、副司令官へ権限が移ります」
ハルト司令官の眉が、わずかに動いた。
「ギルベルト副司令官は、昨夜すでに第七備蓄制度の発動承認書へ署名しています」
今度こそ、彼の表情が変わった。
「何だと?」
司令官は私の後ろに立つセヴランを見た。
「その男は?」
「セヴラン・ハイム検査官です」
ローディス監察官が答えた。
「これまで行方不明となっていた。第七備蓄制度に関する証言がある」
セヴランは市場で受け取った灰色の外套を脱ぎ、代わりにローディス監察官の予備の上着を羽織っていた。
それでも、伸びた髪と痩せた頬は隠せない。
「ならば、ここで確認すべきだ」
ハルト司令官が言う。
だが、警備官の一人が首を振った。
「中央財務評議会からの命令です。司令官には、王城内の審問室へ移動していただきます」
「財務評議会が、門衛司令官を審問するのか」
ローディス監察官の声が低くなる。
「命令書をご確認ください」
警備官は一枚の書類を差し出した。
発行元は中央財務評議会。
理由は、王都城門の安全を損なう重大な命令改竄。
調査終了まで、ベルナール・ハルトの職務を停止する。
その間、王都門衛副司令官ギルベルト・ノインを職務代理者とする。
評議会の三羽鳥の印が押され、形式にも不備はない。
「この命令は、いつ届きましたか」
私は尋ねた。
「今朝、第一鐘の直後です」
今朝の第一鐘。
ギルベルトが発動承認書へ署名したのは、昨夜だ。
「門衛本部の受領簿を確認させてください」
私は言った。
「職務停止命令の受領時刻と、代理権限が発生した時刻を調べます」
「その間、司令官の移送は?」
「私たちに止める権限がなければ、移送を妨げません」
ローディス監察官が答えた。
「ただし、職務代理者の権限については別だ。監察局として確認する」
ハルト司令官はしばらく私たちを見ていた。
やがて警備官へ向けて頷く。
「私は王城へ行く。だが、門衛本部の記録は監察官に開示しろ」
「司令官」
周囲の兵士から、不安そうな声が上がった。
ハルト司令官は彼らを見回した。
「命令なく門を閉じるな。命令なく剣を抜くな。私が戻るまで、各自の行動を記録に残せ」
最後にそう告げ、警備官とともに馬車へ乗った。
兵士たちは姿勢を正し、走り去る馬車を見送った。
誰も声を上げなかった。
私たちは門衛本部の記録室へ入った。
カイルは左腕を布で固定したまま、扉の外に立った。
「中に入らないんですか」
「剣を持てない者が、狭い部屋に何人もいても邪魔になる」
「自分で分かっていたんですね」
「お前に二度も言われたからな」
口ではそう答えながら、彼の視線は廊下の先へ向けられている。
戦えなくても、周囲の異変を見逃すつもりはないらしい。
私は記録室の机に、三種類の書類を並べた。
ハルト司令官の職務停止命令。
今朝の命令受領簿。
そして、セヴランが記憶しているギルベルトの署名時刻。
「承認書の原本を見たんですか」
私はセヴランに尋ねた。
「すべてではありません」
彼は椅子へ座った。
右足を庇うような動きだった。
「拘束されていた間、私は書類の確認をさせられていました。本物の用紙か。印章の位置は正しいか。決裁番号に重複がないか。彼らは私に検査させた」
「拒否しなかったんですか」
「最初は拒否しました」
セヴランは自分の手首を見た。
縄の痕が残っている。
「ですが、私が従わなければ、別の者を連れてくると言われた。ミリアの名前も出されました」
私は息をのんだ。
「彼女が死んだことを知っていたんですか」
「知ったのは、逃げたあとです」
セヴランの声が低くなる。
「ミリアは私に原本を渡した。その翌日、私は拘束された。だから、彼女もどこかに捕らえられているのだと思っていた」
彼は目を伏せた。
長い間、自分が原本を受け取ったせいで、ミリアまで捕らえられたと思っていたのかもしれない。
「ミリアは、最後まで記録を残していました」
私は言った。
「あなたへ渡した原本も、オスカーへ送った頁も見つかっています」
「オスカー?」
セヴランが顔を上げる。
「生きています」
彼は何も言わなかった。
唇だけが、わずかに動く。
しばらくして、ようやく声が出た。
「そうですか」
それだけだった。
けれど、膝の上で握られていた手から、少しだけ力が抜けた。
「ミリアの死亡記録も、彼女自身の名前へ戻す手続きを始めています」
「ありがとうございます」
セヴランは目を閉じた。
今は、これ以上聞く時間がない。
私は机の上の記録へ視線を戻した。
「ギルベルト副司令官の署名を見たのは、いつですか」
「昨夜の第三鐘を過ぎた頃です」
「間違いありませんか」
「拘束されていた場所では、鐘の音しか時刻を知る方法がありませんでした。三度鳴ったあと、彼らは発動承認書を持ってきた」
「そのときには、もう署名されていた?」
「はい」
セヴランは紙に、覚えている範囲で書式を再現した。
王都非常備蓄制度発動承認書。
中央財務評議官。
王庫財務執行官。
王都門衛司令官。
最後の欄に記されていた名は、ベルナール・ハルトではない。
ギルベルト・ノイン。
その下には、職務代理と書き添えられていた。
「昨夜の時点で、ギルベルトは職務代理者ではありません」
私は言った。
「だから今日、ハルト司令官を職務停止にした」
ローディス監察官が答える。
「昨夜の署名を有効にするために」
私は停止命令を確認した。
そこには、こう記されている。
――不正命令発行時点をもって、ベルナール・ハルトの指揮権を停止する。
北門の点検命令が発行されたのは、昨日の朝。
この文言に従えば、ハルト司令官は昨日の朝から職務を停止していたことになる。
そうすれば、昨夜のギルベルトの署名は、職務代理者による正規の承認として扱える。
「今日の命令で、昨日の権限を書き換えようとしている」
私は呟いた。
未来の帳簿と同じだ。
先に必要な結果を決め、その結果に合わせて記録を作る。
「処分を過去へ遡らせることはできるんですか」
「重大な反逆や命令違反が確認された場合なら、例はある」
ローディス監察官が答えた。
「確認された場合、ですね」
まだ、何も確認されていない。
誰が命令へ一行を追加したのか。
誰が防止線を削ったのか。
調査は始まったばかりだ。
それなのに停止命令は、ハルト司令官が改竄したことを前提に作られている。
だが、それだけでは命令を止められない。
疑いがあるという理由で、一時的に職務を停止すること自体は可能だからだ。
問題は、代理権限がいつ発生したか。
私は門衛本部の受領簿を開いた。
命令書。
人事通知。
物資受領書。
どの書類にも、受け取った時刻と担当者の署名が記されている。
ハルト司令官の職務停止命令は、今朝の第一鐘のあとに受領されていた。
次に、門衛司令官職務規則を確認する。
頁をめくる。
指揮権の移行。
職務代理者の任命。
緊急時の継承。
そこに、一つの規定があった。
――職務停止および指揮権移行は、当該命令が門衛本部に受領され、受領記録へ記載された時点をもって効力を発する。
「これです」
私は規定をローディス監察官へ見せた。
「処分理由の発生時点を過去に求めることはできても、指揮権そのものは、命令が届く前には移りません」
昨夜、ハルト司令官はまだ司令官だった。
ギルベルトは副司令官にすぎない。
職務代理者として署名する権限はなかった。
「昨夜の承認は無効です」
ローディス監察官は規定と受領簿を見比べた。
「少なくとも、昨夜の署名には効力がない」
「ですが、今朝の第一鐘以降なら、ギルベルトは署名できます」
セヴランが言った。
職務停止命令は、すでに門衛本部へ届いている。
今のギルベルトは正式な職務代理者だ。
過去の署名が無効でも、今日の日付で書き直せばいい。
「その前に、止めます」
ローディス監察官が職務停止命令を取り上げた。
「この処分は、ハルト司令官が命令を改竄したことを前提にしている。だが、改竄そのものが第三者による可能性を示す証拠がある」
北門へ届いた実行命令。
削り取られた防止線。
門衛本部とは異なる墨。
異なる文書形式。
疑うだけではない。
改竄された事実は、すでに記録されている。
「監察保全令を使う」
ローディス監察官は、新しい用紙を取り出した。
監察保全令。
不正の疑いがある命令によって、証拠や指揮系統が失われる危険がある場合、監察官は一日に限り、その執行を留保できる。
処分そのものを取り消す権限ではない。
ただし、王国監察院が再確認するまで、止めることはできる。
ローディス監察官が書いた。
――北門命令改竄事件の調査終了まで、ベルナール・ハルトに対する職務停止処分の効力を留保する。
――これに伴い、ギルベルト・ノインへの指揮権移行を停止する。
彼が署名する。
門衛本部書記官が受領時刻を記した。
私とセヴランも、証人として名を記す。
「これで、ハルト司令官の指揮権は一時的に戻る」
ローディス監察官が言った。
一日だけ。
それでも、その間はギルベルトが署名しても、門衛司令官代理としての効力を持たない。
私は受領簿の該当頁を複写した。
命令が届いた時刻。
保全令が受領された時刻。
誰が確認したのか。
すべて残す。
敵が未来を書いたのなら、私たちは時刻を残す。
署名があるという事実だけでは足りない。
誰が。
どの権限で。
いつ書いたのか。
その順番が一つ違うだけで、命令は効力を失う。
「間に合ったんでしょうか」
私が呟く。
「今はな」
ローディス監察官が答えた。
第七備蓄制度に必要な三人目の承認は、まだ無効だ。
北門も開いている。
西区の暴動も起きなかった。
未来の帳簿は、少しずつ現実と食い違い始めている。
初めて、敵の計画を追うだけではなく、その足元を崩せた。
そう思った。
そのとき、廊下の向こうで大きな音がした。
誰かが扉へぶつかったような音。
続いて、慌ただしい足音が近づいてくる。
「ローディス監察官!」
門衛本部の兵士が、息を切らして記録室へ入ってきた。
顔から血の気が引いている。
「ハルト司令官を乗せた馬車が、王城へ向かう途中で止まりました」
「何があった」
「司令官が突然倒れました」
私は椅子から立ち上がった。
「怪我ですか?」
「違います。口から血を吐き、意識がありません。随行していた医師は、毒の可能性があると」
部屋の空気が凍りつく。
保全令によって、ハルト司令官の職務停止は止めた。
指揮権も彼のもとへ戻った。
けれど、本人が指揮できなければ意味がない。
職務規則には、もう一つの代理条件がある。
司令官が負傷、病気、その他の理由で指揮不能となった場合、副司令官がただちに職務を代行する。
この条文には、命令書も受領記録も必要ない。
司令官が指揮不能になった時点で、自動的に効力を持つ。
「倒れた時刻は?」
私は尋ねた。
「つい先ほどです。第三鐘が鳴る直前に」
今度は、過去へ遡らせる必要さえなかった。
ギルベルトは現在、正式な職務代理者になった。
昨夜の署名は無効のままだ。
だが、今日の日付でもう一度書けば、今度は有効になる。
「中央財務評議会へ向かった監察官に伝令を」
ローディス監察官が立ち上がる。
「ギルベルト・ノインを見つけろ。発動承認書への再署名を阻止する」
「拘束できますか」
「証拠はまだ足りない。だが、監察確認が終わるまで文書への署名を停止させることはできる」
カイルが扉の外から入ってきた。
「俺も行く」
「その腕では――」
「戦いには行かない」
彼は私の言葉を遮った。
「中央財務評議会へ入る道は一つではない。北部から物資を運び込んだ地下搬入口がある」
ローディス監察官がカイルを見る。
「知っているのか」
「北部救援物資を届けたとき、一度だけ使った」
時間がない。
議論している間にも、ギルベルトは新しい承認書へ署名できる。
私たちは記録室を出た。
その直後、窓の外から鐘の音が響く。
三度目の鐘だった。
同時に、門衛本部の塔で司令官旗が下ろされた。
代わって上がったのは、職務代理者の旗。
ギルベルト・ノインは、正式に王都の全城門を指揮する権限を得た。
私たちは、昨夜の署名を無効にした。
けれど、ハルト司令官が倒れた今、ギルベルトは同じ名前を、もう一度書けばいい。
今度は、正しい権限で。
今度は、正しい時刻で。
お読みいただき、ありがとうございます。
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