暴徒になる前の百二十人
帳簿に暴動が記されていた朝、旧穀物市場には、まだ誰もいなかった。
夜明け前の石畳は濡れている。
空になった露店の屋根から、昨夜の雨が一滴ずつ落ちていた。
市場の中央には、使われなくなった荷台が置かれている。
その隣に立ち、私は周囲を見回した。
今日、ここで暴動が起きる。
王国の帳簿には、すでにそう書かれていた。
けれど、今はまだ静かだ。
壊された店もない。
怪我人もいない。
暴徒と呼ばれる者さえ、一人もいなかった。
「兵を前へ出さなくていいのか」
少し離れた路地に、ローディス監察官が立っていた。
外套の下に監察官の制服を隠している。
「今、兵を並べれば、集まってきた人たちは逃げます」
私は答えた。
「逃げなかった者も、自分たちが捕らえられると思うでしょう」
「その混乱を利用されるか」
「はい。誰か一人が石を投げれば、帳簿に書かれた暴動が始まります」
だから門衛たちは、市場を囲む路地の奥に配置した。
姿は見せない。
けれど、合図があればすぐに動ける距離だ。
カイルが市場の入口を見ながら言った。
「人が来る」
左腕は布で胸元へ固定されている。
火傷した傷口は縫い直されたが、剣を持つことはできない。
それでも休む気はなかったらしい。
治療を終えると、そのまま旧穀物市場へ来た。
「来ないと思っていました」
私が言うと、カイルは市場から目を離さずに答えた。
「来るなとは言われていない」
「その腕では戦えません」
「戦うために来たわけじゃない」
「では、何のために?」
「お前が一人で中へ入らないか、見張るためだ」
昨日の言葉を覚えていたらしい。
言い返そうとしたが、市場へ近づいてくる足音が聞こえた。
最初に現れたのは、年老いた男だった。
肩に古い縄をかけ、手には荷物を運ぶための鉤を持っている。
男は市場の入口で立ち止まり、周囲を見回した。
「荷運びの仕事は、ここで合っているか?」
私はすぐには答えなかった。
近くの露店を調べていたふりをする。
男は不安そうに歩き回り、石段へ腰を下ろした。
次に来たのは、若い兄弟だった。
二人とも痩せている。
弟らしい少年は、靴の底が剥がれないよう紐で縛っていた。
そのあとも、一人、また一人と人が集まった。
荷車を引いてきた者。
農具を持ったままの者。
小さな子どもを背負った女。
腕に力のありそうな港の人足。
仕事を失った職人。
冬を前に、少しでも金を稼ごうとしている人々だった。
中には、見るからに苛立っている者もいる。
「本当に倍の賃金が出るのか」
「パンも一つ付くと聞いたぞ」
「昨日は一食も食べていない。仕事がないなら先に言ってくれ」
声が増える。
空腹と不安が、人々の間に広がっていた。
明日の帳簿に書かれていた人数は、百二十人。
朝の第二鐘が鳴る少し前、市場へ集まった者は百人を超えた。
だが、全員が同じように見えるわけではない。
「東側の柱に三人」
カイルが小さく言った。
「南の露店に二人。井戸の前にもいる」
「何が違うんです?」
「靴だ」
私は視線だけを動かした。
カイルが示した男たちは、服装こそ人足と変わらない。
けれど、全員が同じ形の丈夫な革靴を履いている。
「立つ位置も違う」
カイルが続ける。
「普通の人足は、仕事を渡す者が来る場所に集まる。あいつらは市場の出口を見ている」
人を運ぶ者ではない。
人を逃がさないために配置された者だ。
その数は、見つけられただけで十三人。
全員が別々の場所に立ち、互いに目を合わせない。
「まだ動かないでください」
私はローディス監察官に言った。
「分かっている」
やがて、第二鐘が鳴った。
鐘の音が西区へ広がる。
その音が消える前に、二台の荷車が市場へ入ってきた。
荷台に積まれていたのは、灰色の外套と長い木の棒だった。
食糧はない。
荷車の後ろから、茶色い上着を着た男が降りた。
三十代半ばほど。
髪をきれいに撫でつけ、手には書類板を持っている。
人足には見えない。
「臨時荷役に応募した者は、こちらへ並べ!」
男が声を上げた。
市場にいた人々が動き始める。
「一人につき外套一着、荷運び棒一本を渡す! 仕事が終わるまで紛失するな!」
人々は言われたとおりに列を作った。
灰色の外套。
帳簿に記されていた防塵布。
百二十本の木製警棒。
書類では荷運び棒となっていたが、先端に金具も鉤もない。
荷物を運ぶための道具には見えなかった。
「食糧はどこにあるんだ?」
列の中から声が上がった。
茶色い上着の男は答える。
「間もなく王国の荷車が来る。それまで装備を受け取り、待機しろ」
「賃金は?」
「仕事が終わってからだ」
「先にパンを渡す話だったぞ」
「荷車と一緒に届く。騒ぐな」
人々の不満が大きくなる。
灰色の外套を受け取った者たちは、それを着ながら周囲を見回している。
遠くから見れば、同じ服を着た集団だ。
そこへ誰かが一本ずつ棒を持たせる。
あとは一人が窓を割ればいい。
帳簿に書かれた暴徒が完成する。
「もう少し待つ」
ローディス監察官が言った。
「相手の指示系統を確認したい」
私も頷いた。
けれど、人々の苛立ちは予想以上に早く膨らんでいた。
「本当に食糧は来るのか?」
「王国が俺たちにそんな仕事を回すかよ」
「また貴族が倉庫へ隠しているんじゃないのか」
その言葉に反応した男がいた。
東側の柱に立っていた、同じ革靴の一人だ。
「隠しているに決まっている!」
男が大声を上げた。
「西区の商人は、倉庫に小麦を積んでいる! 俺たちには腐りかけのパン一つ渡さないくせに!」
市場の外側には、数軒の穀物商が並んでいる。
まだ開店前だ。
扉も窓も閉ざされていた。
「仕事がないなら、あそこから取ればいい!」
別の男が続いた。
人々の間にざわめきが走る。
何人かが、穀物商の建物へ目を向けた。
昨日から何も食べていないと言っていた男が、木の棒を強く握った。
「倉庫にあるのか?」
「ある。俺は見た」
煽動者が答える。
「王国の役人が来る前に、俺たちで取り戻せばいい」
取り戻す。
その一言が、人々の背中を押そうとしていた。
盗むのではない。
自分たちのものを取り戻すだけだと、思わせるために。
煽動者の一人が市場の外へ歩き出した。
それに数人が続く。
私はローディス監察官を見た。
彼がわずかに頷く。
私は人々の前へ出た。
「待ってください!」
何人かが足を止めた。
茶色い上着の男が、鋭い目で私を見る。
「誰だ」
「王国記録局のエリナ・ヴァルトです」
私は身分証を示した。
周囲が静かになる。
「この臨時雇用の支出記録を確認しに来ました」
「記録局?」
茶色い上着の男の顔に、わずかな動揺が浮かんだ。
「今日は荷役作業だ。帳簿係に用はない」
「あります」
私は昨日書き写した記録を取り出した。
「西区臨時荷役人員、百二十名。食糧運搬および市場整理のため雇用」
読み上げる。
集まった人々が顔を見合わせた。
「雇用人数は、ここにいる方々と一致します。集合場所も旧穀物市場。時刻も明朝第二鐘」
茶色い上着の男が近づいてくる。
「その書類をどこで手に入れた」
「先に質問するのはこちらです」
私は記録の次の項目を指した。
「臨時雇用費は、すでに支出済みとなっています」
「何?」
列の中から声が上がった。
「支払い済み?」
「俺たちは一銅貨も受け取っていないぞ」
「どういうことだ!」
ざわめきが別のものへ変わる。
穀物商へ向かっていた視線が、茶色い上着の男へ集まった。
「王国の臨時雇用は、作業前に責任者へ賃金の全額が交付されます」
私は言った。
「作業が中止された場合でも、集合済みの者には半日分の補償を支払わなければなりません」
帳簿には、支出済みと記されている。
つまり、この男か、その背後にいる者は、すでに百二十人分の金を受け取ったことになっている。
「責任者の方」
私は男を見る。
「支給された賃金は、どこにありますか」
「そんなものは、作業が終わってから――」
「支出番号は西区臨時第二十八号。受領額は銀貨二百四十枚。パン百二十個分の食糧費も、別に支出されています」
人々の表情が変わった。
銀貨二百四十枚。
一人につき二枚。
彼らが聞かされていた倍額の賃金と一致する。
「金はもう出ているのか?」
年老いた人足が立ち上がった。
「俺たちの分も?」
「帳簿上は、すでに責任者へ渡されています」
私は答えた。
「なら、払え!」
誰かが叫んだ。
「パンもだ!」
「さっきは荷車と一緒に来ると言っただろ!」
茶色い上着の男が後ずさる。
「騙されるな!」
東側にいた煽動者が叫んだ。
「その女も王国の役人だ! 金を渡したくないから、俺たち同士を争わせている!」
数人が再び穀物商へ向かおうとする。
まだ全員が私を信じたわけではない。
当然だ。
彼らにとって、私は見知らぬ役人にすぎない。
王国の帳簿が正しいと言われても、今日の食事にはならない。
「金があるなら、ここで見せろ!」
昨日から食べていないと言っていた男が、私へ木の棒を向けた。
「帳簿じゃ腹は膨れない!」
「その通りです」
私は答えた。
男が目を見開く。
「帳簿だけでは、誰のお腹も満たせません」
記録があれば、人を救えるわけではない。
数字を書けば、種麦が届くわけでもない。
北部で、それを嫌というほど見てきた。
「だから、帳簿に書かれた金を、実際に受け取る必要があります」
私は茶色い上着の男を見た。
「百二十人の名簿を出してください。支払いの確認を行います」
「名簿はない」
男は答えた。
「今日集まった者を、これから登録する予定だった」
「では、誰の身元を確認して雇用費を申請したんです?」
男の口が止まる。
「王国は、身元不明の百二十人へ先に賃金を支給しません」
私は偽造された身元保証書へ目を向けた。
書類板の下に、三羽鳥の印章が見える。
「保証人はセヴラン・ハイム。そう記されていますね」
男の顔が強張った。
「その者はどこですか」
「今日は来ない」
「では、誰が百二十人の身元を保証したんです?」
「黙れ!」
男が書類板を胸元へ引き寄せた。
その瞬間だった。
市場の外で、窓ガラスの割れる音が響いた。
煽動者の一人が、穀物商の窓へ石を投げていた。
「食糧を奪え!」
男が叫ぶ。
「役人に取られる前に、俺たちで――」
「俺たちは働きに来たんだ!」
低い声が響いた。
最初に市場へ来た、年老いた人足だった。
彼は荷運び用の鉤を地面へ置き、石を投げた男の腕を掴んだ。
「盗みに来たんじゃない」
「離せ、じじい!」
煽動者が振りほどこうとする。
だが、周りにいた人足たちも動いた。
「そうだ。金を払え」
「パンはどこだ」
「先に責任者を逃がすな!」
人々の怒りは消えていない。
ただ、その向きが変わった。
穀物商ではない。
金を受け取りながら、自分たちを暴徒に仕立てようとした者たちへ向けられている。
茶色い上着の男が逃げ出した。
市場南側の路地へ走る。
そこには、剣を持てないカイルが立っていた。
男は一瞬だけ足を緩める。
負傷者だと判断したのだろう。
そのまま肩からぶつかろうとする。
カイルは避けなかった。
身体を半歩ずらし、右足を男の進路へ差し出す。
男の足が引っかかった。
勢いのまま石畳へ倒れる。
カイルは右手だけで男の腕を捻り上げた。
「左手が使えなくても」
静かな声だった。
「逃げ道を塞ぐことはできる」
同時に、ローディス監察官が合図を出した。
路地に隠れていた門衛たちが市場へ入る。
同じ革靴を履いた男たちが逃げようとする。
二人は捕らえられた。
三人は抵抗した。
残りは灰色の外套を脱ぎ、人混みに紛れようとしたが、カイルが事前に位置を確認していた。
門衛たちは迷わず彼らを追った。
市場の混乱は、長く続かなかった。
誰も穀物店へ押し入らなかった。
大きな怪我人も出なかった。
未来の帳簿に書かれていた市場設備損壊は、割れた窓一枚だけだった。
それも、労働者ではなく煽動者が投げた石によるものだ。
ローディス監察官が、茶色い上着の男から書類板を取り上げる。
身元保証書には、確かにセヴラン・ハイムの名があった。
印章も押されている。
「これは誰から受け取った」
ローディス監察官が尋ねる。
男は口を閉ざした。
「雇用費の銀貨二百四十枚は、どこにある」
答えない。
「セヴラン・ハイムはどこだ」
男の目がわずかに動いた。
「知らない」
ようやく出た答えは、それだけだった。
「書類は昨日の夜、旧印刷工房に置かれていた。俺は指定されたとおりに人を集めただけだ」
「印章もそこに?」
「ああ」
「誰が置いた」
「顔は見ていない」
ローディス監察官が保証書を私へ渡した。
印章は鮮明だった。
過去の検査記録に押されていたセヴランの印と、形は一致している。
本人が押したのか。
奪われた印章を誰かが使ったのか。
これだけでは分からない。
「その印は、私のものです」
人々の後ろから、声がした。
市場にいた全員が振り返る。
灰色の外套を着た一人の男が、列の奥から歩み出た。
頬は痩せ、髪は長く伸びている。
服は汚れ、右足を少し引きずっていた。
袖口から見えた手首には、古い縄の痕が残っている。
それでも、その目だけは濁っていなかった。
私は、その顔を知っていた。
書類の中で何度も見た名前。
ミリアから原本を受け取り、その後、行方不明になった検査官。
「セヴラン・ハイム……」
男は私を見る。
「エリナ・ヴァルトですね」
「どうして、ここに?」
「私の名で百人以上の身元を保証する書類が作られたと知りました」
セヴランは偽造された保証書へ目を向けた。
「印章は、拘束されたときに奪われました」
「誰に拘束されたんです」
彼は答える前に、周囲を見回した。
門衛。
捕らえられた煽動者。
仕事を求めて集まった人々。
「ここでは話せません」
「第七備蓄庫について知っていますか」
私が尋ねると、セヴランの表情が変わった。
「どこまで調べました」
「発動には三人の承認が必要です」
私は答えた。
「中央財務評議官、王都門衛司令官、王庫財務執行官。財務執行官の欄には、レオン・グラーツの署名が使われています」
セヴランは目を閉じた。
驚いてはいなかった。
まるで、恐れていたことが現実になったと確認したようだった。
「門衛司令官の承認は、まだありません」
私は続ける。
「ベルナール・ハルト司令官は、署名していないと証言しています」
「ハルト司令官の署名は必要ありません」
ローディス監察官が眉を寄せた。
「どういう意味だ」
セヴランは声を落とした。
「非常時備蓄令には、例外があります。門衛司令官が拘束、負傷、または職務停止となった場合、職務代理者が承認できる」
知っている。
法令には、確かに代理承認の条項があった。
だが、ハルト司令官は健在だ。
今も門衛本部で指揮を執っている。
「司令官は職務停止になっていません」
私が言うと、セヴランは首を振った。
「今日の北門命令が改竄されていたのでしょう」
「なぜ、それを?」
「彼らは最初から、そのために命令を改竄したんです」
背筋が冷えた。
北門を閉じるためだけではない。
本物の署名がある命令書に、偽の一行を付け加える。
改竄が発覚すれば、その責任は発行者であるハルト司令官へ向けられる。
調査の間、司令官は職務を停止される。
その瞬間、代理者が権限を引き継ぐ。
「職務代理者は誰です」
ローディス監察官が尋ねた。
セヴランは答えた。
「王都門衛副司令官、ギルベルト・ノインです」
聞いたことのない名だった。
けれど、ローディス監察官の顔色が変わった。
「副司令官は、今どこにいる」
「中央財務評議会です」
セヴランは、はっきりと言った。
「ギルベルト副司令官は、昨夜すでに発動承認書へ署名しました」
市場の向こうで、鐘が鳴り始めた。
三度。
王都の官吏が職務を開始する合図だ。
同じ時刻、門衛本部では、北門命令の改竄に関する調査が始まる。
ハルト司令官が職務停止になれば、三人目の承認が有効になる。
暴動は止めた。
北門も閉じさせなかった。
それでも敵は、その失敗さえ、次の手続きに利用していた。
まだ起きていない未来を書いた帳簿。
その中で、私たちが変えられたのは、たった二行だけだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
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