明日の帳簿
敵は、帳簿を捨てるために運び込んだのではない。
誰にも見つからない場所で、まとめて消すつもりなのだ。
そう思っていた。
その箱を開けるまでは。
「六台目の通行記録を見せてください」
私は北門から届いた記録を、もう一度受け取った。
貨物名は、北部救済事業の廃棄帳簿十二箱。
搬入区分は、第七備蓄庫。
受入区域は、西三区。
引渡先は、現地指定。
具体的な住所はない。
だが、通行記録の下には、貨物の総重量が記されていた。
私はその数字を見て、違和感を覚えた。
「軽すぎます」
「何がだ」
ローディス監察官が尋ねる。
「十二箱分の重量です」
北部救済事業の帳簿は、厚い紙を使っている。
表紙は革張りで、角には金属の補強具が付いていた。
数年分の原本なら、一箱を二人で運ぶ必要がある。
十二箱を一台の馬車に積めば、この数字では収まらない。
「箱の中身が少ないのか?」
「いいえ」
通行記録には、封印済み十二箱と書かれている。
箱数そのものに間違いはない。
「古い帳簿ではないのかもしれません」
私は答えた。
「新しい紙なら、同じ冊数でも軽くなります。まだ書き込みが少なく、革表紙や金具も付いていない」
「廃棄する帳簿ではなく、新しく作った帳簿を運んだ?」
ローディス監察官の表情が変わる。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
けれど、追うべき理由は増えた。
「西門へ行きましょう」
私は通行記録を折り畳んだ。
「六台目の馬車を見た者がいるはずです」
立ち上がろうとしたカイルが、壁へ手をついた。
顔色が悪い。
左腕の包帯には、再び血が滲んでいた。
「カイル」
「馬には乗れる」
「乗れるかどうかを聞いているんじゃありません」
「今止まれば、車を見失う」
「その腕で剣を持てますか」
カイルは答えなかった。
右手なら握れるだろう。
だが、手綱を取りながら戦うことはできない。
格子門の下で子どもを助けたとき、傷は明らかに悪化していた。
それでも連れていけば、今度こそ彼自身が倒れる。
「北門の治療所で診てもらってください」
「エリナ」
「これはお願いではありません」
言ってから、自分でも驚いた。
以前なら、こんな言い方はできなかった。
カイルは何も言わず、私を見ている。
怒らせたかもしれない。
けれど、目を逸らすつもりはなかった。
「傷口を縫い直してください。そのあとで来てください」
短い沈黙のあと、カイルは息を吐いた。
「分かった」
思ったより素直な返事だった。
「ただし、車を見た兵士の話は、ここで聞かせろ」
西門から来た騎兵が呼ばれた。
彼は六台目の馬車について、覚えていることを話した。
御者は二人。
馬は栗毛が二頭。
荷台には灰色の覆い。
十二箱を積んでいたが、車体はそれほど沈んでいなかった。
そして西門を通るとき、左後輪から金属を擦るような音がしていた。
「車輪の鉄輪が欠けている」
カイルが言った。
「石畳なら、一定の間隔で跡が残る。馬車は重い。西三区へ入るまでに、完全には消えないはずだ」
彼は近くにいた門衛二人へ、跡の見分け方を説明した。
「円い車輪跡だけを見るな。左側の石に、短い擦り傷が繰り返し残っているはずだ」
ローディス監察官が頷く。
「二人は先に西門へ向かえ。跡を見つけても、勝手に踏み込むな。場所だけを確認しろ」
門衛たちが馬に乗って走り出す。
私たちも西門へ向かうことになった。
カイルだけは北門に残した。
出発するとき、彼は治療所の前に立っていた。
「エリナ」
呼び止められて振り返る。
「先に入るな」
「何のことですか」
「馬車を見つけても、お前一人で建物へ入るな」
「分かっています」
「本当か?」
「たぶん」
カイルは眉間に皺を寄せた。
それ以上何か言われる前に、私は馬を進めた。
西門は、まだ閉じられたままだった。
門の内側には、外へ出られない商人や旅人が集まっている。
守備隊は本部へ確認を求めていたが、開門の許可は届いていないという。
ローディス監察官が改竄された命令を確認し、開門停止命令の解除手続きを始める。
その間に、私たちは六台目の馬車を調べた。
馬車を通した兵士は、荷台の覆いを開けていない。
中央財務評議会の特別通行証があったためだ。
だが、御者の一人が荷車から降りたとき、こう尋ねたという。
――旧印刷工房へ行くには、どの道が近いか。
「西三区に印刷工房があるんですか」
私が尋ねると、守備兵が答えた。
「昔、税票や倉庫証を印刷していた王国工房があります。五年ほど前に閉鎖されましたが」
「なぜ閉鎖されたんです?」
「新しい印刷所が中央区にできたからです。建物は残っています」
そこへ、先行した門衛の一人が戻ってきた。
「車輪跡を見つけました。旧印刷工房へ続いています」
予想は当たっていた。
「馬車は?」
「裏手に一台あります。馬は外されています。人の姿はありません」
ローディス監察官は、西門守備隊から四人を借りた。
私たちは人通りの少ない裏道を通り、旧印刷工房へ向かった。
工房は、西区の外れにあった。
二階建ての石造りで、正面の看板は外されている。
窓板は閉ざされ、壁には蔦が絡んでいた。
長く使われていない建物に見える。
けれど、裏手の地面には新しい車輪跡があった。
灰色の覆いをかけた馬車も残されている。
荷台は空だった。
「箱は中へ運ばれたようです」
扉には、新しい錠がかかっていた。
その上から、赤い蝋で封印されている。
蝋に刻まれていたのは、中央財務評議会の三羽鳥の印だった。
アルベルト・クロイツ評議官の文書でも見た印。
だが、この印だけで彼自身が命じたとは断定できない。
評議会の共通承認印として使われる場合もあるからだ。
「開けられますか」
私はローディス監察官に尋ねた。
「非常備蓄に関わる不正の疑いがある。監察権限で確認する」
彼は門衛たちに命じ、封印の状態を記録させた。
証人二名が見ている前で、錠を外す。
扉を開けると、乾いた紙と古い油の匂いが流れ出した。
内部は薄暗かった。
壊れた印刷機。
壁際へ寄せられた活字棚。
埃をかぶった作業台。
しかし、床の中央だけはきれいに掃かれている。
そこに十二個の木箱が並んでいた。
箱の側面には、通行記録と同じ文字がある。
――北部救済事業・廃棄帳簿。
箱には鍵がなかった。
蓋を留めているのは、細い革紐だけだった。
あまりにも無防備だ。
「罠の可能性があります」
門衛の一人が言った。
ローディス監察官が二人を先に進ませた。
床。
箱の周囲。
天井。
灯油や火種が仕掛けられていないことを確認する。
「開けます」
私は一番端の箱の前に座った。
革紐を解き、蓋を持ち上げる。
中には、帳簿が入っていた。
けれど、想像していたものとは違う。
紙は黄ばんでいない。
表紙にも傷一つない。
新しく裁断された紙の匂いがした。
「新しい……」
一冊を取り出す。
王国財務局で使われている、正式な支出台帳だった。
表紙には、北部救済事業という題名が記されている。
その下には、新しい管理番号。
「廃棄帳簿ではありません」
私は言った。
「新しく作られた帳簿です」
「では、なぜ箱に廃棄と書いた?」
ローディス監察官が尋ねる。
「運搬中に中身を調べられないためでしょう。廃棄予定の古い記録なら、重要な物資とは思われません」
私は帳簿を開いた。
最初の頁には、北部で支出された救済金の記録が並んでいる。
種麦。
農具。
橋の修理。
避難所の薪。
数字も形式も、普通の帳簿に見えた。
けれど、知っている数字と違う。
種麦購入予定、十二台。
検収済み、十二台。
未執行、なし。
第七備蓄庫への振替もない。
北部へ届かなかった八台の種麦が、ここではすべて届いたことになっている。
「原本を書き換えたのではない」
私は頁をめくった。
「帳簿そのものを入れ替えるつもりだったんです」
本物の帳簿を廃棄し、この新しい帳簿を原本として保管する。
そうすれば、最初から不一致など存在しなかったことになる。
ミリアが青い糸で残した印も。
オスカーが守った一頁も。
北部で種麦を待ちながら冬を迎えた人々も。
記録の上では、すべて消える。
「十二箱すべてが、差し替え用か」
「確認します」
二冊目。
三冊目。
どれも新しかった。
北部救済事業だけではない。
王都門衛費。
非常備蓄費。
市場管理費。
治安維持費。
これから第七備蓄制度を動かすために必要な記録が、項目ごとに作られている。
私は王都門衛費の帳簿を開いた。
頁の上部に記された日付を見て、手が止まった。
明日の日付だった。
「どうしました?」
ローディス監察官が覗き込む。
私は黙って頁を示した。
――王都北門、正午閉鎖。
――設備点検および非常警戒への移行、異常なく完了。
北門は、閉鎖されていない。
私たちが止めた。
それなのに帳簿には、閉鎖が完了したと記されている。
「書き間違いではありません」
次の頁も明日。
その次は明後日。
まだ起きていない出来事が、すでに支出記録として並んでいた。
――四門閉鎖に伴う追加門衛費。
――非常備蓄倉庫の接収費。
――王都内市場の一時停止。
――監査業務停止期間中の文書移送費。
ローディス監察官の手が、最後の一行で止まった。
「監査業務の停止……」
「第七備蓄制度が発動すれば、可能になります」
制度が発動されたあとで帳簿を作るのではない。
先に帳簿を作り、そこに現実を合わせるつもりなのだ。
北門は閉鎖された。
物資は正しく搬入された。
北部へ種麦は届いた。
王都では非常事態が発生した。
そう記録してしまえば、あとから調べる者は、それを事実として扱う。
私は一冊ずつ、管理番号を記録した。
帳簿を持ち出すことはできる。
しかし、十二箱すべてを動かせば、敵はすぐに気づく。
ここを放棄し、別の帳簿を作るだろう。
「原本は残します」
「危険ではないか」
ローディス監察官が言う。
「今持ち出せば、私たちがここを発見したと知らせることになります」
「証拠はどうする」
私は帳簿の頁を光へかざした。
用紙には、旧印刷工房で印刷されたことを示す細い枠線がある。
右下の角だけ、線がわずかに途切れていた。
印刷板の傷だ。
別の帳簿にも、同じ欠けがある。
「この傷を記録します」
私は紙を取り出した。
建物の所在地。
箱の数。
帳簿の管理番号。
未来の日付が記された頁。
枠線右下の欠け。
使われている紙と墨。
一つずつ書き写す。
ローディス監察官と門衛二名に、現認者として署名してもらった。
これで、帳簿を持ち出さなくても証明できる。
事件が起きる前に、この場所に未来の日付の帳簿が存在していたことを。
「それだけで足りるのか」
ローディス監察官が尋ねる。
「もう一つあります」
私は北門閉鎖の頁を正確に書き写した。
そこには、異常なく完了と記されている。
だが実際には、北門は閉じなかった。
「敵の帳簿と、現実が初めて食い違いました」
これまでは、私たちが改竄された記録を追いかけてきた。
けれど今回は違う。
敵が先に未来を書いた。
私たちは、その未来を一つ変えた。
北門が開いている限り、この帳簿は偽物になる。
「なら、このまま敵に使わせるのか」
「はい」
私は帳簿を元の位置へ戻した。
「正式な記録として提出された瞬間、この帳簿そのものが証拠になります」
ローディス監察官がしばらく私を見た。
やがて、わずかに頷く。
「分かった。ここは外から監視する。中へ入ったことは悟らせるな」
箱の中身を元どおりに戻す。
革紐の結び方も、最初と同じにした。
そのとき、隣の箱から一冊の薄い帳簿が滑り落ちた。
表紙には、こう記されている。
――西区市場臨時雇用台帳。
私は拾い上げ、頁を開いた。
日付は、明日。
――西区臨時荷役人員、百二十名。
――食糧運搬および市場整理のため雇用。
一見すれば、不自然ではない。
非常備蓄の物資を運ぶなら、大勢の人手が必要になる。
けれど、集合場所は倉庫ではなかった。
旧穀物市場。
そこは今、通常の市場として使われている。
しかも、荷役人員の集合時刻は明朝第二鐘。
食糧運搬の開始予定より、一刻も早い。
人だけが先に集められる。
さらに次の支出
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