第30話 盗まれた身分
アルベルト・クロイツの執務室には、灯りがついていた。
扉も閉まっていない。
ローディス監察官が先に入る。
私はその半歩後ろを歩いた。
机の向こうに、アルベルトは一人で座っていた。
外套は椅子の背に掛け、袖をまくったまま、何も書かれていない紙を見つめている。
そして机の中央には、銀色の通行牌が置かれていた。
裏面の番号は、十七の四。
ローディス監察官の本物の通行牌だった。
「その牌のことで来たのでしょう」
アルベルトが言った。
驚いた様子はない。
逃げる準備もしていなかった。
監察官は机の前で立ち止まる。
「なぜ、あなたが持っている」
「私が盗んだわけではありません」
「質問に答えろ」
声は低く、いつもと変わらない。
それでも、机の下に下ろされた右手が、強く握られているのが見えた。
アルベルトは通行牌を見た。
「ハルト門衛長が倒れた翌朝、この部屋に届きました」
「誰が持ってきた」
「分かりません。出勤したときには、封筒が机の上に置かれていた」
「封筒は?」
「処分しました」
ローディス監察官の目が細くなる。
「私の身分を証明する通行牌が、差出人不明の封筒に入っていた。それを知りながら、あなたは報告しなかった」
「はい」
「なぜだ」
アルベルトはすぐには答えなかった。
監察官は懐から一枚の文書を取り出す。
拘束の際に使用する保全命令書だった。
机の上に置き、筆を取る。
記入欄に、アルベルト・クロイツと書き始めた。
「待ってください」
私が言うと、筆先が止まった。
「何を待つ」
「通行牌を持っていたことは、隠していた証拠です。でも、すり替えた証拠ではありません」
「彼は盗難を知りながら報告しなかった」
「それについては責任があります」
「ならば——」
「それでも、まだ書かれていないことまで事実にはできません」
監察官の視線が私へ向く。
「阿尔——アルベルト評議官が通行牌をすり替えたと、今この文書に書けますか」
監察官は答えなかった。
筆先から落ちた墨が、紙の端に小さな点を作る。
しばらくして、彼は筆を置いた。
「説明してください」
私がアルベルトを見る。
「なぜ報告しなかったのですか」
アルベルトは引き出しから、一枚の紙を取り出した。
古い紙だった。
何度も折られ、折り目が白くなっている。
机の上へ広げる。
そこに書かれていたのは、短い一文だけだった。
――北部の冬を忘れるな。
「通行牌と一緒に入っていました」
「脅迫ですか」
「警告でしょう」
「何についての?」
アルベルトは椅子から立ち上がった。
背後の書棚へ向かい、一番下にある厚い法令集を引き抜く。
空いた場所の奥から、鍵を一つ取り出した。
その鍵で机の下段を開ける。
中に入っていたのは、薄い灰色の帳簿だった。
表紙に題名はない。
彼は帳簿を机の上へ置いたが、まだ開かなかった。
「七年前、北部で冷害がありました」
「記録は読みました」
私は答えた。
「冬の初めに穀物価格が上がり、三つの村で配給が止まった」
「記録では、そうなっています」
「実際は違うのですか」
「配給が止まった村は十一です」
数字が合わない。
それだけで、当時の報告が書き換えられていたことが分かった。
「なぜ三つと記録したのですか」
「十一と報告すれば、北部全体の備蓄調査が必要になる。地方倉庫、中央財務院、王宮裁定局。すべての確認を終えてからでなければ、王都の粮食を動かせませんでした」
「どれくらいかかる予定だった」
ローディス監察官が尋ねる。
「四十日です」
「十一の村は、それまで持たなかった?」
「十日も持たなかったでしょう」
アルベルトが灰色の帳簿を開く。
最初の頁には、倉庫番号が三つ並んでいた。
いずれも、現在の第七備蓄制度で使われている形式に似ている。
しかし、帳簿の日付は制度が正式に設立される二年前だった。
「これは何ですか」
「第七備蓄制度の原型です」
「あなたが作ったのですか」
「制度を作ったつもりはありませんでした」
アルベルトは一つ目の倉庫番号を指した。
「王都周辺の通常倉庫を、一時的に緊急備蓄庫として登録しました。王宮の承認が下りる前に、粮食を北へ運ぶためです」
「承認日は?」
帳簿の下段に書かれている。
出庫日は冬月十二日。
承認日は冬月二十八日。
粮食は、正式な許可が下りる十六日前に倉庫を出ていた。
「日付を偽ったのですね」
「承認後に出庫したように書き換えました」
「誰が?」
「私が命じました」
アルベルトの声は変わらない。
「記録を書き換えた職員は、私の命令に従っただけです」
ローディス監察官が帳簿をめくる。
出庫量、荷車の台数、運送経路。
正式な会計帳簿には存在しない数字が並んでいる。
「この粮食で、何人が救われた」
「正確には分かりません」
「記録していないのか」
「受け取りの記録を残せば、承認前に運んだことが明らかになります」
「だから消した?」
「村へ届いたという報告だけを受け、その場で焼かせました」
誰にも見えない粮食。
存在しない倉庫から運び出され、存在しない日付に村へ届いた。
人々は生き延びた。
けれど、救われたことさえ正式な記録には残らなかった。
「通行牌を報告すれば、この帳簿を公表すると脅されたのですか」
私が尋ねる。
「帳簿だけではありません」
アルベルトは次の頁を開いた。
そこには、命令に従った記録員、倉庫番、荷運び人の登録番号が並んでいる。
「この者たちは、今も各地で働いています。当時の行為が明らかになれば、公文書偽造と備蓄品の不正搬出に問われる」
「あなた自身も」
「私は構いません」
ローディス監察官が顔を上げる。
「ならば、なぜ黙った」
「私一人が責任を負うと言って、済む仕組みではないからです」
「だから私の通行牌が使われるのを見過ごしたのか」
「使われるとは思っていませんでした」
「身分証が盗まれているのに?」
初めて、アルベルトが言葉に詰まった。
「返されたのだと思いたかった」
「差出人不明の封筒で?」
「……はい」
「あなたは思ったのではない。選んだのだ」
監察官は静かに言った。
「確認しないことを」
アルベルトの視線が落ちる。
反論はなかった。
「あのとき、何もしなければ人が死んでいました」
しばらくして、彼が言った。
「分かります」
私が答える。
「ならば、私のしたことは間違いではない」
「粮食を送ったことではありません」
私は机の中央にある通行牌を見た。
「誰にも見えない道を、そのまま残したことです」
「正式に報告すれば、粮食を受け取った村まで調査された」
「すぐにすべてを公表できなかった事情は、あったと思います」
「なら——」
「それでも、いつかは記録しなければならなかった」
アルベルトが黙る。
「どんな理由で開けた道でも、隠したままなら、次に通る人が何を運ぶかは選べません」
かつて粮食を運んだ道は、今では偽の帳簿を運んでいる。
人を救うために作られた制度が、百二十人を暴徒に変えようとした。
「あなたは、あのとき何もしないべきだったのではありません」
私は言った。
「したことを、なかったことにしないべきだったんです」
アルベルトは灰色の帳簿へ手を置いた。
「だから、これを残した」
「でも、誰にも見せなかった」
「そうです」
その一言だけは、言い訳ではなかった。
*
ローディス監察官は保全命令書を引き寄せた。
今度は、先ほどとは違う文言を書き始める。
――アルベルト・クロイツを王宮内に留め置く。
――関係文書の封存が完了するまで、外部との接触および職務命令を禁止する。
拘束ではない。
しかし、自由に動くことも、部下へ指示を出すこともできない。
「異議は?」
「ありません」
アルベルトが答える。
「執務室も封鎖する」
「承知しました」
「この帳簿は監察局が保全する」
そこで私は口を挟んだ。
「監察局の通行牌が使われています。監察局だけで保管すれば、また身分を利用される可能性があります」
監察官が私を見る。
「どうする」
「王宮記録局、監察局、中央財務評議会。それぞれ一人ずつ立会人を置きます。三者の確認なしに、帳簿を動かせないようにしてください」
「中央財務評議会の立会人は?」
「ノーラ・フェルを」
アルベルトがわずかに目を上げた。
「若すぎます」
「だから選びます」
「理由になっていません」
「彼女は、命令より先に事実を確認しました」
第七備蓄制度の登録を拒んだとき、ノーラには後ろ盾がなかった。
それでも、起きていない出来事を記録しなかった。
「地位ではなく、すでに何をしたかで選びます」
アルベルトはそれ以上反対しなかった。
ローディス監察官は別の紙を取り出す。
監察保全命令。
「王宮監察局が発行した旧式通行牌について、記録庫、保護区域、中央財務評議会への使用を停止する。今後は牌だけでなく、本人確認と当日発行の許可書を必要とする」
監察局の範囲を越えて、王宮全体を止める命令ではない。
だが、少なくとも今夜から、誰かが通行牌だけを見せてレオンの部屋へ入ることはできなくなる。
「二枚とも回収する」
監察官は机の本物の牌と、自分が身につけていた十七の四十を並べた。
「明朝、全番号を照合する」
すぐに筆を走らせ、命令書へ署名した。
それから、扉の外に控えていた使節付きの騎士へ手渡す。
「監察局、王宮記録局、保護区域へ一通ずつ。受領者の名前を必ず残せ」
「承知しました」
騎士が走り去る。
一つの道が、ようやく閉じられた。
敵が何度その道を通ったのかは、まだ分からない。
それでも、次も同じようには通れない。
*
アルベルトの執務室を出る前に、私は灰色の帳簿をもう一度確認した。
「これが、第七備蓄制度を最初に使った記録ですか」
「正式な制度としては違います」
「でも、同じ仕組みを使った」
「はい」
アルベルトは最初の頁を開いた。
責任者の欄には、彼自身の名前がある。
――アルベルト・クロイツ。
「第七備蓄制度を悪用した者を探しているのでしょう」
彼は自分の名前を指した。
「ならば、最初の一人は私です」
「救粮と、今回の計画は同じではありません」
「始まりが善意だったからといって、結果への責任が消えるわけでもない」
アルベルトは、私が言う前にそう答えた。
その声には、言い訳がなかった。
私は次の頁をめくる。
粮食の出庫を確認した者。
夜間に王都北門を開いた者。
荷車八台を、検査なしで通過させた責任者。
そこに書かれていた名前を見て、手が止まった。
――ベルナール・ハルト。
今朝、毒を盛られた門衛長。
彼は今回の計画を止めようとした被害者だと思っていた。
だが七年前、ハルトはすでに、第七備蓄制度へつながる最初の秘密に関わっていた。
被害者になるより、ずっと前から。
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