存在しない第七備蓄庫
「第七備蓄庫という名の倉庫は、王国のどこにもありません」
火災の翌朝。
北部第三中継所の事務室で、私はそう告げた。
机の上には、火の中から回収した一頁が置かれている。
紙の右半分は黒く焦げ、端に残った青い糸も、ところどころ焼け縮んでいた。
それでも、肝心の数字は読める。
――北部種麦購入予定、十二台。
――検収済、四台。
――未執行、八台。
――未執行残額、第七備蓄庫特別支出へ振替。
ミリアが不一致を見つけ、オスカーが命を狙われながら守り続けた一頁。
そこに記されていたのは、存在しない倉庫の名だった。
「確認したのか」
ローディス監察官が尋ねた。
「中継所に保管されていた北部倉庫台帳と、王国共通の備蓄庫番号表を照合しました」
私は二冊の台帳を並べた。
「王国の直轄備蓄庫は、第一から第六までです。所在地、管理責任者、収容可能量のすべてが登録されています」
第一備蓄庫は王都北区。
第二は西門外。
第三は河川港。
第四は旧騎士団倉庫。
第五と第六は、飢饉に備えた大規模穀物庫だ。
けれど、第七だけはどの台帳にもない。
所在地もなければ、管理者の名もない。
建設費や修繕費の記録さえ存在しなかった。
「架空の倉庫を作り、そこへ金を移したように見せたのか」
カイルが言った。
左腕には、新しい包帯が巻かれている。
昨日、燃え落ちた梁からオスカーを助けたときに負った火傷だった。
本人は大したことはないと言っていたが、包帯の下から薬草の匂いが漂っている。
「その可能性も考えました。ですが、架空の倉庫なら、わざわざ番号を第七にする必要がありません」
「どういうことだ?」
「倉庫台帳に存在しないのに、支出分類表には項目があるんです」
私は別の冊子を開いた。
古い紙の端に、小さな文字が残っている。
――特別支出、王都非常備蓄、第七区分。
「倉庫ではなく、会計上の区分か」
ローディス監察官の表情が変わった。
「おそらくは」
しかし、北部に保管された資料だけでは、その先を確認できなかった。
第七区分に関する規定は、王都財務局の特別法令庫にしか置かれていない。
通常の役人が目にするものではないのだ。
「王都に戻らなければ、正体までは分からないということか」
「はい。ただし、分かったこともあります」
私は焦げた一頁を指した。
種麦八台分の残金は、架空の商会へ送られたわけではない。
第七備蓄庫という、正規の支出項目へ振り替えられていた。
表面上は合法に見える。
だから通常の検査では止められなかった。
そして、その金で購入されたものは、すでに分かっている。
塩。
灯油。
干し肉。
馬の飼料。
矢。
門衛二十日分の携行食。
どれも、冬を越す農民のための品ではない。
王都の門を閉ざしたあと、中にいる兵を動かすための物資だ。
「北部の種麦が不足したのは、横領だけが目的ではなかった」
カイルが低い声で言った。
「種麦の金を使って、王都を閉ざす準備をしていた」
私は頷いた。
北部で人を飢えさせ、その金で王都を封鎖する。
二つの事件に見えていたものが、一つの線でつながった。
「誰かが王都を外敵から守ろうとしているのではありません」
私は言った。
「外敵が来たように見せかけて、王都を内側から閉ざそうとしているんです」
部屋の中が静まり返った。
いつ門を閉ざすつもりなのか。
閉ざしたあと、何をするつもりなのか。
そこまでは、まだ帳簿に書かれていない。
だからこそ、先に残しておかなければならない記録があった。
私は新しい用紙を取り出した。
一枚目には、オスカー・ベルンの名を書く。
死亡記録訂正申立書。
王都で正式な処理を行うための書類だ。
私に死亡記録そのものを取り消す権限はない。
けれど、生存を確認した事実は記録できる。
申立人の欄に、オスカー自身の署名。
生存確認者として、私とローディス監察官、カイル、中継所長の名を並べた。
「これで、すぐに元へ戻れるのか」
オスカーが尋ねた。
「王都で審査が必要です」
私は正直に答えた。
「ですが、少なくとも、あなたが生きているという記録は残ります。今度は一枚ではありません」
同じ内容の書類を三部作成した。
一部は北部管理局。
一部は中継所。
残る一部は、私たちが王都へ運ぶ。
オスカーは書類の自分の名を、しばらく見つめていた。
「生きていると証明するのに、証人が四人も必要なのか」
「多いほうがいいでしょう」
「そうだな」
彼は乾いた笑いを漏らした。
「一人しか知らなかったから、前は簡単に殺されたことにされた」
私は答えられなかった。
その通りだった。
人は一人で生きていけるかもしれない。
けれど、記録の中で一人にされれば、簡単に消されてしまう。
二枚目には、ミリア・ソーンの名を書いた。
死亡者身元訂正の補足報告。
原本持ち出しの事実なし。
帳簿の不一致を発見し、証拠保全を行った可能性が高い。
北部記録官オスカー・ベルンへ、原本の一部を送付。
彼女は盗人ではない。
原本を奪った者でもない。
最後まで記録を残そうとした人だった。
「ミリアは、自分が疑われることを分かっていた」
オスカーが言った。
「だから俺に送った頁にも、自分の名前を書かなかった。青い糸だけを残したんだ」
焦げた頁の端にある糸を見つめる。
ミリアは、自分の名誉より証拠を残すことを選んだ。
そのせいで、死んだあとまで盗人として扱われた。
「この報告書だけでは、彼女の処分記録を消せないかもしれません」
私は言った。
「でも、調べ直させることはできます」
「十分だ」
オスカーは首を振った。
「何も残らないより、ずっといい」
いいえ。
本当は十分ではない。
彼女の名を完全に戻すところまで、終わりにはできない。
けれど、それには王都へ戻る必要がある。
私は報告書の最後に、ミリアが使っていた印を書き添えた。
――青糸による不一致表示を確認。
今度こそ、彼女の残したものを、彼女自身の名前へ結びつけるために。
証拠は一か所へ集めなかった。
焦げた帳簿の原本は、ローディス監察官が封印する。
偽造された焼却命令書は、中継所長の金庫へ。
灯油の受領証は北部管理局。
オスカーの証言書は三部に分けた。
私が持つのは、証拠の所在と封印番号を記した目録だけだ。
一つを奪われても、すべてが消えないようにする。
同じものを二度、燃やさせないために。
王都へ向けて出発したのは、その日の昼過ぎだった。
オスカーは北部に残ることになった。
「俺も行く」
彼は最後までそう主張した。
だが、カイルが認めなかった。
「王都では、お前はまだ死亡者だ。門を通った瞬間に身柄を押さえられても、正式な抗議ができない」
「ここにいれば安全だとでも?」
「安全ではない」
カイルは言い切った。
「だから一人にはしない。北部管理局の保護下に置く。中継所長にも、お前の生存記録を残させた」
オスカーは不満そうに黙り込んだ。
「それに、北部にも証言できる者が必要です」
私が続ける。
「私たち全員が王都へ戻れば、こちらの記録を消されたときに対抗できません」
「俺に北部を見張れと?」
「生きて、見ていてください」
オスカーは私を見た。
やがて、諦めたように息を吐く。
「記録係にそう言われたら、断れないな」
私たちは北部を出た。
カイルも同行した。
第三中継所で何が起きたのか。
誰が松明を投げ、誰が焼却を止めようとしたのか。
そして、焦げた頁をどのように回収したのか。
それを証言できるのは彼だった。
何より、北部の実際の物資量を知る責任者が王都にいなければ、帳簿上の数字だけで再び事実を塗り替えられてしまう。
二日間、私たちはほとんど休まず馬を走らせた。
物資の搬入期限までは、あと十八日。
けれど、それが王都封鎖の日だとは限らない。
むしろ、すべての物資が揃ってから門を閉ざすと考えるほうが不自然だった。
準備が整った場所から、いつ始めてもおかしくない。
道中、カイルは一度も傷の痛みを口にしなかった。
それでも、左手で手綱を握る時間が次第に短くなっていた。
二日目の夜、馬を休ませたとき、私は彼の包帯を巻き直した。
布を外すと、腕には赤黒い火傷の痕が残っている。
「無理をしないでください」
「それはこちらの言葉だ」
「私は火傷をしていません」
「二日、ほとんど眠ってもいない」
「王都に戻れば眠れます」
「第七備蓄庫を調べたあとに、だろう」
言い返せなかった。
カイルは小さく息を吐いた。
「一刻でいい。王都へ着いたら休め」
「一刻もあれば、法令を一冊確認できます」
「やはり、そう言うと思った」
呆れたような声だった。
けれど、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
王都へ到着したのは、三日目の午前だった。
城門は開いている。
商人の荷車が列を作り、旅人たちは身分証を門衛に見せていた。
野菜を積んだ荷車。
地方から来た行商人。
母親の手を握る子ども。
いつもと変わらない光景だった。
だからこそ、恐ろしかった。
ここにいる人々は、この門が閉ざされようとしていることを知らない。
監察局へ入ると、マルタが廊下の奥から駆けてきた。
「エリナ!」
いつも落ち着いている彼女の顔に、明らかな焦りが浮かんでいる。
「戻りました。王都で何かありましたか?」
「あなたを待っている人がいるの」
「アルベルト評議官ですか?」
「違うわ」
マルタは一瞬、私の後ろにいるカイルを見た。
それから、声を落とした。
「レオン・グラーツよ。昨日からずっと待っている」
レオンは、小さな面談室にいた。
以前より痩せて見えた。
高価だったはずの上着には皺があり、目の下には濃い影が落ちている。
机の前に座り、何度も同じ書類を読み返していた。
私たちが入ると、彼は立ち上がった。
「久しぶりだな、エリナ」
「何の用ですか」
挨拶を返す気にはなれなかった。
レオンは一瞬だけ表情を歪めた。
以前なら、私の態度を無礼だと責めただろう。
けれど、今日は何も言わなかった。
「君に許してもらいに来たんじゃない」
彼は一枚の任命書を机の上へ置いた。
王国の印章が押された、正式な書類だった。
私はそこに記された役職名を読む。
――王都非常備蓄制度・臨時財務執行官。
任期は二十日。
非常備蓄の搬入および発動手続き完了まで。
「いつ任命されたんですか」
「三日前だ」
第三中継所で、第四の荷車が焼かれそうになった日だ。
「あなたは北部救済金の件で解任されたはずです」
「俺もそう言った」
レオンは自嘲するように笑った。
「だが、財務執行官の席が空いている。以前、同等の決裁権限を持っていた者の中で、今すぐ任命できるのは俺だけだそうだ」
正式な財務執行官を任命するには、王宮での審査が必要になる。
だが、非常時の臨時官なら、中央財務評議会の推薦で任命できる。
「誰の推薦ですか」
「推薦者の名は書かれていない」
ローディス監察官が任命書を確認した。
「規定上、緊急任命の推薦者は非公開にできる。もっとも、最終的に承認できる立場は限られているが」
中央財務評議官。
その言葉が、誰の名も出さないまま、部屋に重く残った。
けれど、これだけではアルベルト・クロイツが黒幕だとは断定できない。
彼自身の名が記された証拠は、まだない。
「任命を受けたのですか」
私は尋ねた。
「拒否した」
レオンは答えた。
「だが、そのときに言われた。俺の承認は、すでに提出されていると」
彼は鞄の中から、もう一枚の書類を取り出した。
王都非常備蓄制度発動承認書。
その文字を見た瞬間、北部で見つけた第七備蓄庫という言葉が頭に浮かんだ。
「特別法令庫を確認しました」
マルタが棚から一冊の法令集を持ってきた。
私たちが到着するまでに、ローディス監察官の名で閲覧手続きを進めてくれていたらしい。
私はすぐに該当箇所を開いた。
王都が包囲された場合。
あるいは大規模な反乱、疫病、災害が発生した場合。
指定された商会の倉庫。
貴族家の穀物庫。
修道院の貯蔵室。
騎士団の兵糧庫。
それらを一時的に王国の管理下へ置き、所在地を伏せたまま、ひとつの会計区分にまとめる。
その名称が、第七備蓄庫だった。
建物ではない。
非常時に接収される、王都中の倉庫の総称だ。
「これが発動すれば、指定された倉庫の物資はすべて王国管理になる」
ローディス監察官が条文を追う。
「同時に、情報流出を防ぐため、通常の監査を停止できる。城門の封鎖も可能だ」
「北部から移された金は、この制度を動かすための物資に使われました」
私は言った。
「塩、灯油、干し肉、馬の飼料、矢、門衛用の携行食です」
レオンの顔から血の気が引いた。
「そんなものを、俺の名で?」
「制度の発動には、三人の承認が必要です」
中央財務評議官。
王都門衛司令官。
王庫財務執行官。
現在、最後の席だけが空いている。
だから、レオンが呼び戻された。
かつて不正に関わったとして解任された男。
問題が起きたときには、すべての責任を負わせることができる。
「あなたは、制度を動かすために必要だった」
私は言った。
「同時に、失敗したときの犯人としても」
レオンは何も答えなかった。
拳だけが、膝の上で強く握られている。
私は発動承認書を窓際へ運び、光に透かした。
中央財務評議官の欄は空白。
門衛司令官の欄も空白。
けれど、財務執行官の欄には、すでに署名があった。
――レオン・グラーツ。
貼り合わせた跡はない。
削って書き直した形跡もない。
紙と墨の古さも、不自然ではなかった。
少なくとも、署名部分だけを最近書き加えたものではない。
「これは、あなたの字ですか」
「ああ」
レオンは認めた。
「俺の署名だ」
「この書類に署名した覚えは?」
「ない」
「では、なぜ本物の署名があるんです」
レオンは答えなかった。
沈黙が長くなる。
やがて、カイルが口を開いた。
「内容の書かれていない書類に、署名したことはあるか」
レオンの肩が、わずかに揺れた。
「この署名を書いたのは、お前自身なんだな」
責める口調ではなかった。
ただ証言を確認する、静かな声だった。
レオンはしばらく俯いていた。
そして、低く答えた。
「そうだ」
「何枚ですか」
私が尋ねる。
「六枚」
「用途は?」
「緊急支出用の承認用紙だと聞かされた。急ぎの決裁が出たとき、部下が内容を記入すると」
「内容を確認せず、先に署名を?」
「当時の俺は、それが危険だとは思っていなかった」
レオンは自分の署名を見つめた。
「数字を合わせるのも、書類を管理するのも、部下の仕事だと思っていた」
私は何も言わなかった。
知っている。
彼は、記録を確認することを仕事だと思っていなかった。
帳簿に向き合う者を、決断のできない人間だと笑っていた。
だから、私を役立たずの記録係と呼んだ。
「六枚のうち、五枚は確認できた」
レオンが続ける。
「通常の支出に使われていた。残る一枚だけが紛失したと報告された」
「その報告を調べましたか」
「調べなかった」
短い言葉だった。
言い訳もなかった。
「部下の管理不足だと思い、処分だけを命じた。用紙番号を失効させる手続きもしていない」
だから、今も正規の承認用紙として使える。
署名も本物。
用紙番号も正規。
あとは空白だった部分へ、命令を書き込めばいい。
「いつのことですか」
レオンが私を見る。
後悔とも恐怖ともつかないものが、その目にあった。
「覚えているはずだ、エリナ」
胸の奥が冷えた。
私は承認書へ視線を落とす。
墨は新しくない。
数か月前に書かれた署名だ。
「これは、いつ署名したものですか」
レオンは、しばらく答えなかった。
けれど、最後には目を逸らさずに言った。
「君との婚約を破棄した日だ」
あの日。
彼は夜会へ向かうため、財務局に残っていた書類を急いで処理した。
内容を読むこともなく、六枚の用紙に署名した。
そして大勢の貴族の前で、私との婚約を破棄した。
帳簿しか見ていない私を笑い、役立たずの記録係と呼んだ。
彼が軽んじた一枚の書類が、今、王都を閉ざすために使われようとしている。
ローディス監察官が発動承認書を手に取った。
「おかしい」
彼の指が、一番下の欄で止まる。
私はその場所を見た。
発動予定日。
その欄だけが、まだ空白だった。
署名はある。
正規の用紙番号もある。
必要物資の項目も、すでに記入されている。
けれど、いつ制度を発動するのかは書かれていない。
「物資の搬入期限は十八日後です」
私は呟いた。
「だが、発動が十八日後とは、どこにも書かれていない」
カイルの言葉に、背筋が冷えた。
準備がすべて整うまで、待つ必要はない。
中央財務評議官と門衛司令官の承認さえ揃えば、日付はいつでも書き込める。
明日かもしれない。
今夜かもしれない。
あるいは、すでに別の命令が門衛へ届いているかもしれない。
あの日、彼は私を役立たずの記録係と呼んだ。
その日に彼が残した署名が、今、王都を閉ざそうとしている。
そして空白だったのは、命令の内容だけではなかった。
王都が閉ざされる日も、まだ書かれていなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。




