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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人
記録の中で、私は死んだ

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第20話 燃やされる前の一頁

 私たちは、命令には追いつけなかった。


 けれど、火にはまだ追いつける。


「焼却を止めてください!」


 北部第三駅の庭へ馬を乗り入れたとき、東の空には細い朝日が差し始めていた。


 第四の種麦車は、古い検量棚の下に止められている。


 その周囲を、六人の男が囲んでいた。


 全員が、火のついた松明を持っている。


 車の横には六つの油樽。


 一つはすでに口を開けられ、地面に掘られた浅い溝へ油が流されていた。


 溝は種麦車の下を通り、検量棚の柱まで続いている。


 消毒のための配置ではない。


 火を運ぶための配置だった。


 そして、種麦車の前には一人の男が立っていた。


「カイル!」


 彼が振り返った。


 外套の裾は泥に濡れ、腰の剣には手を掛けていない。


 だが、一歩も退くつもりがないことは、その顔を見れば分かった。


 カイルの後ろには、二人の護衛に支えられたオスカーがいる。


 まだ顔色は悪い。


 それでも、自分の足で立っていた。


「どうしてオスカーがここに?」


「第四号車が倉庫から運び出された」


 カイルが答えた。


「それを聞いたオスカーが、この車に隠したものがあると言った。場所を知っているのは自分だけだと」


「立会命令が届いたのではないのですね」


「そんな命令は見ていない」


 私たちが途中で止めたからだ。


 オスカーは偽の命令に従って来たのではない。


 ミリアが残した一頁を取り戻すため、自分の意志でここへ来た。


「話はあとだ」


 カイルが低い声で言った。


「日の出になれば、こいつらは火をつける」


 種麦車の向こう側には、北部穀物管理局の役人が立っていた。


 茶色の上着。


 胸には、地方管理官の銀札。


「焼却を中止してください」


 私は馬から下りながら言った。


 足が地面へ着いた瞬間、膝から力が抜けそうになった。


 王都から、ほとんど休まず走り続けた。


 それでも、今は倒れるわけにはいかない。


 地方管理官が書類を掲げた。


「正式命令です。北部種麦第四号車に害虫混入の疑いあり。被害拡大を防ぐため、日の出をもって処分します」


「必要な署名がそろっていない」


 カイルが言った。


「緊急処分の場合でも、倉庫管理官、地方衛生官、村の代表者。三名の確認が必要だ」


「中央財務評議会の承認がある」


「中央の承認は、現地確認の代わりにはならない」


 以前のカイルなら、現場を守るために剣へ手を掛けていたかもしれない。


 だが今は違う。


 相手の命令を力で破るのではなく、命令が守っていない手続きを突いている。


 彼は、自分一人でここまで時間を稼いでいた。


「夜明けから同じ話を繰り返しています」


 地方管理官が苛立った声を出した。


「これ以上遅らせて、他の種麦まで汚染されたら、あなたが責任を取るのですか」


「その必要はない」


 ローディス監察官が馬から下りた。


「その命令は停止する」


 彼は、途中で作成した停止命令を広げた。


 監察局の印。


 発行日時。


 二名の立会署名。


 地方管理官は書類を受け取ったが、すぐには退かなかった。


「こちらの命令書にも、監察官の署名があります」


「その署名は、別の文書から切り取られたものだ」


「証明できますか」


「本人が、ここにいる」


 ローディス監察官は、自分の名が書かれた偽造命令を指した。


「私は、この命令を出していない」


 周囲にいた役人たちが顔を見合わせた。


 松明を持つ男たちにも、わずかな動揺が走る。


 東の空が、さっきより明るくなっていた。


 松明を持つ男たちの顔が、もう闇には隠れていない。


 地方管理官は二枚の命令書を見比べた。


 やがて、焼却命令をゆっくりと畳んだ。


「……確認が取れるまで、焼却は延期します」


 松明を持っていた者たちがざわめいた。


「油樽にも触れるな」


 地方管理官が続ける。


「第四号車は、このまま封鎖する」


 命令に従っただけの者と、最初から火をつけるために来た者。


 その違いが、ようやく現れた。


「待ってください」


 私は油樽へ近づいた。


「まだ何か?」


「中身を確認します」


「穀物消毒用の薬油です」


「でしたら、松明を近くへ置く理由はありません」


 私は油樽の前にしゃがんだ。


 樽は普通の木製だった。


 薬油なら、薬効が木へ染み込まないよう、内側に釉薬を塗った陶器へ入れる。


 木樽を使う場合も、内側に獣皮を張る決まりになっている。


 この樽には、どちらもない。


 口の周囲には黒い煤が付着していた。


 指先で少し拭い、匂いを確かめる。


 強い油の臭い。


 薬草の香りはしない。


「これは消毒用の薬油ではありません」


「何を根拠に」


「まず、容器が違います」


 私は途中で見つけた受取票を広げた。


 裏面には、油類の輸送区分が印刷されている。


 薬油は第二種。


 陶器使用。


 緩衝材必須。


 護送人員二名。


 だが、この六樽へ適用されているのは第四種だった。


 普通の灯火油と同じ区分だ。


「運送料も、第四種の金額です」


 私は樽を見た。


「中身は、灯火用の油です」


 地方管理官の顔色が変わった。


「私は、そのような報告を受けていない」


「では、地面の溝は誰が掘ったのですか」


 溝は、種麦車だけで終わっていない。


 検量棚の柱を通り、驛舎の裏口まで伸びている。


 さらに三つの未開封の樽が、倉房の壁際に置かれていた。


「第四号車だけを処分する配置ではありません」


 ローディス監察官が周囲を見た。


「驛舎も倉房も、ここにいる者も、すべて焼くつもりだったのか」


 地方管理官が、松明を持つ男たちへ向き直った。


「全員、松明を地面へ置け」


 五人は従った。


 一人だけ、動かなかった。


「聞こえなかったのか」


 地方管理官が近づく。


 その男は、松明を持ったまま油樽を見た。


 次に、第四の種麦車を見る。


「止めろ!」


 カイルが叫んだ。


 男は逃げなかった。


 開いた油樽へ向かって、松明を投げた。


     ◇


 火は、地面を走った。


 細い炎が油の溝を伝い、種麦車の下へ伸びる。


 カイルが男へ飛びついた。


 二人は地面へ転がった。


「水を!」


 ローディス監察官の声が響く。


「門を閉じろ! 誰も外へ出すな!」


 驛員たちが井戸へ走った。


 護衛の一人が油樽を蹴り、溝から遠ざける。


 だが、横倒しになった樽から、さらに油がこぼれた。


 炎が大きくなる。


 私は腰の小刀を抜き、車輪に結ばれた麻縄を切った。


 縄には油が染み込ませてある。


 火が縄へ移れば、荷台まで一気に燃える。


「エリナ、下がれ!」


 カイルの声が聞こえた。


 振り返る余裕はなかった。


 一本目。


 二本目。


 固く結ばれた縄へ刃を押し込む。


 屋根の向こうから、朝日が一本だけ差し込んだ。


 命令書に書かれた焼却時刻は、もう来ている。


 ようやく縄が切れ、燃え始めた端を蹴り離した。


 驛員たちが水を運んでくる。


 桶の水が炎へかかり、白い蒸気が上がった。


 それでも火は消えない。


 灯火用の油は水の上へ広がり、別の場所でまた燃え始める。


「土をかけろ!」


 馬丁が叫んだ。


「水だけでは広がる!」


 今度は、驛員たちが土を運び始めた。


 火は検量棚の柱へ移っていた。


 乾いた木が音を立てて燃える。


「オスカー!」


 私は叫んだ。


 彼は検量棚の奥にいた。


 壁際には、古い検量棒が何本も立てかけられている。


 オスカーは一本ずつ持ち上げ、端を確かめていた。


「どれですか!」


「古い方です!」


 煙の中から、かすれた声が返る。


「新しい検量棒が入ったとき、倉庫から外されたものです!」


 以前、北部の倉庫では計量道具が新しいものへ交換されていた。


 新しい量具には細工があり、種麦が少なくても正しい量に見えるよう作られていた。


 調べられたのは、いつも新しい量具だ。


 使われなくなった古い量具を気にする者はいない。


「新しい方には、細工があると思いました」


 オスカーが咳き込みながら言った。


「だから、誰も見なくなった古い方へ隠したんです」


 彼が、煤に汚れた一本を持ち上げた。


 積載した袋の高さを確認するための、太い検量棒だった。


 先端には、外せる木栓がある。


 その中に、ミリアの頁が入っている。


「見つけました!」


 その直後、検量棚の上から大きな音がした。


 燃えた梁が落ちてくる。


「オスカー!」


 私は走った。


 梁は彼のすぐ横へ落ちた。


 片端がオスカーの外套と右脚を押さえつける。


 手から離れた検量棒が、火のそばへ転がっていった。


「頁を……!」


 オスカーが手を伸ばした。


 梁の下から煙が上がる。


 このままでは、彼の服にも火が移る。


 少し離れた場所では、検量棒の先端が燃え始めていた。


 一瞬だけ、両方が目に入った。


 オスカー。


 ミリアの残した一頁。


「帳簿はあとです」


 私は梁へ手を掛けた。


「先に、オスカーを」


 熱い。


 一人では動かない。


「手を貸してください!」


 護衛と驛員が駆け寄った。


 三人で梁を持ち上げる。


 オスカーが自分の脚を引き抜いた。


 外套の裾に火が移っている。


 私は彼を地面へ倒し、土をかけた。


「脚は?」


「動きます……たぶん」


「たぶんでは困ります」


 肩を貸して、検量棚の外へ連れ出す。


 背後で木が崩れる音がした。


 焦げた麦と、濡れた木の匂い。


 以前にも嗅いだ匂いだった。


 けれど、あのときと違って、今は私一人ではなかった。


 驛員たちが土をかける。


 護衛が油樽を遠ざける。


 地方管理官は、自ら倉房の戸を開け、まだ燃えていない荷を外へ運ばせている。


 ローディス監察官は、逃げようとした男を拘束させていた。


 カイルは――。


「カイルはどこです」


 答えた者はいなかった。


 検量棚の中で、燃えた柱が倒れた。


「カイル!」


 立ち上がろうとした私の肩を、オスカーがつかんだ。


 煙の向こうから、人影が出てきた。


 カイルだった。


 左の袖が焦げている。


 右手には、先端の黒くなった検量棒を持っていた。


「オスカーは?」


 彼が訊いた。


「無事です」


「そうか」


 カイルは私の前へ検量棒を差し出した。


「なら、こっちも無事だ」


「腕を見せてください」


「少し焦げただけだ」


「少しかどうかは、私が決めます」


「記録係の仕事か?」


「今は鑑定補助者です」


 カイルの左袖は焦げていた。


 それでも、右手に持った検量棒は落としていなかった。


 私はそれを見て、ようやく自分の指が震えていることに気づいた。


     ◇


 日の出から一刻後。


 火は消し止められた。


 第四の種麦車は、車輪の一部を焦がしただけで残った。


 六つの油樽のうち、開かれたのは一つ。


 二つは車のそばから回収され、残る三つも倉房へ火が届く前に運び出された。


 火を投げた男は拘束された。


 だが、名前も雇い主も話そうとしない。


 地方管理官は、偽造命令と油の受取票を自らローディス監察官へ提出した。


 本当に何も知らなかったのか。


 どこまで命令を信じていたのか。


 それは、これから調べることになる。


 私たちは驛舎の石床へ、焦げた検量棒を置いた。


 オスカーが先端の木栓を回す。


 熱で膨らみ、簡単には動かない。


 カイルが布を巻いて力を加えた。


 小さな音とともに、木栓が外れる。


 棒の内部から、黒く焦げた紙の筒が出てきた。


 青い糸が巻かれている。


 火で半分ほど切れていたが、色は残っていた。


 ミリアが自分で染めた糸。


 原本と清書の数字が違うことを示す印。


「ミリアから届いたのですか」


 私が訊くと、オスカーはうなずいた。


「王都の記録に、北部へ送ったと書かれている量と、私が受け取った量が合わない。確認してほしいと」


「なぜ、すぐ報告しなかったのですか」


「報告しました」


 オスカーは静かに答えた。


「その二日後、私は死んだことにされました」


 誰かが彼の報告を受け取った。


 そして、調べるのではなく、報告した人間を消した。


 私は青い糸を切り、紙を開いた。


 上の部分は黒く焼け、文字が失われている。


 最終承認者の名もない。


 計画名も読めない。


 それでも、残った数字はあった。


 北部種麦購入予定 十二台。


 検収済      四台。


 未執行      八台。


 未執行残額    第七備蓄庫特別支出へ振替。


 十二台分の予算が出ている。


 けれど、実際に購入されたのは四台だけ。


 残る八台分の金が、王都第七備蓄庫へ移されていた。


 北部の村へ届かなかったのは、種麦だけではない。


 種麦を買うための金そのものが、別の目的へ使われていた。


 頁の下半分には、支出品目が並んでいた。


 塩。


 灯火用の油。


 乾燥肉。


 馬の飼料。


 矢。


 城門守備兵、二十日分の携帯食。


「軍の備蓄か?」


 カイルが訊いた。


「それなら、軍務局の支出になります」


「冬支度では?」


 ローディス監察官が言った。


「まだ冬まで五か月あります」


 私は頁の端に残った日付を確認した。


 受取期限。


 二十日後。


 同じ日までに、すべての物資を王都第七備蓄庫へ集めることになっている。


「第七備蓄庫……」


 その番号には見覚えがあった。


 王都でパンが消えたとき。


 周辺の運搬記録に、同じ倉庫番号が残っていた。


 荷車の数に比べ、馬の飼料も、車輪の修繕費も少なかった。


 あのとき私は、記録上だけ荷物が増やされているのだと思った。


 だが、それだけではなかった。


 北部の種麦購入費。


 王都から消えた小麦。


 塩。


 油。


 矢。


 城門守備兵の食料。


 すべてが同じ場所へ集められている。


「国境から警戒報告は?」


 私が訊くと、ローディス監察官は首を振った。


「ない。軍務局にも、非常招集命令は出ていない」


 外から敵が来るのなら、兵を集める記録が残る。


 けれど、この頁にあるのは、塩と油と、矢と、門兵二十日分の食料だけだった。


「冬に備えているのではありません」


 カイルが、焼け残った日付を見る。


「では、何に備えている」


「門を開けられなくなる日に、です」


 受取期限まで、あと二十日。


 誰かが、王都を外から守ろうとしているのではない。


 内側から閉ざそうとしていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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