第18話 返されなかった原本
「死亡者ではないことは認めます」
翌朝、中央財務評議会の受付官はそう言った。
「ですが、記録監査官として復職したわけではありません」
机の向こうに座った男は、私の提出した検死報告書を閉じた。
墓の中にいた女性が私ではないことは証明された。
私の死亡登録も、ひとまず効力を停止されている。
それでも、私の名はまだ職員台帳へ戻っていなかった。
死者ではない。
けれど、生きている役人でもないらしい。
「北部救援費の原本台帳を確認したいだけです」
「その台帳はありません」
「紛失したのですか」
「盗まれたのです」
受付官は、あらかじめ用意していたように一枚の書類を差し出した。
表題には、原本紛失報告とある。
紛失したのは、北部救援費・原本台帳。
持ち出した者は、臨時清書係のミリア・ソーン。
昨日、私の名をつけられて墓の中にいた女性だった。
昨日の時点では、私たちもミリアが原本を持ち出したと考えていた。
正確には、そう記録されていたからだ。
だが、記録されていることと、実際に起きたことは同じではない。
私は北部で、それを何度も見てきた。
「ミリアが持ち出したという証拠は?」
「貸出簿に記録されています」
「その貸出簿を見せてください」
「権限のない方にはお見せできません」
「なら、私が命じる」
後ろに立っていたローディス監察官が、監察局の令状を机に置いた。
「北部種麦事件、王国公文書偽造、身元偽装埋葬。三件に関係する記録だ。拒否するなら、拒否した者の氏名と理由をここへ書け」
受付官の視線が、令状と私たちの間を行き来した。
拒否そのものは簡単だ。
だが、拒否した事実と自分の名が記録に残るとなれば、話は違う。
「……少々、お待ちください」
男は席を立った。
「よく効きますね、その言い方」
私が小声で言うと、ローディス監察官は令状を畳んだ。
「人は命令より、自分の名が残ることを恐れる場合がある」
「記録の使い方を覚えましたね」
「誰かに何度も見せられたのでな」
貸出簿が運ばれてきたのは、それから半刻ほど後だった。
私たちは閲覧室へ通された。
窓には鉄格子があり、扉の外には二人の警備兵が立っている。
持ち込めるのは、紙と羽根筆だけ。
私の監査印は、今も封じられたままだ。
私は貸出簿の該当頁を開いた。
ミリア・ソーン。
北部救援費・原本台帳。
貸出時刻は、三日前の午後。
返却期限は、同日の日没。
返却欄は空白になっている。
一見すれば、ミリアが原本を借りたまま姿を消した記録だった。
けれど、最初の一行からおかしい。
「臨時清書係が、原本を一人で借りられるのですか」
受付官は答えなかった。
代わりに、評議会の記録管理官が口を開いた。
「原則としては、上席者の許可が必要です」
「許可者の署名がありません」
「記入漏れでしょう」
「貸出時刻の確認印もありません」
「それも記入漏れです」
「原本を持ち出した人物の所属番号も、立会人の名もない」
私は頁の上に指を置いた。
「すべてが記入漏れなのですか」
管理官の頬がわずかに動いた。
「忙しい部署です。多少の不備は起こります」
「では、貸し出した事実を誰が確認したのでしょう」
「担当者に調べさせます」
「その担当者は?」
「三日前に辞職しました」
「セヴラン・ハイムですね」
管理官は黙った。
原本を受け取ったとされるミリアは殺されている。
貸し出したとされるセヴランは姿を消した。
残っているのは、署名も確認印もない一行だけ。
責任を負う者がいなくなったあとで、誰かが書き足したような記録だった。
だが、それだけでは偽造を証明できない。
筆跡がセヴランのものと違っていても、別の担当者が記入したと言われれば終わる。
「ミリアの机を確認させてください」
私は言った。
「すでに調査済みです」
「誰が調査したのですか」
「内部調査官です」
「調査記録は?」
管理官は、また答えなかった。
◇
ミリアの机は、清書室の一番奥にあった。
小さな窓のそば。
冬になれば、隙間風が直接当たる場所だ。
臨時職員に与えられる机は、いつもそういうところにある。
机の上には何も残っていなかった。
羽根筆も、インク壺も、書き損じの紙さえない。
昨日見たセヴランの机と同じだった。
人が消えたのではない。
最初から誰もいなかったように片づけられている。
「何もありませんね」
管理官が言った。
私は机の引き出しを開けた。
空だった。
底板にも細工はない。
椅子を動かそうとすると、片方の脚の下から、折り畳まれた紙が落ちた。
近くにいた女性職員が、小さく息をのんだ。
「それ……ミリアが挟んでいたものです」
「なぜですか」
「椅子の脚が一本だけ短くて、座るたびに揺れるから」
女性職員は空になった机を見た。
「新しい椅子を頼めばいいのにって、何度も言いました。でも、臨時職員がそんなことを言ったら、次の月から呼ばれなくなるかもしれないからって」
折った紙には、数字も秘密の言葉もなかった。
昼食に使った銅貨の計算が、鉛筆で薄く書かれているだけだった。
机の上からは何もかも消されていた。
それでも、椅子の下には、ミリアがここに座っていた痕跡が残っていた。
私は紙を元の場所へ戻した。
椅子を持ち上げたとき、座面の下で何かが揺れた。
木枠に引っかかった、細い糸だった。
「青い糸……」
墓の中にいたミリアの爪にも、同じ色の染料が残っていた。
「彼女は帳簿の修理もしていましたか」
女性職員へ尋ねる。
彼女は管理官の顔を見てから、小さくうなずいた。
「正式な仕事ではありません。でも、綴じ糸が切れていると、よく直してくれました」
「青い糸を使って?」
「普段は白です」
「では、この青は?」
女性職員は迷った。
管理官が口を挟む。
「業務に関係のない質問です」
「答えてください」
ローディス監察官が言った。
女性職員は、自分の指先を握った。
「ミリアが、自分で染めていた糸です。普通の綴じ糸と区別するために」
「何を区別していたのですか」
「原本と清書した数字が違う帳簿です」
女性職員の声が小さくなる。
「上司に報告しても、誤記だから直せと言われることがありました。でも、どちらが正しいか分からないまま消すのが怖いからって」
「色に意味はありましたか」
「赤は計算の間違い。青は、原本と写しの不一致です」
墓で見たミリアの手を思い出した。
指先に残っていた針傷。
爪の脇に染み込んだ青い色。
彼女は、自分が見つけた違いを残すために、糸を染めていたのだ。
管理官の表情が変わった。
「根拠のない証言だ」
「でしたら、青い糸の帳簿を探せば分かります」
清書室の壁一面に、帳簿が並んでいた。
北部救援費という名の帳簿はない。
だが、ミリアが表題をそのまま残したとは限らなかった。
私たちは書棚から一冊ずつ取り出し、背を調べ始めた。
一冊。
十冊。
二十冊。
時間だけが過ぎていく。
管理官は次第に落ち着きを取り戻していた。
「もう十分でしょう。評議会の業務に支障が出ています」
「まだ終わっていません」
「存在するかも分からない糸を探して、すべての帳簿を調べるつもりですか」
このままでは何日もかかる。
私は最初に見た貸出簿を思い返した。
貸出記録には、原本の大きさも記載されていた。
縦一尺二寸。
横八寸。
厚さ二寸。
灰色の革表紙。
別の表題へ差し替えたとしても、中身の紙と綴じ方までは簡単に変えられない。
「道路補修費の棚を確認します」
「なぜです」
「北部救援費には、馬車代と輸送路の整備費が含まれています。隠すなら、数字の種類が近い帳簿へ紛れ込ませるはずです」
北部地方。
王道。
橋梁。
冬季補修。
該当する書棚には、灰色の帳簿が七冊並んでいた。
だが、貸出記録の寸法と一致するものは一冊しかない。
下から三段目。
背表紙の端が、わずかに膨らんでいる。
私は帳簿を取り出した。
題名は、王都北区道路補修費。
頁を開く前に、背の内側を確認する。
白い綴じ糸の奥に、一本だけ青い糸が通されていた。
「ありました」
女性職員が息をのんだ。
管理官が手を伸ばした。
「こちらで確認する」
ローディス監察官が、その手を止めた。
「その場に置け。全員が見ている前で開く」
帳簿の前半には、道路工事の記録が並んでいた。
石材費。
人夫の日当。
荷車の修繕費。
しかし、途中から紙の色が変わっている。
頁番号も、百二十一から百二十八へ飛んでいた。
表紙だけが道路補修費。
中身は、別の帳簿の清書だった。
北部救援費。
王都から北部へ送られた金額。
種麦の購入費。
運搬費。
冬季倉庫の維持費。
数字を追ううちに、私は違和感に気づいた。
「支出額が多すぎます」
記録上、北部へ送られた種麦は四台分。
だが、この清書では十二台分の購入費が支払われている。
運搬用の馬車は十八台。
護衛費は三十人分。
実際に北部へ届いた量とは合わない。
失われたのは、種麦だけではなかった。
最初から購入されていない種麦の金まで、支払われたことにされていた。
「清書です」
管理官が言った。
「原本ではない。誰が書いたかも分からない。証拠にはならない」
「だから、ミリアは印を残したんです」
「糸一本で何が証明できる」
「少なくとも、彼女が数字の不一致を見つけていたことは分かります」
私は最後の頁をめくった。
そこには数字ではなく、小さな紙片が挟まれていた。
原本返却票の控えだった。
北部救援費・原本台帳。
返却済み。
返却した者――ミリア・ソーン。
受領者――セヴラン・ハイム。
受領欄には、セヴランの署名がある。
正式な返却票なら、控えは保管箱へ入れられる。
だがこれは、ミリアが自分のために残した写しだった。
「原本は返却されています」
私は貸出簿を見た。
返却欄は空白。
その空白を根拠に、ミリアは原本を盗んだことにされた。
昨日、私たちが信じたのも、その記録だった。
「この署名が本物だという保証はない」
管理官が言った。
「調べれば分かります」
「それまで評議会を疑うつもりか」
「人が一人、殺されています」
私は管理官を見た。
「疑われたくなければ、記録を出してください」
清書室の入口から、ゆっくりと拍手の音がした。
一度。
二度。
私たちは振り返った。
濃紺の上着を着た、背の高い男が立っていた。
銀色の髪。
穏やかな笑み。
右手には、三羽の鳥が刻まれた指輪をはめている。
「見事です」
男は言った。
「死亡登録の効力が停止されたばかりと聞きました。それでも、もう調査を再開されるとは」
「あなたは?」
「中央財務評議官、アルベルト・クロイツです」
男は帳簿へ目を向けた。
「私からも、調査への全面協力を命じましょう」
管理官が驚いて振り返った。
「クロイツ卿。しかし――」
「隠すものがないのなら、拒む必要もありません」
アルベルトは微笑んだまま続けた。
「地下書庫も、保管庫も、私の執務室も。どうぞ、すべて調べてください」
あまりにも協力的だった。
原本がここにあると疑われている者の態度ではない。
私は返却票の受領者名を見た。
セヴラン・ハイム。
原本を最後に受け取った男は、三日前に姿を消している。
アルベルトは、それを知っている。
そして、探しても見つからないことまで知っているようだった。
「ありがとうございます」
私は答えた。
「遠慮なく調べさせていただきます」
「期待しています」
男は一礼すると、清書室を出ていった。
私たちはその後、地下書庫と三つの保管庫を調べた。
北部救援費の原本は見つからなかった。
セヴランの名が入った保管箱も空だった。
◇
夕方になり、私たちは記録監査室へ戻った。
机の上に、ミリアの残した返却票を置く。
原本は返した。
それなのに、彼女は原本を盗んだ者にされた。
「これだけでは、評議会の不正支出を証明できないね」
マルタさんが言った。
「清書は証拠になる。でも、原本と比べなければ、どちらが書き換えられたかまでは決められない」
「原本は、セヴランが持ち出したのでしょうか」
「持ち出せたならね」
中央財務評議会の原本は、持ち出すときに二つの門を通る。
そこで確認されれば、搬出記録が残る。
だが、該当する記録はなかった。
私は返却票を持ち上げた。
薄い紙だった。
窓から入る夕日の前へかざすと、文字の下に浅い線が見えた。
「マルタさん。炭粉を」
「何かあるのかい」
「この紙の上で、別の文章を書いています」
返却票は、別の紙の下に置かれていた。
上の紙へ文字を書いたとき、筆圧が下の紙にも残ったのだ。
マルタさんが細かい炭粉を持ってきた。
私は布で、紙の表面をそっとなでた。
黒い粉が浅い溝へ入り込む。
少しずつ、文字が浮かび上がった。
原本は返した。
最後の一枚は、返していない。
「最後の一枚……」
ローディス監察官が呟いた。
その下にも文字があった。
けれど、一部が重なっていて読めない。
私は紙の角度を変えた。
北。
オスカー。
二つの言葉だけが見えた。
「オスカー・ベルン」
北部で死亡したことにされ、倉庫へ閉じ込められていた記録係。
北部救援費の清書を担当していたのがミリアなら、現地で到着量を確認していたのはオスカーだ。
一人は王都で、送ったはずの数字を書き写す。
一人は北部で、実際に届いた量を記録する。
二人は同じ帳簿の、両端にいた。
ミリアは、自分が見つけた不一致を確かめるため、最後の一枚をオスカーへ送ったのだ。
「北部へ確認を――」
そう言いかけたとき、扉が開いた。
雨に濡れた伝令が入ってきた。
「北部監督所から、至急報です」
封書の日付は二日前。
王都まで、馬を替えながら走ってきたらしい。
私は封を切った。
差出人はカイルだった。
短い文だった。
オスカーが、第四の種麦車に隠したものがあると証言した。
青い糸で包んだ、一枚の帳簿頁。
隠し場所を知っているのは、オスカー本人だけ。
その下に、もう一行ある。
昨夜、何者かが療養所へ侵入。
オスカーへの接触を試みるも、護衛が発見。
侵入者は逃走。
「二日前……」
私は封書を握った。
この手紙が王都へ向けて出されたあと、北部で何が起きたのか分からない。
オスカーが無事なのか。
頁がまだ種麦車にあるのか。
確かめるには、さらに二日かかる。
「なぜ、隠し場所を知られたのでしょう」
私が言うと、マルタさんが返却票を見た。
「ミリアが北部へ送ったことを、誰かが知っていたんじゃないのかい」
ローディス監察官は、中央財務評議会から借り出した文書の束を開いた。
その中に、緊急伝令の出発記録がある。
北部行きの欄を追っていた指が止まった。
「一人、いる」
「いつ出発しましたか」
「昨日の朝だ」
私たちが墓を開き、ミリアの名を知るより前。
中央財務評議会から、一人の伝令が北部へ出発していた。
用件は、北部監督所への文書送達。
携行文書の表題は記録されていない。
署名した承認者の欄には、三羽の鳥をかたどった印が押されていた。
今朝、アルベルト・クロイツの指にあったものと同じ印。
それだけで、彼が命じたとは断定できない。
評議官執務室では、補佐官が代理で印を扱うこともある。
だが、偶然として見過ごすこともできなかった。
北部へ向かった男は、私たちより先に帳簿の頁を知っていた。
そして今も、オスカーのいる場所へ近づいている。
探していた一枚は、まだ北部にある。
けれど、それを隠したオスカーの命が残っているかどうかは、王都のどの記録にも書かれていなかった。
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