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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人


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墓の中の私

「自分の墓を開けるには、本人の許可が必要です」


 北墓地の管理人は、困ったようにそう言った。


「本人なら、ここにいます」


 私は答えた。


 管理人は手元の埋葬台帳と、私の顔を交互に見た。


「ですが、記録上、エリナ・ヴァルトは死亡しています。亡くなった本人から許可を受けることはできません」


 間違った記録ほど、正しく人を縛る。


 私が何も言えずにいると、ローディス監察官が一枚の書類を台の上へ置いた。


「では、本人の許可ではなく、王国監察局の緊急検証命令で開けてもらおう」


「緊急検証……ですか」


「遺体の身元が偽られている可能性がある」


 管理人の顔色が変わった。


 墓地の上には、重い雲が広がっていた。


 風は湿っている。


 雨が降れば、墓の周囲に残っているかもしれない車輪の跡も、足跡も消える。


「急いでください」


 私は言った。


「日没までに、記録監査室の文書も中央財務評議会へ移されます」


「死者の墓と、生者の記録か」


 ローディス監察官が空を見上げた。


「どちらも、今日中に守らなければならないらしい」


 管理人は命令書の印を確かめると、墓守を二人呼んだ。


 王都北墓地、第三区画。


 許可番号、四百十七。


 そこには、新しい土が盛られていた。


 墓標に刻まれているのは、私の名前だった。


 ――エリナ・ヴァルト。


 生まれた年も、王国記録局に勤め始めた年も正しい。


 死亡した場所だけが違っていた。


 西の廃鉱。


 私はそこで死んでいない。


 それでも墓標は、私がここに眠っていると告げていた。


 墓守が土へ鋤を入れた。


 湿った音がした。


 一度。


 二度。


 掘り返された土の匂いが、風に混じる。


 マルタさんは私の隣で、何も言わなかった。


 いつもなら、書類の綴じ方ひとつにも小言を言う人だ。


 けれど今は、土の中から現れた棺を、じっと見つめていた。


 棺の蓋には、王都救貧院の焼き印があった。


 貧しい者や、身元の分からない者を埋葬するときに使われる棺だ。


 それなのに埋葬台帳には、私の身分も職歴も詳しく記されている。


「おかしいですね」


 私が言うと、管理人が顔を上げた。


「何がです」


「身元が確認できていたのなら、この棺は使いません」


 管理人の手が止まった。


 ローディス監察官が台帳を確認する。


「棺を用意した者の名は?」


「……セヴラン・ハイム」


 昨日まで中央審査室にいた審査官。


 私の再審査請求を受け取り、三日前に辞職した男。


 そして、その後どの城門からも王都を出ていない男だった。


 棺が地上へ引き上げられた。


 立ち会いの検死官が封を確認し、細い刃を差し込む。


 釘が一本ずつ抜かれた。


 最後の釘が土の上へ落ちる。


 蓋が開いた。


 中には、若い女性が横たわっていた。


 年齢は私と大きく違わない。


 背丈も、髪の色も近い。


 顔には白い布が掛けられている。


 けれど私が最初に見たのは、顔ではなかった。


 女性が着ている灰色の外套。


 見覚えがあった。


「それ……」


 マルタさんが息をのんだ。


「お前の外套じゃないか」


 王国記録局へ勤め始めた年に支給されたものだった。


 袖口にインクをこぼし、落ちなかったので、机の一番下の引き出しへしまっていた。


 女性の胸元には、私の職員札まで置かれている。


 名前も、所属も、記録監査官補という古い役職も記されていた。


「これだけあれば、遺体を見た者はエリナだと思うでしょう」


 管理人が呟いた。


「思わせるために置いたんです」


 私は棺のそばに膝をついた。


「検死官。手を見てもよろしいですか」


「触れないでください。私が確認します」


 検死官が女性の右手を持ち上げた。


 指先は細い。


 けれど、人差し指の側面に、羽根筆を長く使う者特有の硬い痕はない。


 代わりに指先には、小さな傷がいくつも残っていた。


「針傷ですね」


 検死官が言った。


 爪の脇には、薄い青色が残っていた。


 汚れではない。


 布を染めるときに使われる染料だった。


「記録係の手ではありません」


 私は自分の右手を開いた。


 中指には、筆を支えてきた硬い部分がある。


 爪の根元には、洗っても消えきらないインクが残っていた。


 棺の女性の手には、そのどちらもなかった。


 検死官は肩幅、手足、歯の状態を順番に確かめた。


「外套は、この女性には少し大きい」


 袖を裏返すと、内側が粗い糸で縫い縮められていた。


 急いで体形を合わせたのだ。


「遺体の特徴は、埋葬記録と一致しません」


 検死官は立ち上がった。


「少なくとも、この女性がエリナ・ヴァルト本人であると証明することはできません」


「逆です」


 私は言った。


「証明できないのではありません。この遺体は、エリナ・ヴァルトではありません」


 検死官は少しだけ黙った。


 やがて、新しい検証書を取り出した。


「そう記載しましょう」


 羽根筆が紙の上を走った。


 遺体と埋葬名義は一致せず。


 身元を再調査するまで、死亡登録の効力を停止する。


 私が正式に生き返ったわけではない。


 それでも、私の死は確定した事実ではなくなった。


 遠くで鐘が鳴った。


 日没まで、あと一刻だった。


「監察官」


 墓地の入口から、若い局員が駆けてきた。


「中央財務評議会の移送係が、記録監査室へ到着しました。すでに証拠箱への封印を始めています」


 ローディス監察官が検証書を受け取った。


「王宮へ戻る。墓の周囲は封鎖しろ。車輪の跡も、土も残せ」


 私は棺の女性を振り返った。


 彼女は私の代わりに死んだのではない。


 死んだあと、私にされたのだ。


「行きましょう」


 今はまだ、彼女の名前が分からない。


 だからこそ、奪われる前に記録を取り戻さなければならなかった。


     ◇


 記録監査室へ戻ったとき、廊下には六つの木箱が並んでいた。


 中央財務評議会の紋章が入った封印布が、箱の上から掛けられている。


「止めてください!」


 私が声を上げると、移送係の男が振り返った。


「部外者は下がれ」


「その中には北部種麦事件の証拠があります」


「承知している。監査室の解散に伴い、中央財務評議会が引き継ぐ」


「引継命令は無効です」


 男は私の顔を見た。


 次に、手元の書類へ視線を落とす。


「エリナ・ヴァルトは死亡している。死者に異議を申し立てる権利はない」


「では、記録だけを確認してください」


 私は引継目録を開いた。


「この目録が作成されたのは、私が北部へ出発した翌日です」


「それがどうした」


「ここには『北部種麦事件・第六号証拠箱』とあります。しかし、第六号証拠箱が作られたのは、その九日後です」


 移送係の手が止まった。


「目録の作成者は、まだ存在していない箱を記載しています」


「単なる日付の誤記だ」


「でしたら、文書収受簿を確認しましょう。目録がいつ提出され、誰が受け取ったのか。誤記なら、訂正の記録が残っているはずです」


「その必要はない」


「あります」


 ローディス監察官が、私の後ろから答えた。


 彼は検死官の署名が入った書類を掲げた。


「エリナ・ヴァルト名義で埋葬された遺体は、本人ではないことが確認された。死亡登録の効力は、ただいまをもって停止された」


「しかし、解散命令は中央財務評議会の正式な――」


「その命令が、偽造された死亡登録を根拠にしている」


 廊下にいた局員たちが、こちらを見ていた。


 誰も声を出さない。


 けれど全員が、移送係の返答を待っている。


 ローディス監察官は、封印された箱の前に立った。


「王国監察局の権限により、記録監査室の解散および全資料の移送を停止する。この場で箱を動かした者は、証拠隠滅の疑いで拘束する」


 移送係の男は、封印布から手を離した。


 日没を告げる鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 証拠箱は、廊下に残った。


 奪われずに済んだ。


 だが、終わってはいない。


「エリナ」


 マルタさんが、一冊の薄い帳簿を持ってきた。


「北墓地の棺に、救貧院の印があったんだろう?」


「はい」


「なら、ここを見な」


 それは王都救貧院から記録局へ送られた、死亡者の所持品目録だった。


 身元不明者が出た場合、衣服や持ち物の特徴を記録局へ届ける決まりになっている。


 私は三日前の頁を開いた。


 若い女性。


 推定二十歳から二十五歳。


 右手の指先に多数の針傷。


 爪に青色染料。


 そして、衣服の内側から見つかった、小さな布札。


 そこには一人の名前が記されていた。


 ミリア・ソーン。


「この人を調べてください」


 私が言うと、若い局員が隣の職員台帳を開いた。


 名前を追っていた指が、途中で止まる。


「いました」


「所属は?」


 局員は顔を上げた。


「中央財務評議会です。臨時の清書係として、半年前から雇われています」


 廊下が静まり返った。


「最後に担当していた文書は?」


 台帳には、貸出記録が添付されていた。


 ミリア・ソーン。


 最終出勤日は三日前。


 未返却の原本、一冊。


 その帳簿名を見た瞬間、北部で見てきた数字が、頭の中で一本につながった。


 北部救援費・原本台帳。


 種麦を買うための金。


 馬車を雇うための金。


 冬を越すため、北部へ送られたはずの金。


 消えた種麦とは、別の事件ではなかった。


 私は、墓地で眠っている女性の手を思い出した。


 帳簿を書く手ではない。


 けれど彼女は、誰かの書いた数字を清書していた。


 そして、見てはいけない数字を見た。


「彼女は、私の身代わりに選ばれたんじゃありません」


 私は未返却の印が押された行を指さした。


「この帳簿を見たから、殺されたんです」


 墓の中にいたのは、私ではなかった。


 けれど、名もない身代わりでもなかった。


 中央財務評議会の清書係。


 ミリア・ソーン。


 そして彼女が死の直前に持ち出した原本は、まだ見つかっていない。

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