死者は王都に入れない
「エリナ・ヴァルトは、すでに死亡しています」
王都北門の守衛は、私の顔ではなく、机の上の名簿を見ていた。
北部を出発してから二日。
私たちは、ようやく王都へ戻った。
先頭にはローディス監察官。
後ろには、ユリウスとグレンを乗せた囚人馬車。
オスカーの馬車と、二組に分けた証拠箱も続いている。
それでも、門は開かなかった。
「本人が、ここに立っています」
ローディス監察官が言った。
「そう見えることと、本人であることは別です」
守衛は王国公報を広げた。
そこには、私が西部廃鉱山付近の崖から転落し、死亡したと書かれている。
「王都住民台帳にも死亡の記載があります。記録監査官としての身分も失効しています」
「その公報が偽りであることを証明するために戻ったのです」
「では、正式な生存確認書を提出してください」
「その確認を受けるには、王都へ入る必要がある」
「規則ですので」
守衛は困ったように答えた。
彼が私を嫌っているわけではない。
命令に従っているだけだ。
目の前に立つ人間より、名簿に残された一行を信じる。
それが彼の仕事だった。
「私が証言します」
ローディス監察官が身分証を示した。
「私は北部で彼女の拘束を解除し、ここまで同行しました」
「あなたも北部事件の関係者です。関係者の証言だけでは、死亡記録を取り消せません」
正しい。
だからこそ、簡単には崩せない。
「エリナ・ヴァルトとしては、王都へ入れないのですね」
私が尋ねた。
「はい」
「では、氏名不詳の重要証人としてなら?」
守衛が顔を上げる。
「何ですか」
「私は、自分をエリナ・ヴァルトだと主張しています。ですが、王国の記録はそれを認めていない」
私は入城記録を指した。
「本人であることが確定していないのなら、現時点では身元不明者です」
守衛は答えに詰まった。
ローディス監察官が続ける。
「身元不明の事件関係者を、監察官の監督下で入城させる規定があります。拒否するのであれば、該当する禁止条文を示してください」
守衛は規則書を開き、何頁もめくった。
だが、禁止する条文は見つからなかった。
「……入城目的は?」
「北部種麦事件に関する証言と、身元の再確認」
「同行責任者は?」
「王国監察院、ローディス監察官」
守衛は新しい頁を開いた。
名前の欄で筆が止まる。
「氏名は、どう記録しますか」
「氏名不詳としてください」
守衛の筆が動いた。
氏名不詳。
北部種麦事件・重要証人。
同行責任者、ローディス監察官。
私は、自分の名を持たないまま王都へ戻った。
◇
門を通ってすぐ、公告板が見えた。
人々が何人も集まっている。
中央には、黒い枠で囲まれた王国公報。
エリナ・ヴァルト死亡。
その文字だけが、周囲より大きく書かれていた。
「記録官が種麦を盗んだらしい」
「婚約を破棄された腹いせだって聞いたぞ」
「護送中に逃げて死んだんだろう」
「最初の小麦事件も、自分で仕組んだんじゃないのか」
知らない声が、私の人生を語っていた。
事実ではない。
それでも、公報に書かれた瞬間から、彼らにとっては真実になる。
ローディス監察官が公告板へ近づいた。
「外しますか」
「いいえ」
「ですが」
「掲示時刻と場所を記録してください。これも証拠です」
誰が、いつ、どの内容を公報として発行したのか。
何部作られ、どこへ送られたのか。
すべて調べる必要がある。
一枚剥がしても、各地へ送られた公報までは消せない。
私は自分の死亡告示に背を向けた。
◇
王宮記録局の扉を開けると、紙と乾いた革の匂いがした。
棚の位置。
机についた傷。
窓際に積まれた未整理の記録。
以前と何も変わっていない。
私の席を除いて。
机の上には、筆も帳簿もなかった。
引き出しも開け放たれている。
「誰だい」
書庫の奥から声がした。
鍵束を腰に下げたマルタが、書類を抱えて出てくる。
私を見る。
足が止まった。
腕の中の書類が一冊だけ傾き、腰の鍵束が小さく鳴る。
「マルタさん」
彼女はすぐには答えなかった。
私の顔。
包帯を巻いた右手。
後ろに立つローディス監察官。
一つずつ確かめる。
「死人にしては、顔色がいいね」
「ご心配をおかけしました」
「謝るところじゃないよ」
マルタは抱えていた書類を机へ置いた。
それから私の肩を一度だけ、強く掴む。
「本物かい」
「その確認をするために戻りました」
「そういう答え方をするなら、たぶん本物だね」
手はすぐに離れた。
泣きもしない。
抱きしめもしない。
けれど、肩に残った力だけで十分だった。
「私の机は?」
「死者に机は必要ないと言われたよ」
マルタの声が低くなる。
「三日前、記録監査室の解散命令が届いた。あんたの死亡が確認されたことを理由にね」
「資料は?」
「まだ渡していない」
「移管期限は?」
「今日の日没だ」
窓の外を見る。
太陽はすでに西へ傾き始めている。
残された時間は三時間もない。
「中央財務評議会の者は来ましたか」
「一度ね。保管封印の照合が終わっていないと言って追い返した」
「次も同じ理由で止められますか」
「無理だね。今度は照合を終えた証明書を持ってくる」
記録監査室が解散すれば、二つの穀物事件に関する資料は、中央財務評議会の管理下へ移る。
そこには、評議会議長の印が使われた命令書も含まれている。
調査される側へ、証拠が引き渡される。
「解散命令と、引継目録を見せてください」
◇
命令書の形式は正しかった。
王宮行政局の承認印。
中央財務評議会議長の印。
王国監察院の受領印。
三つとも本物に見える。
命令書には、事前に作成された引継目録が添えられていた。
バルガス侯爵穀物横領事件。
北部三倉庫の修繕記録。
古い塩倉庫の建築図面。
偽造枡。
押収した商会契約書。
そして、最後の一行。
北部種麦事件・第六号証拠箱。
「第六号……」
私は目録の日付を確認した。
私が王都を出発した翌日。
まだ最初の村へも到着していない。
種麦が届いていないことも、オスカーが死亡したことにされている事実も知らなかった。
第六号証拠箱を作ったのは、その後だ。
北部で偽造命令書を発見し、第二十七号の番号を確認した日に作成した。
その箱は今、別の護衛隊が王都へ運んでいる。
まだ記録局へ到着すらしていない。
「なぜ、この目録に第六号証拠箱があるのです」
マルタが書類を覗き込む。
「いつ作った箱だい」
「この目録の日付より後です」
日付だけを遡って書いた可能性もある。
だが、文書収受簿には、同じ日、同じ番号で目録が登録されていた。
誰かが、まだ存在していない証拠箱を先に記録した。
そして私の死亡公報が発行されたあと、その目録を使って証拠の移管を始めた。
「この文書は、どこを経由しましたか」
「中央審査室だよ」
三台という誤った種麦の数が漏れた場所と同じだった。
「収受簿を確認する必要があります」
「あなたには、閲覧権限がない」
ローディス監察官が言った。
「わかっています」
私は一歩下がった。
「ですから、監察官であるあなたが確認してください」
今の私は、氏名不詳の重要証人。
かつて自分が使っていた机の引き出しすら、勝手に開けられない。
◇
中央審査室は、記録局と同じ建物の二階にある。
地方から届いた監査報告や再審査請求は、ここで収受され、担当部署へ振り分けられる。
文書収受簿には、北部から送った再審査請求が記録されていた。
到着日。
封印の状態。
添付資料の数。
受取人。
「セヴラン・ハイム」
ローディス監察官が名前を読み上げる。
中央審査官の一人だった。
私も顔は知っている。
受け取った書類の角が少し曲がっているだけで、差出人へ戻すことで知られた男だ。
「彼はどこですか」
ローディス監察官が審査室の書記官へ尋ねる。
「本日は出勤しておりません」
「昨日は?」
「昨日もです」
「欠勤届は?」
書記官が人事記録を持ってきた。
セヴランは三日前に退職したことになっている。
私の死亡公報が発行された日と同じだった。
「退職願は誰が受理しましたか」
「中央審査室長です」
「本人はどこへ?」
「王都を離れたと聞いています」
「各門の通行記録を確認してください」
北門。
南門。
東門。
西門。
過去三日分の記録に、セヴランの名はなかった。
偽名を使った可能性はある。
だが、正式な身分証では王都を出ていない。
「まだ王都にいる」
ローディス監察官が言った。
「あるいは、記録に残らない方法で出たか」
「彼の机を調べてください」
中央審査室長は拒もうとした。
しかし、ローディス監察官が北部で発見された証拠と、情報漏洩の可能性を示すと、立ち会いを条件に認めた。
セヴランの机は、不自然なほどきれいだった。
筆。
私物。
担当文書。
すべて持ち出されている。
引き出しにも何もない。
「逃げる準備をしていたのですね」
「それなら、なぜ正式な退職記録を残した」
ローディス監察官が机の底を調べる。
私は文書に触れる権限がないため、少し離れた場所から見ていた。
「マルタさん」
「何だい」
「あの引き出しだけ、奥行きが短くありませんか」
同じ形の机が隣に並んでいる。
右側の引き出しは、ほかの机より指二本分ほど浅い。
マルタが引き出しを抜いた。
奥に薄い板がある。
板を外すと、一枚の紙が落ちた。
「埋葬許可証の控え……?」
ローディス監察官が拾い上げる。
王都北墓地。
第三区画。
許可番号、四一七。
埋葬者の欄には、こう書かれていた。
エリナ・ヴァルト。
「埋葬日時は?」
私が尋ねた。
ローディス監察官は、もう一度紙を確認した。
「本日、夜明け前」
私たちが北門へ到着する、数時間前だ。
「遺体確認者は?」
「中央審査官、セヴラン・ハイム」
室内が静まり返った。
「私は、ここにいます」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。
ローディス監察官は、埋葬許可証の控えを持ったまま答えない。
マルタだけが、私の横顔を見ていた。
生きている私が王都へ戻るより先に。
私の名をつけられた死体が、王都へ帰っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。




