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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人
記録の中で、私は死んだ

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第14話 私の罪を、書き直す

「署名してください。そうすれば、苦しまずに済みます」


 ユリウスは一枚の文書を差し出した。


 場所は、十年前に閉鎖された西部鉱山。


 私の背後には、深い坑道。


 前には、剣を持った八人の護送員がいる。


 逃げ道はなかった。


「これは何ですか」


「あなたの自白書です」


 文書には、すでに私の罪が書かれていた。


 監査用紙第二十七号を複製したこと。


 北部七村への種麦輸送を停止したこと。


 グレン・ハルトへ、不正な移送を命じたこと。


 二台分の種麦が回収されたため、罪が発覚したこと。


 そして、王都への護送中に逃亡し、この鉱山の崖から転落したこと。


 あとは、最後に私の署名を入れるだけだった。


「ずいぶん詳しく書かれていますね」


「事実を並べただけです」


「事実ではありません」


「今さら否定しても意味はありません」


「種麦は二台ではありません」


 ユリウスの目が、わずかに動いた。


「何のことです」


「回収された種麦は四台です。最後の一台も、今朝、北部管理所へ戻りました」


「それは知りませんでした」


「当然です」


 私は自白書を見下ろした。


「二台と書いた覚書は、護送車の証拠箱にしか入れていません」


 正式な記録には、すべて正しい数を書いてある。


 二台と記したのは、情報の流れを調べるために作った検証用覚書だけだ。


 その覚書を入れた箱は、ユリウス自身が封印した。


「この自白書を書いた者は、証拠箱を開けましたね」


 護送員たちの間に、小さな動揺が広がった。


 ユリウスだけは表情を変えなかった。


「拘束した被疑者の証拠を確認するのは、当然のことです」


「では、開封記録はどこですか」


「必要ありません」


「封印された証拠箱を開く場合、立会人二名の署名が必要です。備品管理官なら、ご存じでしょう」


「あなたは、もう記録官ではない」


「それでも手続きは変わりません」


 ユリウスは自白書を持ったまま、私へ一歩近づいた。


「あなたは、ここで死ぬのです。手続きが一つ欠けていようと、何の問題もない」


「問題があります」


「何が?」


「この自白書では、私の死を説明できません」


 私は文書の下半分を指した。


「私が護送中に逃げたと書かれています。ですが、護送車の鍵は壊れていない。私の手にも、鍵や錠を壊した傷がない」


「護送員の一人から鍵を奪ったことにすればいい」


「八人全員が見張っていたのに?」


「隙を突いた」


「その私を、誰も追わなかったのですか」


 ユリウスの口元から笑みが消えた。


「護送計画では、南部街道を通ることになっています。ところが私の遺体は、西部鉱山で発見される」


 私は周囲を見回した。


「南部街道からここへ来るには、途中で西へ曲がらなければなりません。宿駅の通行簿にも、八頭の馬と護送車が記録されます」


「記録など、あとで書き換えられる」


「北部管理所、二つの宿駅、街道の関所。すべてですか」


「必要なら」


「七村の代表者が持つ写しも?」


 ユリウスは答えなかった。


「同じ記録を、一か所には置いていません」


 私の自白書を一枚作るだけでは足りない。


 護送経路。


 出発時刻。


 同行者。


 馬の数。


 宿駅で与えた飼料。


 すべてを書き換えなければ、私は逃亡者にならない。


「このまま私を殺せば、あなた方が護送経路を外れた記録だけが残ります」


「時間を稼いでいるのですか」


「自白書の誤りを指摘しています」


「誰かが助けに来ると思っている?」


「いいえ」


 私は答えた。


「記録を正しくしようとしているだけです」


 それは嘘ではなかった。


 この場で生き残れなかったとしても、矛盾は残る。


 私を殺した者が、すべてを消せない形で。


 ユリウスはしばらく私を見ていた。


 やがて、自白書を近くの木箱へ置いた。


「では、どう書けば正しいのです」


「まず、護送先を変更した理由が必要です」


「特別尋問のため、鉱山へ移送した」


「誰の命令で?」


「王国監察院の特別調査命令です」


「命令番号は?」


 ユリウスの眉が動いた。


「そのような番号は必要ない」


「番号のない命令では、私の身柄を正式に移送できません」


「では、臨時命令とする」


「発令者は?」


「私です」


「備品管理官に護送先を変更する権限はありません」


「……監察院長代理の命令だ」


「書面に残してください」


 護送員の一人が苛立った声を上げた。


「もういいでしょう。ここで始末すれば――」


「黙れ」


 ユリウスが制した。


 彼は私の時間稼ぎに気づいている。


 それでも、このまま殺せば、矛盾が残ることも理解していた。


 自分たちの計画を、より完全なものにしたい。


 その傲慢さだけが、私に時間を与えていた。


「紙と筆を」


 ユリウスが命じる。


 護送員が鞄から公文用紙を出した。


 ユリウスは左手で筆を持ち、木箱の上に新しい文書を書き始めた。


 西部鉱山を、臨時の尋問場所に指定する。


 エリナ・ヴァルトを同地へ移送する。


 移送中、被疑者が逃亡した場合は、現場の判断で拘束する。


 その過程で死亡しても、護送責任者の罪は問わない。


「最後の一文は、自白書ではありません」


「必要な手続きです」


「誰にとって?」


 ユリウスは答えず、文書の下へ署名した。


 ユリウス・ノルド。


 王国監察院備品管理官。


 左手で書かれた署名。


 そして彼は、腰から黒い封蝋を取り出した。


 火で蝋を溶かし、文書へ落とす。


 残翼の鷹が刻まれた印を押した。


 グレンとオスカーが見たものと、同じ封印だった。


「これで満足ですか」


「はい」


 私は文書を見つめた。


「あなたが私をここへ連れてきた記録になりました」


 ユリウスの手が止まった。


「何?」


「私は、自白書を書き直してほしいとは言っていません」


 彼が作ったのは、自分自身の命令書だった。


 正規の護送経路を外れ、権限のない備品管理官が、被疑者を廃鉱山へ移送した。


 そのうえ、死亡しても責任を問わないと書いてある。


 私を殺すための文書。


 同時に、彼自身が計画へ関わった証拠でもある。


「その紙を燃やせ」


 ユリウスが命じた。


 一人の護送員が文書へ手を伸ばす。


 私は先に紙を掴み、後ろへ下がった。


「押さえろ!」


 二人が近づいてくる。


 背中が、坑道脇の木枠へ触れた。


 その足元には、錆びた鉄の軌道が残っていた。


 閉鎖された鉱山で、鉱石を運ぶために使われていたものだ。


 空の鉱車が一台。


 傾斜の上で、木の楔によって止められている。


 護送員たちは、軌道のすぐ下に立っていた。


 私は足で木の楔を蹴った。


 一度では動かない。


 もう一度、力を込める。


 楔が外れた。


 鉱車が軋みながら動き出す。


「どけ!」


 護送員が叫んだ。


 傾斜で速度を上げた鉱車が、二人の間へ突っ込んだ。


 一人が脇へ飛び、もう一人は肩をぶつけられて倒れる。


 鉱車はそのまま入口近くの木材へ衝突した。


 積まれていた板が崩れ、坑道の中央を塞ぐ。


 完全には止められない。


 それでも、護送員たちの動きは分断された。


「捕まえろ!」


 ユリウスが左手の剣を抜く。


 私は坑道の奥へ逃げなかった。


 行き止まりかもしれない場所へ入れば、追い詰められる。


 崩れた木材を挟み、入口に近い壁際へ移動する。


 自白書ではない命令書を、胸元へ押し込んだ。


 ユリウスが木材を乗り越えてくる。


 黒い手袋をした右手が、私の腕を掴んだ。


「放しなさい」


「余計なことをするからだ!」


 左手の剣が上がる。


 そのとき、鉱山の外から声が響いた。


「王国北部守備隊だ! 武器を捨てろ!」


 ユリウスの顔が変わった。


 馬の蹄。


 複数の足音。


 金属がぶつかる音。


「なぜ、ここが……」


 私は道中のことを思い出した。


 護送車が西へ曲がったとき、裙の内側から糸を切り、扉の隙間から落とした。


 次の分かれ道では、袖口の留め具を外した。


 記録監査室の番号が刻まれた、小さな銅の留め具。


 文字を書くものがなくても、私がそこを通った証拠にはなる。


「エリナ!」


 カイルの声だった。


 彼が崩れた木材の向こうから現れる。


 包帯を巻いた右腕ではなく、左手に剣を持っている。


「合図を待てと言ったな」


「まだ合図していません」


「鉱車の音が聞こえた」


「それは合図では――」


「俺には、そう聞こえた」


 ユリウスが私を引き寄せ、剣を首元へ向けた。


「近づくな!」


 カイルの足が止まる。


 その後ろでは、北部守備隊が護送員たちを取り囲んでいた。


 ローディス監察官もいる。


「ユリウス・ノルド」


 彼が声を上げた。


「正規の護送経路を外れた理由を説明してください」


「特別調査命令だ!」


「命令書は?」


「ここに――」


 ユリウスは言いかけて、私の胸元を見た。


「その文書は、彼女が偽造した!」


「今、あなたが書いたものです」


 私は言った。


「八人の護送員が見ています」


「全員、私の部下だ。誰がお前の言葉を信じる!」


 護送員たちの一人が、剣を地面へ置いた。


「俺は見た」


 若い男だった。


「ノルド管理官が書いた。鷹の印も、本人が押した」


「貴様!」


「人を殺すとは聞いていない!」


 もう一人が武器を捨てた。


 さらに一人。


 命令に従ってきた者たちは、全員が死ぬ覚悟をしていたわけではない。


 逃げ道がなくなれば、沈黙を守る理由も消える。


「終わりです、ユリウス」


 ローディス監察官が言った。


「剣を捨ててください」


「終わるものか」


 ユリウスの腕に力が入る。


 剣先が首へ近づく。


 次の瞬間、カイルが地面を蹴った。


 私も同時に身体を沈める。


 剣先が髪を掠めた。


 カイルの左手がユリウスの手首を打つ。


 剣が地面へ落ちた。


 私は腕を振りほどき、横へ転がる。


 ユリウスが逃げようとしたが、カイルが背後から押さえつけた。


「離せ!」


「断る」


「私は王国監察院の備品管理官だぞ!」


「今は、護送中の記録官を殺そうとした容疑者だ」


 守備隊がユリウスの両手を縛る。


 黒い手袋が外れた。


 右手には、古い火傷の跡があった。


 彼が言ったことは、嘘ではなかった。


 だが、真実の一部だけを語ることも、相手を欺く方法になる。


     ◇


「手を見せろ」


 カイルが私の前へ来た。


「怪我はありません」


「右手だ」


 命令書を掴んだとき、溶けた封蝋が手のひらへ落ちていた。


 小さな火傷が赤くなっている。


「大した傷ではありません」


「火の中へ手を入れたのか」


「書類が燃えるところでした」


「次は、書類より先に自分を守れ」


 強い声だった。


 けれど、怒っているのではない。


 彼の包帯を見たとき、私が感じたものと同じなのだと思った。


「それは、あなたが以前言ったことですね」


「何を?」


「人が先だ、と」


 燃える倉庫の前で、彼が言った言葉。


 カイルは少し黙った。


「覚えていたのか」


「記録係ですから」


 私が答えると、彼は困ったように息を吐いた。


「なら、それも記録しておけ。お前も人に含まれる」


「はい」


 今度は、素直に頷いた。


     ◇


 ユリウスは生きたまま拘束された。


 護送員八人のうち、六人が証言に応じた。


 彼が正規の街道を外れたこと。


 私に署名を強要したこと。


 自ら命令書を書き、残翼の鷹の印を押したこと。


 すべて、その場で二通ずつ記録された。


「私を捕らえても、何も変わりません」


 連行される前、ユリウスが言った。


「なぜです」


「私は命令を書き写しただけだ」


「種麦を盗む命令も、私を殺す命令も?」


「そうだ」


 彼は私を見た。


「あなたと同じ記録係ですよ」


「違います」


「何が違う」


「記録した者にも、責任があります」


 知らなかった。


 命令されただけだった。


 書き写しただけだった。


 その言葉で責任が消えないことを、私はレオンに伝えた。


 ユリウスにも、同じだった。


「誰の命令ですか」


「答えると思いますか」


「いいえ」


 私は彼の荷物へ目を向けた。


「ですから、記録を調べます」


 ユリウスの顔から、初めて余裕が消えた。


     ◇


 彼の鞄から、まだ使われていない命令書が見つかった。


 黒い封蝋。


 残翼の鷹。


 内容は、私の死亡が確認されたあとに実行される予定のものだった。


 新設された王国記録監査室を解散する。


 北部種麦事件、およびバルガス侯爵の備蓄小麦横領事件に関する記録を、すべて中央財務評議会へ移管する。


 命令書の下には、ユリウスとは別の印が押されていた。


「これは……」


 ローディス監察官の表情が強張る。


「知っている印ですか」


「王国財務評議会議長のものです」


 名前は書かれていなかった。


 それでも、その職位だけで十分だった。


 王国の予算。


 地方への穀物配分。


 監察院の運営費。


 そのすべてに口を出せる場所。


 ユリウスは、命令を書いた者ではなかった。


 命令を運び、偽りを記録へ変えた者にすぎない。


 残翼の鷹の上には、まだ名前の書かれていない者がいる。


 そして、その者は王国の金と記録、その両方を動かせる場所にいた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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