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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人
記録の中で、私は死んだ

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まだ呼んでいない護送隊

 夜明け前、最後の一台が戻ってきた。


 車輪の音で目を覚まし、私は鉄格子の入った窓へ近づいた。


 薄暗い中、北部穀物管理所の門が開く。


 泥に汚れた荷車が一台。


 荷台には、黒い布をかけられた麦袋が積まれている。


 その横を、カイルが歩いていた。


 右腕に布を巻いている。


「カイル」


 声を出したが、窓は中庭から遠い。


 届かないと思った。


 けれど彼は足を止め、こちらを見上げた。


 私を見つけると、巻いた布のない左手を上げる。


 最後の種麦は、戻った。


     ◇


 荷車は、石橋から半日ほど離れた廃関税倉庫で発見されたという。


 グレンの部下たちは、袋を別の荷車へ積み替えようとしていた。


 カイルの傷は、そのとき刃物で切られたものだった。


「深くはない」


 彼は小部屋の扉の向こうで言った。


「その布に染みているのは、赤い水ですか」


「血だ」


「では、怪我です」


「見ればわかるだろう」


「だから言っています」


 扉には、小さな確認窓しかない。


 彼の顔と、包帯を巻いた腕の一部しか見えなかった。


「種は?」


「全部戻った」


「数は確認しましたか」


「村長たちとローディス監察官が数えている。受領簿も作った」


「証拠は?」


「持ってきた」


 カイルは一枚の紙を確認窓へ近づけた。


 私は拘束中のため、直接触れることができない。


 後ろにいたローディス監察官が受け取り、私に見える位置へ広げた。


 辺境商会の買い付け証だった。


 品名は、劣化した家畜飼料。


 袋数は、最後の種麦と一致している。


 買い取り価格は、通常の小麦の五分の一。


「種麦を、古い飼料として売るつもりだったのですね」


「問題は、そこではありません」


 ローディス監察官が、支払者の欄を指した。


 商会へ保証金を支払った部署が記載されている。


 王国監察院。


 地方調査備品費。


「監察院の経費が使われています」


「この支払いを承認できる者は?」


「備品管理官、会計官、それから監察院長です」


「三人だけ?」


「一定額以下なら、備品管理官単独でも承認できます」


 種麦の不正移送に、王国監察院の予算が使われていた。


 グレンとオスカーの証言だけではない。


 王都につながる物証が、ようやく一枚残った。


「これで、お前の疑いは晴れるか」


 カイルが尋ねた。


「まだです」


「なぜだ」


「監察院の経費が使われたことは証明できます。でも、私が共犯ではないことまでは証明できません」


 カイルの眉が動いた。


「自分を疑いすぎではないか」


「自分だけを例外にしないと、あなたに言われました」


「言ったが……」


「ですから、調べます」


 彼は何か言いかけて、やめた。


 確認窓越しに私を見る。


「迎えに来た」


「はい」


「それなのに、まだ出せないのか」


「今はまだ」


 少しの沈黙。


 カイルは扉へ左手を置いた。


 私も、反対側から同じ場所に手を添える。


 厚い木の扉が間にある。


 触れることはできない。


 それでも、彼の手がそこにあることはわかった。


「証拠を持って戻ると言った」


「戻ってきましたね」


「お前も一緒なら、なおいいと言った」


「覚えています」


「なら、次はお前を連れて帰る」


「その前に、傷を診てもらってください」


「今、その話をするのか」


「今だからです」


 扉の向こうから、小さなため息が聞こえた。


「わかった」


 その声に、私はようやく息をついた。


     ◇


 朝になると、ローディス監察官は王都へ送る文書を二通作成した。


 一通は、私に対する逮捕命令の再審査請求。


 もう一通は、正式な護送隊の派遣要請。


 どちらにも、北部で発見された証拠の一覧が添えられている。


「内容を確認してください」


 ローディス監察官は、拘束中の私にも読み上げた。


 私は日付と証拠番号を確認する。


「問題ありません」


「では、驛騎へ渡します」


 彼が文書を封じようとしたときだった。


 外から、何頭もの馬が近づく音が聞こえた。


 やがて中庭で止まる。


「王国監察院からの護送隊です!」


 扉の外で、守衛が叫んだ。


 ローディス監察官の手が止まった。


 机の上には、まだ封をしていない護送隊派遣要請書がある。


「私はまだ、護送隊を要請していない」


     ◇


 到着したのは、八人の護送隊だった。


 全員が王国監察院の徽章をつけている。


 馬具にも、正式な管理番号が刻まれていた。


 先頭に立つ男は、四十歳ほど。


 整えられた黒髪。


 細い顔。


 灰色の外套。


 私は、その男を知っていた。


「ユリウス・ノルド備品管理官」


「お久しぶりです、ヴァルト記録官」


 王国監察院で、公文用紙や封蝋、印刷原版を管理する人物だった。


 直接話したことは、数えるほどしかない。


 記録監査室へ公文用紙を受け取りに行ったとき、何度か顔を合わせた。


「なぜ、備品管理官が護送隊を率いているのです」


「今回は公文書偽造事件です。用紙と印章の管理責任者として、私も確認する必要があります」


 ユリウスはローディス監察官へ補充命令書を差し出した。


「エリナ・ヴァルトを直ちに王都へ護送します」


 書式は正しい。


 監察院の印も本物。


 護送人員の名簿と、馬の管理番号まで揃っている。


「この命令は、いつ発行されたものですか」


 ローディス監察官が尋ねた。


「三日前です」


「逮捕状が発行された翌日?」


「はい」


「その時点で、私は護送隊を申請していません」


「重大事件に備え、監察院が先に準備したのでしょう」


「誰の判断です」


「監察院長です」


 ユリウスは迷わず答えた。


「疑うのであれば、王都で確認してください」


 すべてが早すぎる。


 逮捕状も。


 護送隊も。


 私が何を見つけ、いつ拘束されるかを知っていなければ、用意できない速さだった。


「引き渡すことはできません」


 ローディス監察官が言った。


「逮捕命令そのものに重大な矛盾が見つかっています。再審査を要請します」


「それは、あなたの権限ではありません」


 ユリウスの声から笑みが消えた。


「被疑者を引き渡してください」


「命令の正当性が確認されるまで――」


「行きます」


 私が言うと、二人が同時にこちらを見た。


「エリナ」


 カイルの声が中庭に響く。


「何を考えている」


「この護送隊は、私が拘束される前から用意されていました」


「だから危険だと言っている」


「はい。私を王都へ届けるために来たとは思えません」


「なら、なおさら乗るな」


「彼らが戻れば、王都の内通者も隠れます」


 護送隊が予定どおり私を引き取れなければ、計画が失敗したことはすぐに伝わる。


 公文用紙の原版。


 経費の記録。


 残翼の鷹の封印。


 すべて処分されるだろう。


「私を消しに来た者だけが、王都の内通者へつながっています」


「自分を餌にするつもりか」


「正確には、証拠を餌にします」


 私はローディス監察官を見た。


「準備をさせてください」


     ◇


 種麦事件の正式な証拠は、すでに三か所へ分けられている。


 王国監察院の管理下にある証拠箱。


 北部穀物管理所。


 七村の代表者。


 護送車へ積む木箱には、写しだけを入れた。


 さらに、事件の概要を記した三種類の確認用覚書を作成した。


 正式な証拠ではない。


 情報の流れを調べるための、検証用文書だ。


 一通目には、回収した種麦を三台分と記した。


 二通目には、四台分と記した。


 三通目だけは、正しい五台分とした。


「これをどうするのです」


 ローディス監察官が尋ねた。


「一通目は、護送車の証拠箱へ入れてください」


「二通目は?」


「王都へ送る再審査請求に添えます」


「三通目は、北部管理所に?」


「はい」


 今後、王都からどの数字を使った命令が届くか。


 あるいは、どの数字をもとに証拠が作られるか。


 それを見れば、どこから情報が漏れたのかわかる。


「正式記録には正しい数字だけを残します」


 私は念を押した。


「三種類の覚書は、検証用であることを別紙に記録してください」


「そこまでして、護送車へ乗るのですか」


「そこまでしなければ、乗りません」


 ローディス監察官は、しばらく私を見ていた。


 やがて三通の覚書へ、それぞれ自分の署名を入れた。


「私も途中まで同行します」


「いいえ。表向きは北部に残ってください」


「一人で行かせるつもりはありません」


「一人ではない」


 カイルが言った。


 彼の腕には、まだ新しい包帯が巻かれている。


「俺が別の道から追う」


「怪我をしているでしょう」


「見ればわかる」


「だから――」


「その話は終わったはずだ」


 彼の表情は、もう変わらなかった。


 止めても来る。


 それなら、最初から計画に入れたほうがいい。


「近づきすぎないでください」


「ああ」


「私が連れていかれる道を確認してから追ってください」


「わかっている」


「無理に助けようとしないでください」


「それは約束できない」


 私はため息をついた。


「では、少なくとも合図を待ってください」


「それなら約束する」


 ローディス監察官は、表向き管理所に残る。


 ただし、私たちより先に別の門から出て、次の宿駅で待つ。


 護送隊が正式な王都街道を進めば、そこで合流する。


 進まなければ、その時点で護送命令違反の証拠になる。


     ◇


 出発前、ユリウスは護送引き渡し記録へ署名した。


 私は鉄格子のついた護送車の中から、その手元を見ていた。


 彼は左手で筆を持った。


 右手には、黒い革手袋。


 暑さの残る季節なのに、手首まで隠している。


「右手を怪我されたのですか」


 私が尋ねると、ユリウスの筆が一瞬止まった。


「古い火傷です」


「そうでしたか」


「何か問題でも?」


「いいえ。確認しただけです」


 左手で字を書く男。


 季節を問わず、右手に黒い手袋。


 オスカーとグレンの証言に一致する。


 けれど、それだけでは証拠にならない。


 左利きの者は、彼だけではない。


 手袋をつける理由も、本人が言うように火傷かもしれない。


 護送車の扉が閉められる。


 証拠の写しを入れた木箱は、私の向かいに置かれた。


 ユリウスは外から箱を確認し、封蝋を取り出した。


 監察院の正式な赤い封蝋ではない。


 黒い蝋。


 彼は周囲へ背を向けるようにして、封印を押した。


 腕の隙間から、模様が見えた。


 翼を広げた鷹。


 右の翼だけが欠けている。


「どうしました、ヴァルト記録官」


 ユリウスが顔を上げた。


 私の視線に気づいている。


「封印を確認していました」


「拘束されても、記録官なのですね」


「証拠箱ですから」


 ユリウスは袖口を下ろし、封印を隠した。


「記録官というのは、何でも見てしまう」


 笑っていた。


 だが、その目に笑みはなかった。


「見なくてもよいものまで」


 護送車の扉が閉じられた。


 外から鍵がかかる。


 車輪が動き始めた。


     ◇


 最初の半刻は、南へ向かっていた。


 王都へ続く正規の街道だ。


 だが、日が高くなる前に、護送車は西へ曲がった。


 石の多い道へ入る。


 車体が大きく揺れ、窓の外から見える木々が少なくなっていく。


 この先に宿駅はない。


 あるのは、十年前に閉鎖された鉱山だけだ。


 私は御者台へ続く小窓を叩いた。


「道が違います」


 返事はない。


「王都は南です」


 しばらくして、馬が止まった。


 護送車の周囲を歩く足音。


 鍵が回り、扉が開いた。


 外に立っていたのは、ユリウスだった。


「王都は南です」


 私はもう一度言った。


「ええ。知っています」


「では、なぜ西へ?」


 ユリウスは黒い手袋をした右手で、護送車の扉を押さえた。


 左手には、短い剣がある。


「あなたが王都へ戻れば、困る者がいるからです」


「あなたですか」


「私だけではありません」


 彼の後ろでは、護送隊の者たちが道を塞いでいた。


 遠くに、廃鉱山の黒い入口が見える。


「降りてください、ヴァルト記録官」


「拒んだら?」


「護送中に逃亡し、崖から転落したことになります」


 記録まで、すでに用意されている。


 左手で命令書を書き、右手を黒い手袋で隠す男。


 その腰には、残翼の鷹が刻まれた封印。


 王国監察院の内通者は、私を迎えに来た護送隊の中にいた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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