6話「いい趣味を、お持ちですこと」
――その日、俺は取り返しの付かない過去のツケを払うべく、前へ前へと進んでいた。
人間誰しもが過ちを犯すもので、重要なのは、失敗を恐れ行動を起こさないのではなく、何が間違っていたかを自覚し、繰り返さないよう努力することである。
ドンマイ。そう、ドンマイなのだ。切り替えていこう。後悔先に立たず、悔やんでばかりいても何も始まらない。過ぎ去った思い出に浸るのではなくこれからを直視するのだ。
ネバーギブアップ。前を向いて歩こう。
そういうわけで、俺は盗んだパンティをどうするかについて、深くは考えないことにした。
やっぱり今を見つめることは大事だ。無心で、前へ前へと進むのだ!
「うーむ……ふーむ、むーふ……むふ♡」
……さて、どうしたもんか。
「困ったなぁ……困った困った、ひとまず俺が預かっておくしかないのかぁ?」
万事休す。俺には……目を逸らし立ち尽くすしかないのか――――
「兄貴ー。お母さんが回覧板回してこいって」
「ノックくらいしろや!」
無神経な妹の声に慌ててパンティをポケットに突っ込み、回覧板がてら散歩に出る。
途方に暮れる俺は、太陽に照られ暑くなり、行きつけだった喫茶店に足を運ぶ。
ソファに座り込み一息吐いてアイスコーヒーを頼む。汗が止まらん。冷房の効きもイマイチで、ハンカチも持ってなし。しばらくは垂れ流しだ。
そんな穏やかな昼前、ジャズの流れる店内にバーン! と勢いよく扉を開ける音が響く。
「こらぁ泪ちゃん、ドアは静かに開けてくれよ」
「おじさん、柊吾のバカ見なかった?」
マスターは奥のソファでゆったりしていた俺を指す。泪はドカドカ踏み寄って来る。俺はなんだか怖かったので奥側の席に退避する。も、当然逃げ切ることは叶わない。
鎖骨まで汗びっしょりだ、頬に黒髪が張り付いている。よっぽど急ぎの用らしい。
「よお、会えて最高の気分だよ」
「スマホ持ってないの? 何回も掛けたんだけど」
「とりあえず座れよ。汗すごいぞ」
「あんたにだけは言われたくないわ」
泪は対面の席に座り、汗を拭おうとハンカチを取り出そうとする。
だが忘れたことに気付いたのか、あーと低い嘆き声をあげる。濁点付きだ。
そして俺に運ばれてきたアイスコーヒーを奪い取り一気に飲み、一息吐く。
「ぷはぁ。苦い! 砂糖とミルク入れてないの? わたしブラック苦手なんだけど」
このアイスコーヒーはお前のために頼んだわけじゃないんだよ。
「……で、用は?」
俺が要件を尋ねると、泪は忙しそうに表情をクルクル回し端と告げる。
「千秋がいなくなっちゃったの」
「今泉が? なんで」
ふらっといなくなるような奴ではあるが、泪の様子を見るに事態は尋常ではない。
泪は机の上で指を組み、神妙なような、残念なような口ぶりで語る。
「……失恋」
………………あほくさ。
「……放っとけばそのうち帰るだろ。失恋くらい誰だってする」
女子高生の失恋失踪に何をそんな慌てふためいてるんだ、この女は。
しかし次に出た彼女の言葉は、そんなことよりもっとアホくさかった。
「千秋が異世界転生しちゃうかもしれないの。止めなきゃ」
……きっと、混乱しているんだろう。泪の口から、異世界転生だ?
あるとは聞いた。俺だって知ってる。行こうともしてる。
だが、それに真剣になって汗をかく価値があるかと問われば、おそらく、ない。
なぜなら、異世界転生などとは、限りなくフィクションに近い妄言である。信仰のみによって成立する教義体系が絶賛盛り込まれている。神と美少女の概念は近似値で著せる。
不在証明を信じるでもないが、彼女を宥めるべく、冷静に言葉をかけてやる。
「落ち着けよ。異世界転生なんてのは今泉の考えた出来の悪い噂話で、現実には決して存在」
「あるの! 千秋の彼氏が異世界行っちゃったの。みんな知ってる!」
間髪入れずに割り込んで、泪は再び俺のアイスコーヒーに手をかけ飲み干す。
……一口も飲んでねぇぞ、アイスコーヒー。
そして異世界は、あるらしい。
俺以外の人間が信じてるわけじゃなく、それがあることを知っているらしい。
その俺以外には、みんなには、もちろん、夏目泪も含まれている。
「……一から説明してくれるか?」
――――事件は三日前に起こったという。
きっかけは些細な事で、今泉と彼氏は普段通り喧嘩をしてしまった。勢いに乗って別れるだのという話にまで発展し、二人は売り言葉に買い言葉で見事破局を迎えた。
しかし、肝心の今泉は家に帰って落ち着くと、それが本心ではなく、自分に構って欲しかっただけの喧嘩で、やはり今度会ったら謝ってよりを戻そうと考えた。
というより、彼氏の方も自分と同じく、発作的に別れを持ち出したに違いなく、彼女の中では元鞘に収まるというか、そもそも別れてなどおらず、ちょっとした夫婦喧嘩気分だった。
ところが、その彼氏は異世界転生をして失踪。
仲直りも出来ず、本当に振られてしまったのかと自暴自棄になった彼女は、結論として自分から異世界へと会いに行くことにした――――
…………意味が分からない。
「異世界転生って、ダメ人間が行くんだろ。彼氏の方も相当だったの?」
「うん、相当」
泪は即座に断言する。
「元々不良気味の男でね、バンドで一山当てようって上京したはいいもの鳴かず飛ばず。全然才能なくてこっちに逃げ帰ってからも、仕事もしないでぶらぶらアーティストの真似事してるようなダメ人間。千秋、男運も見る目もないから。ダメな男にばっかり捕まるの」
首根っこ掴んでも引き剥がせばよかったと呟く彼女を傍目に、俺は最近どこか似たような話を聞いたような記憶に思い当たる。
ダメ人間――彼女と別れた――バンドで一山――上京――Uターン……
「名前は?」
「三浦比呂」
さてはて、どうしたもんか。
「とにかく! あの子恋に恋して燃え上がるから心配なの」
「なんでそこで俺なんだよ」
「だって暇でしょ。根本くんも藤原さんもみんな仕事で忙しいの。千秋を知ってるわたしの友達で、あんたしか無職はいないの。でなきゃダメ人間志望者になんて頼まないわよ」
カチンときた。この女、俺が未だに無職だと思ってやがる。
「もし見つけても千秋とは話さないで。わたしに連絡するだけでいいから。これ以上ダメな見本を見せたくないの」
「結構な言い分だな。俺はとっくに将来を見据えてるぜ」
俺の言葉に、彼女はピクリと顔を上げて眉を揺らす。
「つまりだ。俺は来週には小学生の水泳コーチをすることになってる。準備やらでみんなと同じく忙しい。困ってるみたいだし探しはするが、勘違いしてもらっちゃ俺も困る。俺は……もう真っ当に生きている」
彼女は何か言いかけて、微妙に驚いたような曖昧な表情で、そっかと口をつく。
……やれやれ。話も山を超え一段落し、ホッと一息吐く。
アイスコーヒーも飲めなかったから結局暑くて冷汗もかいたままだ。
仕方なくポケットから布を取り出して汗を拭く。なんだかほんのりいい香りがした。
…………いい香り?
「…………あれぇ?」
ぱんちぃじゃんこれ。
「…………いい趣味を、お持ちですこと」
「待て、誤解だ! これは別に未亡人のベランダに忍び込んで盗んだわけじゃなくて、たまたま道端にパンティが落ちていて、それをたまたま気の落ち込みから拾ってしまい、またまた、たまたま今日持ち合わせてるだけなんだ!」
「そんなに玉を出されちゃ店が潰れちまいますよ、お客さん」
わぁ、素敵でお洒落な返しですこと……
テーブル越しにグィっと一掴み。今月二度目の胸ぐら掴みである。
5センチ、真っ赤の顔。怒りからかプルプル震えている。
俺も恐怖でブルブル震えてる。吊り橋効果は嘘らしい。だって怖いもん。
「誓えるものはある?」
意にそぐわぬ回答をした瞬間、首を飛ばせるよう拳を固く握りしめてらっしゃる。
「えーっと……」
「誓え。本当に、盗んだわけでなく、変なことにも使ってない?」
「はい! 天地神妙、森羅万象締切厳守、海誓山盟に誓って。なにも!」
「よし!」
そのまま一発パカンと殴られた。よし、じゃねえのかよ。
泪はレースのパンティを当然の権利として奪い取り、自分のバッグにしまう。
「……誰にも言ってないでしょうね」
「言うわけねえだろ!」
「…………よし」
泪はすっかり耳まで赤くして話を戻そうとする。
「ごほん。と・に・か・く! あんたは千秋を探し出して。それと見つけても絶対に近付かないこと。ダメで馬鹿な上に変態と話したら、千秋まで病気になっちゃう」
不服な物言いだが、とりあえずのアテはある。のんびり探していこう。
「じゃあ、わたしはもう行くから」
「ちょっと待てよ泪」
席を立ち店を出ようとする彼女を、俺は落ち着き払って止める。
言わなくちゃいけないことがあるはずだ、彼女に。
「なに? あの……」
とても大切なこと。人として大事な、忘れちゃいけないことが。
「アイスコーヒー代、420円」




