2話「ギブアップ」
日が暮れるまで今泉と異世界について語り合い、魚の入ったバケツを片手に帰路に就く途中で、路傍の石ころに躓いて転んだ。
そしてなんだか、自分が猛烈な勢いで坂を転げ落ちていることに気付く。
異世界? 美少女? 秘めた才能? 馬鹿じゃないのか。
実際、俺は馬鹿なんだろう。こんな見え透いた作り話にほんの少しでも心を躍らされ、その気になって、足元の石ころに気付かず転んでいる。馬鹿丸出しだ。
そのくせ馬鹿にもなりきれない。妙に冷めて、達観している自分もいる。
「…………あぁ」
落とした魚はコンクリートの上でしばらく跳ねて、次第に動かなくなっていく。水の中でしか魚は息が出来ない。陸に上げられた途端、息が詰まって目を濁らせる。
転げ落ちた拍子に、何かを落っことした気がした。バケツよりは大事にしていたような。
思い出せないのはきっと、物覚えが悪いからだ。
でなきゃ、忘れるくらいの落とし物だ。魚の入ったバケツよりどうでもいいだろう。
濁った目をした魚のことなんて、明日には忘れられる。
「…………痛え」
術後、一ヶ月は安静と言われ今日で一月。転んだ拍子に打ったらしい。
日常的に感じていた慢性型の鈍い痛みとは違う、針でかき混ぜられたような鋭い激痛。
痛みで呼吸が出来ず、思わず仰向けになり空を眺めた。
茜と藍の中間の色の、滲んだ夕焼け空に白い線があった。飛行機雲だ、頭も痛い。目が回る。線も回転して、ぼやけた色と重なって、見覚えのある嫌な色の細長い螺旋に移り変わる。
「……またドシャ降りだ」
なぁ――――何かの間違いなんだろう? 俺は、何を間違えた?
『――こほん。色々と矛盾した噂が飛び交うけど、異世界転生する人間に共通した特徴があることだけは、誰もが認める共通事項なわけ』
さっき聞いた千秋の言葉が、俺の心中にこだまする。
『もったいぶらずに教えてくれよ。我慢できねぇんだ』
『……ダメな奴ってこと。引きこもりとかフリーターとか、倒産して借金抱えた中小企業の社長とか。こっちの世界で栄光を掴めなかった、本当にダメな人間。誰からも認められる負け犬だけが、向こうの世界で、真の成功を成し遂げるの』
……信じる気にはなれない。信憑性は皆無どころかマイナスの作り話だ。
現実はこんな痛みだけだ。夢見て上見て踏み外して、もう戻れない。
前に何があるかを確認する。うら寂れたシャッター街、人気のない大通り、汚れた野良犬。
一枚、道路脇に風に飛んだのか、黒のレースのパンティが落ちていた。
女物の、ちょっぴりセクシーな、つい拾いたくなるような落とし物が。
……分かれ道に差し掛かったら、一つの道を選ぶ。
諦観は祈りだ。俺は祈る。選ばなかった分岐路で、もしもの自分にさよならを告げる。
どっちの道が正しいかなんて分からないから。
けれども。
この薄らくだらない風景が。正しさに照らし出された、後悔すら許されない一本道が。
人っ子一人いやしない、誰からも忘れられていく、静かすぎる無関心が。
これから俺が進まなくちゃならない下り坂だった。
これが、これから――――――?
――――馬鹿にならなきゃ進めない。ずっとこんなところにいられない。
信じちゃいない。俺はただ、知ってるだけだ。それがあるって。聞いたんだ。
ダメ人間になればいいんだろう? ならなれる。俺ならなれる。
「下着泥棒……パンティ……ダメ人間」
薄汚れた子犬は打ち捨てられた魚に駆け寄り、もそもそと食べ始める。また一つシャッターが閉まり、太陽の眩しさは藍色雲に押されて沈んでいく。パンティはまだそこにあった。
「ダメだ……ダメダメだ」
異世界? フィクションだ。パンツ? 盗めば犯罪だ。
俺の心が大きな声で、俺だけに聞こえるよう絶叫する。
もしもの世界なんてない。選択肢なんて、与えられてやしないんだと。
「本当に……」
もう一人の俺が囁く。
小さく、俺にも、誰にだって聞こえないほどか細い声で。
「……ギブアップ」
自分に言い聞かせるよう呟いて、俺は黒のレースを拾い上げる。
そっと、なるべく惨めな負け犬に映るよう、パンティをポケットに忍ばせた。
ブスでいいぞ。五十超えたおばさんのでも歓迎だ。やっぱり美少女のがいい気もする。
ともあれ俺は選んだ。自分だけの神様に祈りを捧げて、そうやって自分を落っことして。
その方がきっと、俺にはいい。




