0話「どんまい」
昔々、本を読んだことがある。今はほとんど読まない。馬鹿だったんだ。今は違う。
なぜって、こんなことを述べていた。むかしむかしの大昔、本当に神様はいたらしい。右脳と左脳の神経系の作用だとか古代の社会構造が意思決定に権威ある声を要請しただとか――そんなこと。随分なトンデモ話だ。三千年前の人類は根拠のない別れ道にぶち当たっても、葛藤も悩みもなく、ただ聴こえてくる声に従っているだけでよかったんだと。今は違う。
えぇと、それが言いたいことなんだ。昔はよかったってボケた爺さんみたいに懐かしがるのとは違う。今は昔とは全然違っていて、その頃の俺はボケてて、今は悩んでる。
ちょうど別れ道にいる。誰の声も聴こえない静寂の真っ只中に立たされて、無関心な沈黙に進むべき方角を決められずに呆然としてる。石ころがどっちに転がればいいのかって。
……抽象的な話は苦手だ。自己本位で他人に伝わらない会話ほど退屈なことはない。
でも、俺はそういうことを考えていたんだ。目が回ってた。ついでに体中もトリプルアクセルに取り組んでいたし、地球には物理法則に従った重力があるにも関わらず、デコボコで黒褪せたコンクリ地面からは1メートルと30センチ浮いていた。
大体ダンプのせいだ。事故った。走馬灯の瞬間にそんなくだらないことを思った。
「えぇ、失礼ですが、再起不能という言葉はご存知ですか?」
「馬鹿にしないでくださいよ。つまり、二度と元の状態に立ち直れないって意味ですね」
「ならよかった。いい報せと悪い報せがあります」
「……二度と泳げない?」
「腰と一緒に頭も強く打ったので記憶障害の恐れもありましたが、いい傾向です」
そんな最高に面白いジョークを告げた医者は、ピクリとも笑わなかった。笑えない。
物事、順番があるもんだ。栄光と没落は表裏一体――死ぬほどいい目は見ちゃいない。
つまり今はちょうどターンの時期だった。大学に競泳のスポーツ推薦で入った俺は、スタートで大ゴケし休学。逃げ帰るように実家へUターン。ようにじゃないな、逃げ帰る。
「こんにちは新入りさん。調子はいかが?」
「悪くないよ。ただね」
「よくもない?」
「いや。ただ、評判のいい新興宗教を調べてるんだけど、一つもなくって」
俺の尊敬する人物はこう言っていた。順番をつけると、誰かが必ずビリになると。
レースには順番があって、勝敗がある。勝者は栄光のトロフィーを掲げ、天秤の傾きは敗者がお手上げだ。どれだけ腕が疲れていても、天秤の重さに拘ることに意味がなくても、勝者の腕は上がる。天秤は下がる。
そしてどうも、俺の天秤は上がったらしい。
極度のストレスに晒されると、人はどうも精神に異常をきたすことがあるそうだ。二千五百年前の人類はヤモリの燻製と大麻を摂取することで自発的に統合失調症を目指したらしい。そうでもしないと人はおかしくなれない。人生に対して責任を放棄できない。少なくとも俺の場合、気休めの鎮静剤と崩れ落ちた将来を考えるだけじゃ足りなかった。
俺は俺の人生を俺自身で決めて生き抜かなくちゃならない――昔はそう思ってた。
今は違う。世界は思っていたよりずっと俺に関心がなかったし、俺は俺自身のことさえ理解できていなかった。他人への興味がなく自分が好きで、なのに自分の人生はどこか投げやりで、けれど他人の将来には首を突っ込みたがって――そのせいなんだ。
「――お兄ちゃん、こないだは助けてくれて、ありがとう!」
同じことが目の前で起きても、きっとしない。自分のことが嫌いになるんだ。感謝されるたびに思う、自分より信用できない人間がいるのかって。いるわけない。
真っ白な病室から緑豊かな田舎への帰り道、五月晴れに誘われた風に溶け込むよう、一度だけ声が聴こえた気がした。極度のストレスからくる幻聴、ありがたい神様は言っていた。
「どんまい」
俺の経験則上、神様は間違える。そして死んでいる。
試しに、道端に咲いていた花を千切り占ってみた。意識が芽生え神様の声が聴こえなくなった人類は、代わりに石の転がる方角で戦争する相手を決めていた。なんて頭がいい。
「天国地獄、大地獄。天国地獄大地獄……天国」
――――もし。もしも。
だから俺は現状に満足する。あり得た選択と比較して絶望するなんて馬鹿げている。
ほんの、ほんの僅かな悲観なんだ。
どうしようもなく負けた俺が、これからのレースに何を頼ればいいのかを。
「もう一回! 休んでないで。ほら、泳ぐの!」
――折り返しは六位、柄にもなく見事なターンをかました俺は、手を挙げて叫ぶ必要があるんだろう。溺れて恥を晒すより先に、手遅れになる前に降りるべきなのだ。
誰が聞くでなくとも、せめて自分自身に言い聞かせてやるべきなのだろう。
「ギブアップ!」と。