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前書き

 ただの音だ。響かない。


 淡と打ち鳴らされ、張り詰めた沈黙を弾くピストルは、波紋を揺らしたように見えた。


「さぁレースが始まりました。全国中学校水泳競技大会、その決勝戦! スタートしました」


 コンマ二秒出遅れた予選一位通過に掛けられる言葉はなかった。いつも。いつだって。

 水の隙間を縫い潜り、躍り出る。並走。勝てば全て赦される。負ければ――――


「やはり飛び出した城戸劉生! 僅かに続いて深見、大沢。序盤は接戦、温存しています」


 やけに水が重たかった。空気より重い。肌に粘ついて纏わりつく。息の仕方が思い出せない。考えるな。ベタベタして足が縺れる。考えるな。泥沼を匍匐前進してるみたいな。

 考えるな。泳げ。腕を振り抜く。取り戻せ。追え。置いて行かれるな。


「――中盤に差し掛かります! トップ集団は並んでいます。折り返しで差が出るか」


 差は出た。ターン、距離を測るのが苦手だった。身を小さく屈め、素早く半回転し、爪先で壁を叩くルーチン。遠すぎた。足りない推進力に、確かに置いて行かれた。目が回る。


「トップは依然、城戸! 深見は失速し順位を……おぉっと! 猛烈な追い上げです!」


 ……勝利には一つしかない。永遠に続く勝利だけ。それだけが俺の求める栄光だった。


 前に泳ぐ。佐藤を抜く。泥を掻く。中居を抜く。思考を止める。大沢に並び。抜く。


 けれど城戸に並べない。背中を追う。距離は縮まれどなくならない。重い、重い、重い。


「残り十五メートルを切った! 双方ラストスパート! 栄光はどちらの手に――――」


 順番があるもんだ。栄光と没落は表裏一体――死ぬほどいい目は見ちゃいない。

 レースには順番があって、勝敗がある。勝者は栄光のトロフィーを掲げ、天秤の傾きに、軽々しい敗者はお手上げる。どれだけ腕が疲れていても、天秤の重さに拘ることに意味がなくても。勝者の腕は上がる。天秤は下がる。


「――――ゴォール!! 今! 城戸劉生が力強く! 壁を叩きました!」


 そしてどうも、俺の天秤は上がったらしかった。


「……スタートに、ターン。それにラストも。なに、あの失速」


 ぷかぷか浮かんでいつまでも水から上がらない俺に、彼女はそんな声を掛けた。


「ちょっぴり調子、悪かったんじゃなくて?」

「……知ってますか泪さん、二位でっせ。お褒めか慰めのキスでも欲しい順位だ」

「腰は?」

「痛むのは耳だっての。東京まで勢揃いしやがって。声援が重いんだよ」

「人のせいにしないの。ほら、上がって」


 彼女はそう言って、そっと俺に手を差し伸べた。憶えている。俺もそうだったから。


 彼女は泣いていた。俺が泣いているとき、彼女は寄り添って泣いてくれたから。


「…………ふん」


 広げられた手を無視して、一人飛び込み台からプールを出る。壁を掴んでよじ登り。


 滑った水にズルっと転けて、慌てて後ろに放り込まれるように飛び、ほんの僅か宙を舞う。


 仰ぎ見た天井は遠く高く、クルクルと回転していた。窓から射し込む太陽の眩しさに目が回って、吹き抜ける風に春の終わりと梅雨の訪れを思う。舞い上がった水飛沫が緩やかに落ち込み始める。粘つき黒っぽい泥水が一面に散らばって、雲が眩みを覆い隠す。ボロボロと涙を零す彼女の姿はいつの間にか消えていて、気付けば土砂降りの雨が俺を打つ。1メートルと30センチ浮いていた。目が、回っていた。


 背後に広がっていたのは、柔らかく包み込んでくれる水じゃなく、デコボコで黒ずんだ硬いコンクリート。つい飛び込んだんだ。足を滑らせて、痛むだろうとも思わずに。


 つまり、俺は宙を舞っていた。物覚えが悪い。思い出すのはいつも、嫌な思い出ばかり。


 だからなんだ。腑抜けた走馬灯の瞬間に、五年も昔の、泣いた彼女を想うのは。


 響きはしない。ただの思い出だ。胸の奥底に沈んでいく感情は、ただ重たい痛みだけ。



 ――――二十歳の五月、ダンプに轢かれた。ブレーキのスリップ音がやけに響いていた。

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