第10話 ある種のノイズ
ミンミン蝉の鳴き声が終日聞こえる環境にいるせいで、耳にその虫の音が残っているらしい。
先日シャワーを浴びていたら、早朝だというのにいやにやかましくミンミンミンと聞こえてきて、珍しいこともあるものだと思いながら髪を洗い、シャワーを止めると戸外から聞こえていたはずの蝉時雨がぴたりと静まった。
考えてみればいくら夏の盛りの時期とはいえ、直接浴びているシャワーの水音より大きな蝉の声などあるわけがない。耳というか脳裏というか、自分の意識の中に残っている蝉の鳴き声が、シャワーの雑音に紛れて再生されただけだったようだ。面白く思いまた蛇口をひねってみると、やっぱり蝉の声に聞こえる。何度か繰り返したが、瞬間的な錯覚というものとは違うようである。
換気扇や掃除機、暖房設備などの単調なノイズが、なにか他の音声や音楽に聴こえることは、比較的よくある。幻聴の類いと一括りにしてしまえばそれまでだが、川のせせらぎを歌に例える気分は古くからのものだし、ノイズの中に誰かの声を聞くというのは創作の表現としても珍しいものではない。
個人的に身近なところでは、傘に当たる雨粒の音が、街によっては人々の声に聞こえて困ると辟易していた女の子や、幼少時にテレビのいわゆる砂嵐を眺めて可笑しそうに笑っていたという男児の話を聞いたことがある。
仮にノイズというものが我々の精神に一種の覚醒作用をもたらしたり、或いは未だ人類の英知の及ばない世界の機能として、空間的時間的制約を超えて情報を伝えたりさえするのだとすれば、耳を壟する八月の蝉にも、新たな意義が見出だされそうだ。
かつて、人が備える五感の内で、視覚だけが唯一精神の高みに直結していると評価した思想家がいた。
電話も映画もなかった頃に、遥か遠くの稜線や星を視界に収める眼の働きが自然の神秘と思われたのも頷ける。
テレビやスマホの画面を通して、作られた事実を目にする機会の増えすぎた時代、そのさざめきが伝えるものは、鼓膜を介して人を揺さぶる。