9話 お酒と鳩と、夜の影
夏の暑さが和らぎ始めた頃、大学の後期が始まった。
「うわぁ、可愛い! 素敵な雰囲気のお店ですね!」
「それはよかった。趣味でやってるようなものだから、気楽に過ごしてね」
慌ただしい一週間を終え、迎えた土曜日。
巴は大学から少し離れた町の一角にいた。
古民家カフェや私設図書館などが並ぶ美しい街並み。そこに、例の雑貨屋がある。
隠れ家風の二階建てで、漆喰の淡い黒壁がとても風流だ。
——あの日旅館の前で突然申し出た巴だが、琵和たちはすぐに快諾してくれた。
ちょうど一人が腰を痛めて休むところだというので、さっそく今日からここで働くことになったのだ。
「女性が央、男性が朗。巴ちゃんが来る日には基本的にこの二人のどちらかがいると思う」
「はっ、はい! 頑張りますのでなにとぞよろしくお願いいたします!」
目礼してくるのは、なんと大学でよく見掛ける取り巻きのうちの二人。
お辞儀をし合うと、名前を知ったこともあって親近感が増す。
「分からないことがあれば気軽に彼らに聞いてね。とりあえず初日だし、お店を見学して終わろうか」
琵和は店員ではないが、初日だからということで案内してくれるらしい。
説明を聞きながら店内を歩いていると、デートをしに来た気分になってしまう。
並ぶ和雑貨を眺め、琵和を見上げ、琵和を見つめ——
(あっ、浮かれすぎちゃだめだった! 琵和先輩はそんなことしないけど、それでもわたしは初日に解雇された身……!)
ひと月ほど前の記憶が蘇り、巴は慌てて前を向く。
視線の先には、透明なガラスケースに飾られた簪があった。
温かな照明の下で光を弾く、金蒔絵の簪。
深い黒漆地に古風な流水の文様と蛇が描かれている。その珍しく美しい意匠が、巴の目を奪った。
「巴ちゃんはその簪が気に入ったの?」
「はい! どれも素敵なんですが、これはなんだか特にいいなあと……っ」
手に取って値札を見ると想定より桁が一つ多い。
一瞬固まってから、そっと下ろした。
さっと琵和に向き直り、にっこり笑って話題を変える。
「そういえば今日はなんと贅沢な日なんでしょう! アルバイト初日に琵和先輩が直々にご案内くださって心強いうえに、この後は——」
そんなことを話しながら一階へ降りると、見知った人影が巴たちに手を振った。琵里亜だ。
「巴チャン、お疲れさま! 制服似合ってるわよ」
「お姉さまっ! ありがとうございます!」
「初日はこれでおしまいにするから、もう向かおうか」
この後は、琵和たち姉弟との初めての宅飲み。
人間として二十歳を迎えたばかりの巴は、この日を楽しみにしていた。
* * * * *
というわけで、琵和宅にあった甘めのリキュールをたっぷりのミルクで割ってみたのだが。
「巴ちゃん、飲むのやめておこうか」
一口飲んだところで、琵和から止めの声が入った。
「確かに顔がちょっと赤いわね。……これを一口飲んだだけで酔えるものなの? アルコールきかせたケーキなんかの方がよほど度数高いのに」
「そんなに? ……あはは、かなり甘いね。酔い覚ましには水をたくさん飲むといいんだっけ——」
「間接キッ!」
「——巴ちゃん?」
かなり浮かれている自覚はあるが、さすがにまだ酔っていないはず。
——いや、もしかすると酔っているのかもしれない。
脳内で叫んだはずの言葉のほとんどが口から出てしまっていたから。
(だって今わたしのグラスを琵和先輩が……! あ、先にお姉さまが飲んだか……)
回し飲みなどをして、自分が口をつけたところに相手の唇が触れることを間接キスというらしい。
琵和と巴も、と思って叫んでしまったが、そういえば間に琵里亜を挟んでいた。
そうだったと気を落ち着かせている巴へ、琵里亜の方から楽しげな視線が飛んできた。
(うっ、お姉さまにはバレてる……!)
「巴チャン、そんなのでよかったらいくらでも協力するわよ?」
「ひえ、だ、大丈夫です! いつか自分で直接……はっ!」
もしかしなくても、酔っているようだ。
口から本能のままな発言が飛び出し、自滅している。
顔どころか、全身がほかほかと熱くなってきた。
「だっ、だから、そのですね……。うぅ……」
「あっははは、やっぱり巴チャンっておもしろーい!」
「……? 琵里亜、巴ちゃんで遊ぶのはやめな」
面白がる琵里亜と、一応当事者なのにまるで分かっていない琵和。
そんな彼らから逃れるように、巴は近くにあった薄いひざ掛けを頭から被った。
「……、…………」
小さく囁くような話し声で、巴の意識は浮上した。
(……ん、あれ。今って……、午前二時!)
巴はあのまま眠りこけていたようだ。
カーペットの上に座っていたはずなのに、居間のソファーに寝かされている。
ぼやける視界には、いくつもの空瓶が並んでいるのが映った。
そばに二つの人影があって、お互いの酒杯に酒を注ぎ合っている。
(すごぉい、お二人ともお酒に強いんだから……)
巴に配慮してか、灯りはとても暗い。
静かな話し声は空調音よりも小さいほどで、内容は聞き取れない。
薄明かりに照らされる影をぼうっと眺めていると、ふと、目の前が揺らぐ。
その影は人の形をしていなかった。
天井に届きそうなほど大きく長く、この広い居間さえも埋め尽くすような——
「……っ!」
背中に電流が走ったように、びくりと身体が跳ねる。
全身の肌を粟立たせながら、巴は思わず身を起こした。
知らぬ間に、息が浅くなっている。
「び、琵和、先輩……?」
影は巴の声に反応したかのように、ゆっくりと動き出す。
そして、一つ瞬きをする間に、二つの人影になった。
「巴チャン、起きたのぉ?」
「ごめんね、すぐ起きるかと思ってソファーに寝かしちゃった」
当然、そこにいたのは琵里亜と琵和だ。
それ以外いるはずもない。
「あら、どうしたの?」
「あ、ええっと……」
身体に掛かっていた薄手の毛布を握り締めながら、巴は少し口ごもる。
琵和が手元にある機械を操作し、照明を明るくした。
美しい姉弟の姿がはっきり見え、巴はほっと肩の力を抜く。
「えへへ、ちょっと寝ぼけていたみたいです!」
はにかんで頬をかくと、姉弟は静かに微笑んだ。




