第16話:夢魔の王(ナイトメアロード)襲来
ファルガス街の東に広がる平原は、異様な光景に包まれていた。
空を覆うほどの巨大な暗雲。そして、地平線を埋め尽くすほどの魔物の大軍勢。その先頭に立つのは、四頭の巨大なナイトメア(夢魔の馬)が引く漆黒の馬車に乗った、魔王軍幹部・ザンデだった。
「見よ、あの愚かな人間の街を。夜通し煌々と明かりをつけ、神聖なる夜の静寂を乱しておる」
ザンデは馬車の上から、分厚い城壁に囲まれたファルガスの街を冷酷な目で見下ろした。
「全軍、停止」
ザンデが片手を上げると、数万の魔物たちが一糸乱れぬ動きでピタリと止まる。
「城壁を壊すような野蛮な真似はせん。我ら夢魔の戦いは、常に美しく、そして静寂と共にあるべきだ。……行け。『永眠の霧』よ」
ザンデが両腕を広げると、彼の全身から濃厚な紫色の霧が噴き出し、意思を持つ生き物のようにファルガスの街へと押し寄せていった。
それは、微睡みのバクが放ったような「心地よい誘惑」などではない。強制的に脳髄へ干渉し、生命活動を停止寸前の深い昏睡状態へと叩き落とす、夢魔の王のみが使える究極の広範囲呪縛だった。
***
城壁の上で警戒に当たっていたファルガスの守備隊は、その霧が城壁を越えてきた瞬間に異変に気づいた。
「なんだ、この霧は……!? おい、息を止め……」
「隊長、体が……鉛のように……」
武装した兵士たちが、次々と糸が切れたようにその場に倒れ伏していく。
紫の霧は城壁を越え、街の通りへ、住宅の隙間へ、そして人々の寝室へと音もなく忍び込んだ。
逃げ惑う市民も、荷車を引く馬も、路地裏の野良犬さえも。霧に触れた者は一瞬にして白目を剥き、深い深い眠りの底へと沈んでいった。
「……フハハハッ! 見よ、たった数分で街は完全に沈黙した!」
馬車からその様子を眺めていたザンデは、高らかに笑い声を上げた。
「不眠の街などと聞いていたが、たかが人間の小細工。我が『永眠の霧』の濃密な睡眠圧の前には、赤子同然よ! さあ、悠々と入城し、無防備な人間どもの命と魔力を刈り取るがいい!」
ザンデの号令とともに、夢魔の軍勢が城門を破り、意気揚々とファルガスの大通りへと足を踏み入れた。
通りには、武器を手にしたままいびきをかく兵士や、逃げ遅れて倒れた市民たちが無数に転がっている。完全な制圧。誰もがそう確信した。
――しかし。
魔王軍の先鋒部隊が、街の中央広場に差し掛かった時のことだった。
「いらっしゃい。ずいぶんと派手な登場じゃないか」
静まり返ったはずの広場から、やけに明るく、そしてよく通る声が響いた。
ザンデが眉をひそめて馬車を進めさせると――そこには、目を疑うような光景が広がっていた。
広場の中央。
紫色の濃密な『永眠の霧』が渦巻くど真ん中で。
数十人の人間たちが、一糸乱れぬ動きで「スクワット」や「アキレス腱伸ばし」をしていたのである。
「いっち、にっ、さん、しっ!」
「血流を回せ! 足の指先まで意識しろ!」
先頭で号令をかけているのは、黒髪の青年――オサムだった。その後ろには、カイン、ルミア、ドンをはじめとする『異世界ショートスリーパー育成ギルド』の面々が、額に汗を浮かべながら屈伸運動を続けている。
ルミアの杖の先からは、太陽のような強烈な『光魔法』が放たれ、広場を真昼のように照らし出していた。さらに彼らの口はモグモグと動いており、何か硬いものを必死に噛み砕いているようだ。
「な、なんだ貴様らは……!? なぜ、我が『永眠の霧』の中にあって、立っていられる!?」
ザンデは驚愕のあまり、玉座から立ち上がった。
「ああ、あんたがボスの夢魔さん? 悪いけど、この程度の霧じゃ俺たちは眠らないよ」
オサムはスクワットを終え、首の後ろを揉みほぐしながら涼しい顔で答えた。
「俺たちは日頃から睡眠を最適化してるからな、無駄な『睡眠負債』が一切溜まってないんだ。おまけに今は、強烈な光を浴び、下半身の筋肉を動かして体温を上げ、硬い干し肉を噛んで脳を刺激している。交感神経はバリバリの覚醒モードさ」
オサムがニヤリと笑う。
「どんな強力な睡眠魔法だろうが、脳が『完全に起きる条件』を満たしきっている状態の人間を、強制的にシャットダウンさせることはできない!」
「馬鹿な……! 魔法を、ただの体操と咀嚼で相殺したというのか!?」
ザンデはギリッと歯ぎしりをした。魔王軍幹部の誇りである究極奥義が、論理的な「覚醒メソッド」の前に完全に無効化されていたのだ。
「それに、あんたのこの霧……換気が悪すぎる。二酸化炭素濃度が上がると睡眠の質が落ちるって知ってるか? 寝室の空気は常に綺麗に保つのが、良質な睡眠の基本だぜ」
オサムが腰の剣をゆっくりと引き抜く。
その後ろで、ギルド生たちも覚醒度マックスのギラギラとした目で一斉に武器を構えた。
「さあ、寝起きの悪い街の住人たちのお目覚めだ。眠りを強制するだけの迷惑な連中には、最高に熱い『活動時間』を叩き込んでやる!」
オサムの号令とともに、完全に目が冴え渡ったショートスリーパーの集団が、魔王軍の軍勢に向かって真っ向から突撃を開始した。




