第9話 深夜の月
「で、でも……!リングレット様、私の思いは本物です……!リングレット様さえいて下されば、私はこんな醜い男などと関係を持つこともないでしょう……!」
肌をはだけさせて、アリエスタはリングレットに駆け寄る。
嫌だ、気持ちが悪い。
身を震わせていると、ご主人様はその剣を抜き、アリエスタに突き立てた。
「な、なにをするの……」
「私の犬に触れるなんて、無礼よ」
「無礼って……何を言っているの……私は王女なのよ、あなたはただの公爵令嬢」
「あなたは今から私の便利な駒になるの。リングレットより少し下がるけれど、同じ立場よ。僥倖だと思いなさい」
ご主人様が手のひらをアリエスタに翳すと、紫色の魔法陣が現れる。
「御覧なさい、あなたの見事な痴態を」
魔法陣はご主人様の背丈を越えて大きくなり、まるで鏡のように透明になると、先ほどのアリエスタの痴態を映し出す。
「やめて!リングレット様にこれ以上恥ずかしい姿を見せないで」
何を言っているんだこの女は。頭がおかしいんじゃないか。
ご主人様は手のひらに陣を収めると、床に這いつくばるアリエスタを見下す。
「この映像を見られたくないのはリングレットだけではありませんよね、王女様」
ご主人様はしゃがみ込み、アリエスタを問い詰める。
するとバツが悪いというように、アリエスタは顔を背けた。
「……それだけは……」
「この期に及んで命乞いとは、王女様は矜持がないのかしら」
「……っ、バリアント!」
アリエスタが布を引き裂くように男の名を呼ぶと、男はだらしない体を乱したまま、剣を構え、こちらに襲い掛かってくる。
ご主人様は反応するも、体勢が悪い。
嫌だ、あんな醜い男に殺されてたまるか……!
「……なっ!」
男がご主人様に剣を振りかぶった瞬間、僕は腰の剣を抜いた。
剣の切先は月の弧のように円を描き、男の髪を刈り上げ、裸体を全身逆剥けにした。
「う……うわああああ」
男は悍ましい姿で僕の後ろへ転がっていき、悲痛な叫びをあげた。
ただ表皮の薄皮を剥いただけなのに、大げさで愚かな男だ。
「……リングレット、あなた、本当に剣が使えたのね」
「だから言ったでしょう、一応使えると」
「……虚勢かと思っていたわ」
「剣なんて野蛮なもの、僕はやりたくありません。努力もしたことない。ただ出来てしまうのです。僕は天才なので」
そう、僕は昔から何でもできてしまう。だから努力などする必要がない。
「なぜあの男を切らなかったの」
「切ったら血が出るでしょう。血なんて汚らわしいもの、僕は見たくもありませんし、見ただけで卒倒してしまいます」
そう、僕はか弱いんだ。
血なんて出すような野蛮な剣術は使わない。
「……王女、どうなさいますか。私の駒になりますか?」
アリエスタは憔悴しきったように目を乾かして、ご主人様を見る。
そうして、小さく頷くと、僕はその剣を鞘に納めた。
「……リングレット様、私は本当にあなたのことが」
ぼそぼそと壊れた人形のように呟くアリエスタの肩に、僕が着ていたジャケットをかけてやる。お前の肌なんか見ても仕方ないからな。
「……王女、一つ、お聞かせ願えますか」
僕が問いかけると、アリエスタは目を輝かせて月下に輝く僕を見上げる。
「弟のことは、どう思っていらっしゃいますか」
そう言葉を落とすと、アリエスタは目から光を消し、俯き、口を閉じた。
「……あいつは、悪いやつではありません。努力家で、愚かなほど王女を愛しています。……どうか、大切にしてやって下さい」
深々と頭を下げると、アリエスタは頭を絨毯に付け、うつ伏せたまま泣いた。
この僕が頭を下げてやっているのになんという失礼なやつだ。あとでユリアンに恩を売ってやる。
「ではアリエスタ王女様、また」
アリエスタを横目で見ると、ご主人様は僕をチラリと見る。
僕はアリエスタを放置してご主人様に付き従った。
ご主人様は部屋の窓に腰をかけると、僕に手を差し伸べる。
「あなたなら、二階程度の高さ、私を抱いて飛び降りても華麗に着地出来るでしょう?」
僕は窓から下を見下ろす。壁の突起や柱を使えば余裕だな。
「……マリーノワーズ様に触れても許されるのであれば」
「あら、構わなくてよ。あなた、私の犬でしょう?」
「……かしこまりました」
僕はため息を押し殺し、両腕を伸ばすご主人様の体を掬うように抱き上げた。
「どうしたの」
「いえ、思ったより軽いなと思いまして」
「この美しい月の下で、よくそんな色気のない台詞が吐けるものだわ。あなたが夜に女遊びをしていないのは信じて差し上げましょう」
小ばかにするような台詞を吐かれると、僕は窓の淵に足をかけ、さっと宙に舞った。
壁の凹凸で靴底を削るように下ると、レンガが出ているところに反対側の足をかけ、華麗に芝生へ着地する。
「あなた、こんな芸当、どこで身に着けたの」
「別に練習なんかしていません。ぶっつけ本番です」
「……あなたが言うのならば、本当なのでしょうね」
そう言いながら、僕の胸にしがみついたまま離れないご主人様をじっと見つめた。
「降りないのですか」
「なんだか気分がいいわ。このまま馬車まで運んで下さる?」
「……はぁ、かしこまりました」
ご主人様を抱えながら、月明かりの届かない道を歩く。
衛兵がいないのに不信感を覚えたが、いないならいないで無駄な汗をかかなくていい。
僕は努力だとか必死だとか、そういう汗くさいものや疲れることが嫌いなんだ。
ああ、疲れたな。もう月があんなに沈んでいる。
でも、こんな夜遅いのも初めてだ。どことなく、空気の静けさや空の色も違う気がする。
ちょっとだけ気分がいいな。と、空を眺めながら馬車の前までご主人様を運ぶと、ご主人様は少し不機嫌そうに僕の腕から粗暴に降りた。




