第2話 あなたは今日から私の犬よ
「い、犬……?」
「私が鳴けと言えばわんと鳴き、私が回れと命じればくるくる回る、そんな存在に興じる覚悟がおありならば、私は貴方を囲って差し上げましょう」
理解が追いつかず、僕は絶句した。
マリーノワーズはうっとりと僕を舐めるように見る。
この女、僕に惚れているのか?……なんか違うな あれは捕食者の目だ。
僕は観賞用だ!食べても美味しくないぞ!
「返事は?」
「えっ、と……」
思考が混濁して、鳩尾の痛みが紛れる。
犬、犬ってなんだ?この僕に家畜になれと?
何を考えているんだこの女。
「嫌なら良くてよ。貴方は都を追われ、国の端で無能の愚図と罵られながら貴方には到底耐えることのできない慎ましい生活を強いられることになるでしょう。如何ですか、私の犬の方が貴族らしい優雅な生活を送れましてよ」
国の端で貧しい生活なんかこの僕が出来るわけがない。
僕は常に遊んで暮らして、食後はアフタヌーンティーを楽しむ生活がいい。
「ななななります!」
「あら、もっと悩んでもよろしくてよ」
「いいい、いえ。マリーノワーズ様の犬になります!」
この女に逆らわない方がいい。僕の本能が叫んでいる。
するとマリーノワーズは素っ頓狂な顔をして、まじまじと僕の顔を覗き見た。
「……あなた、貴族としての矜持はないのかしら」
「矜持?なんですかそれは」
彼女は僕の体を起こすと、僕の顎に人差し指を当て、顔を上げさせた。
「矜持の意味すら知らないなんて、本当に駄犬ですわね」
月の光を背後に背負い、艶やかな黒髪を夜風に揺らす彼女は、まるで、夜の女王のようだ。
青く光る月さえも、僕ではなく、彼女のために輝いていると感じてしまう。
僕は彼女の犬となってしまった。
公爵令嬢マリーノワーズ・アンサルシアの犬に。
*****
微睡から目を覚ますと、そこには見慣れない天井が広がっていた。
ビロード生地の天蓋が視界を覆い尽くす。頭を支える枕は頭がするりと抜けるほど艶やかだ。
「あら、お早いお目覚めですこと」
しなやかな鞭のように放たれた言葉に、僕は身をベッドの中へ隠し、身を縮こまらせた。
「あら、そんなに怯えなくてもよろしいのに」
この女は昨日、この僕に「犬になれ」と命じた。
この僕に、だ。
そしてその後の記憶がない。もしや僕の体を弄んで……。
震えていると、女は揶揄うように笑うと、可愛い子ぶってにっこり微笑んだ。
「私、男性の趣味はよろしいと自負しておりますので、ご安心なさい」
夜着の中をベッドの中でこっそり確認した僕を嘲笑っている。なんなんだ。
僕を馬鹿にしているのか、いい加減にしろ。
不機嫌な表情をしながらも内心安堵すると、彼女はすぐさまベッド横まで移動する。
そして上半身をベッドに近づけ、僕の顎を掴み、怪しげに微笑んだ。
「あなた、昨夜のことを忘れてしまったのかしら?」
言葉を喉元に突き付けられる。
忘れられるものか、あんな屈辱的な夜を。
「い、いいえ……忘れておりません、マリーノワーズ様……」
僕が震わせながら声を絞り出すと、彼女は満足げに微笑み、指先で顎のくぼみを突き、僕の体を倒す。
「よくできました。でも、私と二人きりの時は、私のことをご主人様とお呼びなさい。表向き、あなたは使用人として私は慈悲の心により拾ったことになっておりますので対外的には様付でよろしいわ」
はぁあ?この僕が使用人だと!?
「僕は侯爵子息だぞ!?公爵家とはいえ、何故使用人になどと」
起き上がり、マリーノワーズに食って掛かると同時に肩を突かれ、押し倒される。
こ、この僕がベッド上で女に組み敷かれる……だと。
「お黙りなさい駄犬。この期に及んでまだ貴族のおつもりなの?あなたは犬。昨日の夜、私に拾われた野良犬。まだ自分を人間だと思っているのならば、その体に教え込みましょうか……?」
妖艶な体が僕に近づくと、欲よりも先に恐怖に支配される。
このままでは殺される……!
ぼ、僕は犬だ、犬、マリーノワーズ様の、犬……!
「わっ……わん!わんわんわん!……わん!」
犬だ!僕は犬!犬ですご主人様!
苦し紛れに鳴くと、ご主人様は驚いたように目を丸くする。
恥ずかしい、しかしそんなことを言っている余裕はない。
ご主人様のご機嫌を取らなければ……!
「ふふっ……お前、恥ずかしいけれど、可愛い子ね」
マリーノワーズは、僕の前髪をかき上げると、軽く口づけ、ベッドから立ち上がった。
「すぐにあなたに相応しい服を用意させましょう。私の犬に相応しい服を」
10/3加筆修正しました




