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-黒真珠の少女- 第8話 水門守りの老婆

薬草の匂いが、最初に戻ってきた。


煤けた天井が見えた。

次に、脇腹の鈍い痛み。

それから、額に乗せられた濡れ布の冷たさ。


ルシアンは、ゆっくりと目を開けた。


知らない小屋だった。


土壁に干した薬草が束ねて吊るされ、炉の火が低く燃えている。


体の節々がひどく軋んだ。

あの濁流に呑まれてから、どれだけ経ったのか分からなかった。


「目が覚めたか、負け犬」

声のしたほうを見ると、炉端に老婆が座っていた。

背は曲がり、顔には深い皺が刻まれている。

白髪を無造作に束ねていたが、その奥に、退色した藤色の髪が、一房だけ残っていた。


「……ここは」

「ニルムの支流沿いじゃ。あんたとあの鳥を、水際まで引きずってきたのは帝国軍人じゃ。で、その帝国軍人ごと、ワシが拾った」


老婆は、こちらを見もせずに火へ薬草をくべた。

「礼は言わんでいい。鬱陶しいからな」

「鳥……クルルは?」

「生きとる。脚を痛めとるがな」

老婆は顎で外を示した。

「死にはせん。あんたよりよほど運がいい」


ルシアンは、起き上がろうとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。

「痛い思いをしたくなければ、大人しく寝ておるんじゃな。その傷では、動くたびに体が保たんぞ」


ルシアンは動きを止め、浅く荒い息を吐き出した。

自分の体がどれほど限界に近いか、鈍い痛みが嫌というほど教えてくれる。


老婆は、手元の薬草を束ねながら続けた。

「大体の事情は、あの軍人から聞いた。黒い石やら神殿やら、ろくでもない厄介事に首を突っ込んだようじゃな」


ルシアンは、何も言い返せなかった。


厄介事だと、途中からは分かっていた。

それでも、守りたかった。

なのに、結果はこの有様だ。


ルシアンは、奥歯をきつく噛み締めた。


「それで、どうするんじゃ?」

老婆が、淡々と言った。

「……」

ルシアンは、しばらく天井を見ていた。


あの水。

掴めなかった水。

ユリアの叫び声。

自分は、何ひとつできなかった。


「……あんなに無様に負けた僕に、何ができるって言うんです」

「では、負け犬のまま、ここで指をくわえて見ておるのか?」

老婆は鼻で笑った。


「剣闘士だか何だか知らんが、所詮は檻を出たばかりの犬じゃな。泥水に呑まれたくらいで、すっかり牙が抜けてしもうたわ」

「……何も知らないくせに」

ルシアンの声が、低く沈んだ。


「守りたかったのなら、泥水をすすってでも食らいつけばよかったんじゃ。それを、傷が痛い、相手が悪かったと、安全な小屋でうじうじ泣き言をほざくか」

「食らいつこうとしましたよ……!」

ルシアンは、血を吐くように声を絞り出した。


「剣も振った。踏み込んだ。ユリアさんの手も掴もうとした。でも、あれは水だ。斬っても手応えがない。掴もうとしても、指の間をすり抜ける」

息を吸うたび、脇腹が焼けるように痛んだ。


「僕の剣じゃ、届かなかったんです」

「届かなかったから、諦めるのか?」

老婆の瞳が、冷たくルシアンを射抜いた。


「届かなかったなら、届く手を探せばいい。そこで寝転がって、自分は悪くないと呻いておる暇があるのか」

「そんなこと、言ってない……!」

「同じじゃ」

老婆は、ぴしゃりと言った。


「あの娘がどんな顔で連れ去られたか忘れたか? お前がそうやって言い訳をしてふて寝しておる今も、あの子は一人で——」

「黙れ!」

ルシアンは、痛みを押して無理やり起き上がった。


老婆は止めなかった。


ルシアンは壁に手をつき、よろめきながら、小屋の外へ出た。



外は、乾いた風が吹いていた。

支流の濁った水が、葦の間を流れている。


その水際に、年老いた男女が立っていた。


二人は、ルシアンが出てきたのを見て、静かに会釈した。


「目が覚めたんだね」

女のほうが、ぽつりと言った。

「よかった」

ルシアンは、何と返せばいいのか分からなかった。


女は、水路の向こうを見たまま、続けた。

「あんたたちの話は聞いたよ。黒い石を持った女の子を連れていたって」

ルシアンの足が止まった。


「十年前にもね」

女の声は淡々としていた。

「黒い石を拾った娘がいた。私の子だよ。ある日、黒衣の男に連れて行かれて……そのまま帰ってこなかった」

女はそこで言葉を切った。


「帝国の人も探した。水門守りの者たちも探した……でも、見つかったのは、髪に結んでいた紐だけだった」


ルシアンは、無意識に、剣の鞘に結ばれた護符紐に触れていた。

ユリアがくれた白い貝殻は、濁流の泥でひどく汚れていた。

けれど、紐は切れていなかった。


「……すみません」

ルシアンはそれしか言えなかった。

「謝ることじゃないさ」

女はわずかに首を振った。

「ただ、あの子を連れている男がいるなら。同じには、なってほしくないと思ってね」


ルシアンは無言のまま、泥に汚れた貝殻を見つめた。


「黒い石に関わった者の記録は、過去にもある」

戸口の脇に立っていたヴァロが、静かに口を開いた。


「黒衣の男。神殿。行方不明になった娘。記録に残る限り、似た形の事件は一度ではない」

「……一度ではない?」

ルシアンの指が、剣の鞘に結ばれた護符紐を握った。

「今回だけではない、ということだ」

ヴァロは、支流の向こうを見たまま言った。


ルシアンは、その横顔を睨んだ。

「なら、どうして僕を拘束しないんですか? 僕はマティウスさんと一緒にいたのに」

「必要なら、もうしている」

ヴァロは、短く返した。

「お前があの男の仲間なら、今ここで私にそんなことは聞かん」

「……」

ルシアンは、警戒を解かなかった。


ヴァロはそれを咎めもせず、言葉を続けた。「お前の記録は、メディオラムから届いている。祖父が属州の労役地から脱走した。その咎で、一家ごと闘技場付きの奴隷財産に組み込まれた」


ルシアンは、口の端を歪めた。

「帝国の帳簿は律儀ですね。僕が生まれる前のことまで、首輪にして残してくれる」


ヴァロは反論しなかった。

わずかな沈黙のあと、視線を支流の向こうへ向ける。


「お前が帝国を憎む理由は分かった。だが今、問うべきは一つだ。あの娘を、どうする」

「……どうするも何も」

ルシアンは、乾いた笑いを漏らした。

「また同じように水に呑まれて、今度こそ死ねばいいんですか。僕の剣じゃ、届かなかったんですから」

ヴァロの目が、わずかに細くなった。


「死ぬことは作戦ではない」

低い声だった。

怒鳴ってはいない。

だが、その声には、先ほどまでより明らかな硬さがあった。


「自分の無力を嘆くのは勝手だ。だが、死に場所を探すだけなら、あの娘の救出には何の役にも立たん」


ルシアンは、奥歯を噛み締めた。

「……簡単に言いますね」

「簡単ではない。だから言っている」

ヴァロは、支流の向こうへ視線を向けた。


「あの黒衣……マティウスは神殿へ向かっている。お前がまた同じ剣で挑んだところで、結果は同じだ」

「じゃあ、帝国に任せろって言うんですか」

ルシアンの声に、刺が混じった。


「あんたたち帝国も、マティウスさんも、やってることは同じじゃないですか。誰も、ユリアさんの意思なんて聞いていない」

「個人の意思で、黒真珠の脅威は消せん。それが現実だ」

「だから、縛って、連れていって、閉じ込めるって?」

「必要ならそうする」

ヴァロは、即答した。


ルシアンは息を呑んだ。

「……やっぱり、同じじゃないですか」

「違う」

ヴァロの声が、鋭くなった。


「マティウスは、あの娘を利用する。帝国は脅威を封じ、所持者を生かす。その違いを、お前の感情で同じものにするな」


ルシアンは、言い返そうとして、できなかった。

理屈としては、間違っていない。

だが、納得できるはずもなかった。


これ以上、この男と話しても意味はない。

ルシアンは小さく息を吐き出すと、無言でその場を離れた。



小屋の脇で、クルルが横になっていた。

片脚に、添え木と布が巻かれている。

そばでは、近くの集落から手伝いに来たらしい若い女が、包帯を巻き直していた。


女はルシアンの強張った顔を見ると、小さく笑った。

「あのおばあちゃんに、散々言われたんでしょ?」

ルシアンは、少し気まずそうに視線を逸らした。

「……聞こえてましたか」

「あの人の口の悪さは、このあたりでも有名よ」


女は、クルルの脚に巻いた布を丁寧に結び終えた。

「でも、本当に見捨てる気なら、怪我人なんて拾わない。怒りもしないわ」


「くるる」

クルルはルシアンを見ると、痛む脚で立ち上がろうとした。

「だめ。まだ動いちゃ」

女が慌てて押さえた。

それからルシアンを見上げて、少し困ったように笑う。


「この子、諦めていないわ」

「……諦めてない?」

「ええ。たぶん、脚が動くようになったら、一人でも、あの女の子を追いかけるつもりよ」

女は、クルルの首を撫でた。

「さっきから、ずっと水路の向こうを見てるの。あっちに連れていかれたんでしょう?」


クルルはルシアンの顔を見て、「くるる」と、弱く掠れた声で鳴いた。


ルシアンは言葉を失った。

自分は、負けたことに沈んでいた。

掴めなかった水に。

できなかったことに。

一人で絶望していた。


だが、脚を傷めたこの鳥は、まだ、水路の向こうを見ている。


何も考えていないのかもしれない。

ただ、ユリアの匂いを追おうとしているだけなのかもしれない。


それでも。クルルは、流され、傷ついても、そこから目を逸らしてはいなかった。


水の向こうにいるはずのユリアを、まだ追おうとしていた。


では、自分は何をしている。

届かなかった。

だから、届かせる方法を探す前に、勝手に終わったことにしようとしていたのか。


ルシアンは、クルルのそばへしゃがみ込んだ。

「……わかったよ、クルル。僕の負けだ」

首筋をそっと撫でると、クルルはルシアンの掌に温かい頭をすり寄せてきた。


「一人で行かせたりしない。一緒に迎えに行こう」


ルシアンが立ち上がると、クルルは掠れた声で、それでも強く「くるるっ」と鳴いた。



ルシアンは、小屋に戻った。


老婆は、炉端で薬草を火にくべていた。

火の粉が、ぱちりと爆ぜる。


「頭は冷えたか?」

老婆が言った。

「あれだけ言っておいて、よく言いますね」

ルシアンは、小さく苦笑を漏らした。


「それで、どうするんじゃ?」


ルシアンは、剣の鞘に結ばれた護符紐を見た。

泥に汚れた白い貝殻が、炉の火を受けて鈍く光っている。


——無事に戻れるように、です。


あの声が、まだ耳の奥に残っていた。


「取り返しに行きます」

「娘をか?」

ルシアンは、はっきりと首を振った。

「それだけじゃ、ありません」

「では、何じゃ?」


ルシアンは、しばらく黙った。

それから、ゆっくりと、言葉を選んだ。


「ユリアさんに、選ぶ自由を返しに行きます」

「自由、とな?」

老婆は薬草をくべる手を止め、ルシアンをじっと見据えた。


火の音だけが、しばらく続いた。


「ユリアさんは、村に帰りたいだけだった。それなのに、帝国は保護だと言って連れていこうとして、マティウスさんは神殿だと言って連れていって。黒真珠は、勝手に彼女に根を張ってる」


ルシアンは、きつく拳を握った。

「誰も、ユリアさんに選ばせてない」

ルシアンは、顔を上げた。


「帝国のものにも、マティウスさんのものにも、黒真珠のものにもさせない。ユリアさんには、自分で選ばせます」


老婆は、短く鼻を鳴らした。

「それが言えるなら、まだ牙は残っとるようじゃな」


ルシアンは、立てかけてあった剣を掴み、外へ出ようとした。


「待て」

ヴァロの声だった。

「止めるんですか?」

「その足で走れば、神殿に着く前に倒れるぞ」

「それでも行きます」


ヴァロは、ルシアンの足取りを一瞥してから、静かに問うた。

「武器はあるのか?」

ルシアンは、自分の剣に目を落とした。

「剣なら……」

「剣ではない」

ヴァロは首を振った。


「あの男は水のプーラを持っている。水路を押さえた地形では、兵も剣士も、まとめて呑まれる。お前が、さっき味わった通りだ」

ルシアンは言葉に詰まった。


あの水は、斬っても切れなかった。

剣を振るほど、足を取られ、間合いを奪われた。


「怒りでも、根性でも、あの水は斬れん」

ヴァロが冷静に言った。


「……じゃあ、どうしろって言うんです」


そのとき、炉端で老婆が、低く笑った。

「なら、探すしかないのう」


ルシアンとヴァロの視線が、同時に老婆へ向いた。


「古い水門の奥に、水門守りが封じた鉤剣がある」

老婆は、火を見つめたまま言った。

「水を斬る剣ではない。水を従わせる命令を、ほんの一息だけ断つ剣じゃ」

ヴァロの眉が、わずかに動いた。

「……聞いたことがない。帝国の聖遺物目録にも、その記録はない」

「旧ネフェルティア王国の遺物じゃからな」

老婆は、こともなげに言った。


「ただし、腕のない者が持てば、ただの古い刃じゃ。間合いを知る者が持って、初めて水の縄を断てる」


ルシアンは、自分の剣の柄を、強く握り直した。

間合いなら、知っている。

血の匂いのする檻の中で、嫌というほど体に叩き込まれた。


「その水門は、どこです?」

老婆は、皺だらけの指で、支流の上流を指した。

「水音を辿れ。涸れた水路が、古い水門へ続いている」

ルシアンは、深く頷いた。


脇腹は、まだ痛む。

だが、行く先は、はっきりと決まった。



ユリアは、古い水門の奥を、マティウスに連れられて歩いていた。


水の帯は、もう手足を縛ってはいなかった。だが、逃げられるわけではない。


足を止めれば、足元の浅い水が、警告するように静かに波立つ。


苔むした石の通路は、奥へ行くほど暗くなった。

どこからか、水の滴る音が絶え間なく響いている。


「黒真珠を外せるって、言いましたよね?」

ユリアは、前を行く大きな背中に問いかけた。


「本当に、外せるんですか?」

「神殿まで行けばな」

マティウスは、振り返らなかった。

「そのために」

ユリアは、胸元を押さえた。

「目覚めさせるんですか」

マティウスは、答えなかった。


ユリアの掌の下で、黒真珠は強い熱を持っていた。

脈打つのとは違う。

もっと、ゆっくりとした、何か。

まるで、奥のほうで、得体の知れない何かが静かに息をしているような。

その不気味さに、彼女の背筋が冷えた。


「怖いか」

マティウスが、前を向いたまま言った。

「怖いです」

ユリアは、正直に答えた。

それから、ぐっと唇を噛んで、続けた。

「でも、知らないまま連れていかれる方が、もっと怖いです」


マティウスは、振り返らなかった。

「なら、歩け」


ユリアは、歩き出した。

髪に留めた白い貝殻の髪飾りが、暗い水路の中で、かすかに揺れている。


ルシアンが、似合うと言ってくれたものだった。


ユリアは、それに触れたいと思った。

それだけが、まだ彼女自身のものだと言える、たった一つのものだった。


けれど、胸元の黒真珠の熱が強くなり、指先はそこまで届かなかった。


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