-黒真珠の少女- 第7話 黒衣の裏切り
ネフェルティアの河口港は、潮の匂いと、川の泥の匂いが
入り混じっていた。
荷下ろしが一段落すると、船長のバルトロが、
ルシアンたちのところへやってきた。
手には、小さな布袋がいくつか握られている。
「働いた分だ」
バルトロは、ぶっきらぼうに布袋を差し出した。
「安いが、ただ働きよりはましだろ」
「もらっていいんですか?」
ルシアンは少し驚いて、それを受け取った。
「働いたやつに払わないと、ファンネリア商会の名折れだ」
ユリアにも、小銭の入った布袋が渡された。
彼女はそれを、両手でしっかりと受け取った。
小さな布袋だった。
けれど、それは自分の手で働いて得た給金だった。
ユリアは指先で、その重みを確かめるようにそっと握る。
マティウスにも給金が渡された。
「帳面係としては、悪くなかったぞ」
バルトロが言ったが、マティウスは「そうか」とだけ返して、
淡々と袋を懐へしまった。
クルルには、穀袋が投げてよこされた。
「くるるっ」
「鳥にも給金とは、太っ腹な商会ですね」
ルシアンが言った。
「食い扶持だ。暴れさせるなよ」
それだけ言って、バルトロは船の中へと戻っていった。
◇
港を出る前、ニルム大河の見える石垣のそばで、
ユリアがルシアンを呼び止めた。
「ルシアンさん」
「はい?」
「これを」
ユリアが差し出したのは、小さな護符紐だった。
赤茶色の革紐に、白い貝殻と、赤い陶玉が一つずつ通されている。
剣の鞘や柄に結べる程度の、ささやかなものだった。
「船で働いた分で買いました。自分で選んだものを、渡したくて……」
「僕に?」
「はい」
ルシアンは、その紐を見て、それからユリアを見た。
「……僕は、何かもらう理由がありましたか?」
「あります」
ユリアは、少し迷ってから言った。
「傷が、これ以上開かないように……ではなくて……」
「そこは違うんですか」
「……無事に戻れるように、です」
ルシアンは、一瞬黙った。
それから、静かにその護符紐を受け取った。
「それは、責任重大ですね」
「嫌でしたか?」
「いえ」
ルシアンは、それを剣の鞘にしっかりと結びつけた。
結び目を確かめる指先が、ほんの少しだけ止まる。
鞘の革に結ばれた白い貝殻が、川風に小さく揺れていた。
ユリアの髪に留められた白い貝殻の髪飾りも、
同じ風に揺れている。
贈ったものと、贈られたもの。
そう思った途端、ルシアンは少しだけ視線の置き場に困った。
「返せと言われても、返しませんよ」
「返してほしくて渡したわけではありません」
ユリアの声は小さかったが、不思議とまっすぐだった。
その様子を見ていたマティウスが、横から口を挟んだ。
「俺の分はないのか?」
ユリアが、目を瞬かせた。
「マティウスさんは……大人ですし、私が渡さなくても、
ちゃんと帰ってこられそうなので」
言ってから、ユリアは少しだけ視線を落とした。
「これは、その……ルシアンさんに持っていてほしかったものなので」
ルシアンは、鞘に結んだ護符紐へ視線を落としたまま、
ほんの一瞬だけ言葉を失った。
「……そういうことを言われると、余計に返せなくなりますね」
「返してほしくて渡したわけではありません」
ユリアの声は小さかったが、不思議とまっすぐだった。
マティウスは二人を見比べて、薄く笑った。
「なるほど。俺が口を挟む話じゃなかったらしい」
「そういう話じゃありません」
ルシアンとユリアの声が、ほとんど同時に重なった。
それから、マティウスは、ルシアンの剣に結ばれた護符紐へ、
ふと視線を落とした。
「……大事にしろよ」
からかう調子は、そこにはなかった。
ルシアンは、わずかに眉をひそめた。
「言われなくても」
「ならいい」
マティウスはそれ以上は何も言わず、ニルム大河のほうへ歩き出した。
◇
港で古い小型の二輪荷車を借りた。
クルルが、その荷車を引くことになった。
ルシアンは脇腹に傷があるため、重い荷物を荷車に乗せた。
ユリアはその隣を歩いた。
だが、クルルはそれが気に入らないらしい。
ときおり首を曲げてユリアを見、荷車のほうへくいと嘴を向ける。
荷物ではなく、ユリアを乗せろと言っているようだった。
「似合ってるよ、クルル」
ルシアンは、クルルの首筋を軽く叩きながら言った。
「くるるっ」
「こいつ、怒ったのか?」
ルシアンとクルルのやり取りを、ユリアが微笑みながら見ていた。
けれど、その視線はすぐにルシアンの脇腹へ落ちる。
「ルシアンさんこそ、荷車に乗った方がいいんじゃありませんか」
「それをやったら、僕がクルルに怒られます」
「もう怒っていると思います」
クルルが、同意するように「くるる」と鳴いた。
◇
ニルム大河は、広く、濁っていた。
川辺には葦が密生し、そこから細い灌漑用の水路が
いくつも枝分かれして、乾いた大地へ水を運んでいる。
水路のそばでは、人々が桶で水を汲んでいた。
白い壁の倉庫が点在し、その向こうには赤茶けた大地と、
霞んだ砂丘が連なっている。
道沿いには、古い石造りの水門跡があった。崩れた石柱に、
もう誰にも読めない古代の文字が刻まれている。
歩くうちに、ユリアが胸元を押さえた。
「また、熱いんですか?」
ルシアンが気づく。
「少しだけ……」
ルシアンは、前を行くマティウスに尋ねた。
「近いんですか?」
「神殿までは、まだ少しかかる」
「でも、黒真珠は反応している」
「だから急ぐぞ」
マティウスは、前を向いたまま、それ以上の説明をしなかった。
◇
古い水門跡のそばまで来たとき、行く手に銀の鎧が並んだ。
帝国の小隊だった。
先頭に立っていたのは、見覚えのある将校。
マルクス・アエリウス・ヴァロ。
ヴァロはすぐには剣を抜かなかった。
まず、ユリアへ目を向けた。
「ユリア。無事か?」
ルシアンが、剣の柄に手をかけた。
「ずいぶん親しげですね」
ヴァロの視線が、ルシアンへ移る。
「逃亡剣闘士か」
「今は、護衛です」
「ならば、その娘を守れ。あの黒衣の男から離せ」
「また保護ですか?」
「違う」
ヴァロは、静かに言った。
「今は、その男の話をしている」
ルシアンの手は、まだ剣の柄から離れなかった。
ヴァロはそれを一瞥しただけで、マティウスへ視線を戻す。
「黒衣の男。名はマティウス。少なくとも、今はそう名乗っている」
マティウスは、表情を変えなかった。
「あの街道で、私の隊を混乱させ、その娘を連れ去った男だ。
忘れたとは言わせん」
ヴァロの声に、初めてわずかな硬さが混じった。
あの場で倒れた兵のことを、彼は忘れていないのだろう。
「帝国は、逃げられたことを根に持つらしい」
「任務を妨害されたことを記録するだけだ」
ルシアンの脳裏にも、あの林の光景がかすめた。
黒衣の男が、倒れた兵の喉元へ迷わず刃を走らせた瞬間。
殺さなくてもよかったのではないかと、思わず口にした自分の声。
あの時、確かに何かが引っかかった。
ヴァロは、ルシアンに向き直った。
「その後も調べた。あの男は、ただの案内人ではない」
ルシアンの手は、まだ剣の柄から離れない。
「帝国の言葉を信じろとは言わん。だが、お前も気づいているはずだ。
その男は、肝心なことだけを、何一つ話していない」
「……」
「黒真珠を外す方法。神殿の正体。
なぜ帝国から逃げる必要があったのか。
そのどれも、お前たちは聞かされていない」
ルシアンの視線が、ゆっくりとマティウスへ向いた。
「……マティウスさん」
低く、呼ぶ。
「説明してもらえますか?」
マティウスは、しばらく黙っていた。
「説明すれば、信じるのか?」
「説明しないなら、もっと信じられません」
マティウスは答える代わりに、懐から小さな結晶を取り出した。
青みを帯びた結晶。
水面のように、奥で光が揺れている。
それが、ひときわ強く光った。
足元の灌漑水路が、不自然に波打った。
濁った水が、意思を持つように石畳の上へ這い上がってくる。
ルシアンは、一瞬、意味が分からなかった。
「……マティウスさん?」
マティウスは、答えない。
ただ、周囲の音だけが不自然に遠ざかっていくような、
奇妙な静寂が落ちた。
ピチャリ、と足元で小さな音がした。
見下ろすと、水路の濁った水が細い縄のように這い上がり、
ルシアンの足首へ冷たく絡みついている。
「何をしてるんです?」
問いながらも、ルシアンの手は剣の柄にかかったまま、
動かなかった。
明確な敵意だ。頭では分かっている。
雨の道を歩き、同じ船で夜を越えた男が、
今、自分に敵意を向けている。
その事実を、ルシアンの体は一拍だけ受け入れ損ねた。
冷たい水が足首を締め付ける感触だけが、妙にはっきりしていた。
「水路から離れろ!」
ヴァロの張り裂けるような怒声が、その凍りついた空白を
唐突に打ち砕いた。
水路の水が、意思を持った生き物のように
一気に石畳の上へ這い上がってくる。
足を取られた兵が膝をつき、槍を構えた兵の腕には水の帯が絡みついた。
マティウスへ回り込もうとした兵も、足元をすくわれて
石柱に肩を打ちつける。
「娘を傷つけるな!黒衣の男を止めろ!」
ヴァロの声だけが、水音の上を鋭く走った。
ルシアンは水音を聞きながら、ようやく剣を抜いた。
「すまんな、ルシアン」
マティウスが言った。
声はいつもと同じだった。
冷たくも、熱くもない。
「ここから先は、お前がいると面倒だ」
「……冗談にしては、悪趣味ですよ」
「冗談ではない」
「最初から、そのつもりでしたか?」
「途中までは役に立ってもらうつもりだった」
「今は?」
「ここまでで十分だ」
その言葉で、ルシアンの目が変わった。
信じたくなかったものを、明確な敵として見る顔だった。
「……そうですか」
ルシアンは、剣を低く構えた。
「じゃあ、ここからは遠慮しません」
ルシアンが地面を蹴った。
マティウスは、まともに刃を受けなかった。
後退しながら、水路の水を操って距離を取る。
水は刃ではなく、縄や鞭のように動いた。
ルシアンの足首に絡み、踏み込みを殺す。
ルシアンはそれを斬った。
だが、水は切れても、すぐにまた形を戻した。
剣で負けているわけではない。
そう思った瞬間、足元の水がまた動いた。
負けているのは、場所だった。
水路だらけのこの地形そのものが、マティウスの武器になっている。
ルシアンは足元を読み、水の届かない古い石段へ踏み込んだ。
マティウスの懐に、剣先が届きかける。
だが、その瞬間、古い水門の隙間から噴き出した水が、
横からルシアンの足を激しく払った。
体勢が崩れる。
脇腹の傷が、大きく開いた。
布の下で、じわりと熱いものが広がる。
ルシアンの動きが、目に見えて鈍った。
◇
「ルシアンさん!」
ユリアが、駆け出そうとした。
だが、その足元で水が跳ねた。
古い水路から伸びた水が、細い帯となって、
ユリアの足首へ絡みつく。
さらに腕へ、腰へ、冷たい輪となってきつく巻きついていく。
「放して……!」
ユリアは、もがいた。
だが、水の帯はほどけなかった。
掴もうとしても指の間をすり抜け、
逃れようとすれば、逆に締まる。
「暴れるな」
マティウスが、静かに言った。
「傷つけるつもりはない」
「ルシアンさんを助けてください!」
「あいつは死なん。しぶとい」
「そんなこと、どうして分かるんですか!」
マティウスは答えなかった。
ただ、ユリアの胸元の黒真珠を見た。
黒真珠は、熱を持っていた。
一方で、ユリアの髪に留めた白い貝殻の髪飾りだけが、
水しぶきを受けて、冷たく光っている。
ユリアは、目を逸らさなかった。
ルシアンが押されていくのを、ただ見ていた。
助けようとしても、手足が動かない。
自分のせいで、また誰かが傷つく。
その思いが、冷たい水よりも重く、彼女を縛った。
マティウスの結晶が、ひときわ強く光った。
水路の水位が一気に上がる。
古い石の隙間から、濁流が激しく噴き出した。
クルルが引いていた荷車の片輪が、石畳の縁に引っかかった。
水が足元をさらい、繋ぎ革が裂ける。荷物が散乱した。
クルルの鳴き声が、濁流の音に呑まれた。
◇
ルシアンは、足場を完全に失った。
水が足首を絡め、濁流が膝を強く打つ。
「縄を投げろ!」
ヴァロの命令で、兵の一人が、水路へ向かって縄を放った。
縄は、ルシアンの腕に届きかけた。
だが、水が跳ねた。
縄は濁流に叩き落とされ、石壁へ虚しく打ちつけられる。
ルシアンの足元が、大きく崩れる。
ヴァロが、水路へ向かって駆け出した。
だが、濁流はすでにルシアンの膝を越え、次の瞬間、
その体を古い水門の奥へと乱暴に呑み込んだ。
「ルシアンさん!」
ユリアが、叫んだ。
ルシアンは一瞬、手を伸ばした。
しかし、掴めるものは何もなかった。
剣の鞘に結ばれた護符紐が、水しぶきの中で揺れる。
小さな白い貝殻が、濁った水の中で、かすかに光った。
◇
「隊長、娘が!」
兵の一人が叫んだ。
マティウスは、拘束したユリアを連れて、水門跡の奥へ向かっている。
ヴァロは一瞬だけそちらを見た。
だが、すぐに濁った水路へ視線を戻した。
「二名、あの男を追え。距離を取れ。水路には近づくな」
「隊長は!」
「剣闘士を拾う」
兵が、目を見開いた。
「し、しかし、あいつは……」
「死なせれば、あの黒衣を追える者が、一人減る」
ヴァロは、濁流の先を睨んだ。
「それに——」
水路沿いを走りながら、ヴァロは短く言い捨てた。
「目の前で死にかけている者を、見捨てる理由にはならん!」
◇
水の帯に拘束されたまま、ユリアは水門跡の奥へ連れて行かれた。
乱暴には扱われなかった。
だが、逃げることもできない。
ユリアは、ルシアンの流された方角を、ずっと見ていた。
「ルシアンさんを、助けてください」
「ヴァロが追う」
「どうして、こんなことを……」
「お前と黒真珠には、行くべき場所がある」
「黒真珠を、外せるって、言いましたよね」
マティウスは、すぐには答えなかった。
「外すには、まず——目覚めさせなければならない」
それ以上は、何も言わなかった。
ユリアの胸元で、黒真珠は熱を持ち続けていた。
髪に留めた白い貝殻だけが、水しぶきを受けて、冷えていた。
◇
濁った水の中で、ルシアンは必死に手を伸ばした。
指に触れるのは、泥と水草だけ。
流れは容赦なく速く、体の自由を奪っていく。
遠くで、ユリアの声が聞こえた気がした。
だが、それも、激しい水音に呑まれて消えた。
剣の鞘に結ばれた護符紐が、水流に揺れている。
あの小さな白い貝殻が、濁った水の中で、かすかに光っていた。
——無事に戻れるように、です。
ユリアの声が、遠くで聞こえた気がした。
戻る。
そう思ったはずなのに、伸ばした手は、何も掴めないまま
濁流に押し戻された。
視界が、暗くなっていく。
そこで、ルシアンの意識は途切れた。




