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-黒真珠の少女- 第6話 白い貝殻と夜明けの船

養育院の扉をくぐった途端、外の喧騒が遠のいた。


子どもたちの笑い声が、奥の部屋から漏れてくる。

小さな中庭には洗濯物が干され、雨上がりの陽が石畳を乾かしはじめていた。


たった今まで槍を向けられていたとは思えない、穏やかな場所だった。


それでも、ルシアンは剣の柄から手を離さなかった。


ユリアもクルルのそばに立ち、落ち着かなげに辺りを見ている。

胸元の布包みに添えた手だけが、なかなか緩まない。


奥から、前掛けをつけた女が出てきた。

年の頃は四十ほど。

子どもをあやしていたのだろう、袖をまくり上げている。


その目が、マティウスを認めた途端、すっと険しくなった。


「また厄介事を持ち込んできたのかい、マティウス」


「今回は少し急ぎだ、リヴィア」


マティウスは軽く流した。


リヴィアと呼ばれた女は、腕を組んでルシアン、ユリア、そしてクルルを順に眺めた。


「黒真珠持ちの娘、逃亡剣闘士、黒衣の男、それに大鳥……」

彼女はため息をついた。


「厄介者の勢ぞろいじゃないか」


その視線が、ルシアンの左脇腹で止まった。

「あんた、血が出てるよ」


ルシアンは裂けた服の上から手を当てた。

「ああ、これは。大したことないです。まだ走れます」


「大したことないって言わないでください」

ユリアが、すぐに口を挟んだ。

「走れるから大丈夫、ではありません」


リヴィアは、もう決めたという顔で奥を指した。

「まず手当てだ。そんな血の匂いをさせたままじゃ、話を聞く気にもならないよ」



奥の小部屋で、ユリアはルシアンの応急の布を外し、傷を洗い直すことになった。


リヴィアが用意した湯と布で、ユリアは裂けた脇腹の血を慎重に拭った。

さっき路地で押さえた布は、もう赤く滲んでいる。


傷そのものは浅い。

だが、走ったせいで傷の縁が開きかけていた。


ユリアの手は、少し震えていた。


その胸元には、黒真珠がある。

使えば、この傷も塞がるのかもしれない。


けれど、彼女は石に触れなかった。


布を当て、傷薬を塗り、丁寧に包帯を巻いていく。

それは奇跡ではない。

人の手による、ただの手当てだった。


「見た目ほど、痛くないですよ」

ルシアンが、気まずそうに言った。


「痛くないなら」

ユリアは手を止めずに言った。


「そんな顔をしないでください」


ルシアンは、口をつぐんだ。


ユリアの指が、包帯を巻きつけていく。

ルシアンは、その丁寧な手つきから、なんとなく目を逸らした。


さっきの路地でも、彼女は同じように心配していた。

それなのに、誰かにこんなふうに手当てされることには、まだ慣れそうになかった。


「……ありがとうございます」


ユリアは、包帯を結び終えて、小さく頷いた。



手当てが済むと、マティウスがリヴィアに本題を切り出した。


ネフェルティア行きの船に乗せてほしい、と。

リヴィアは即答しなかった。


「帝国兵が、もうヴェネスに入ってる」

彼女は指を折った。


「黒真珠持ちの娘を乗せるのは危ない。逃亡剣闘士もいる。あんたは帝国から危険人物扱いだ。おまけに、目立つ大鳥つき。うちが帝国に目をつけられたら商売に響くんだよ」


彼女は、きっぱりと言った。

「だから、乗せられない」

「金がないからですか?」

ルシアンが口を開いた。

「違う。金を積まれても困るって話だよ」

「なら、客じゃなくていいです」


ルシアンは、リヴィアをまっすぐ見た。

「荷運びでも、甲板掃除でも、できることは何でもやります」


「私も」

ユリアが続いた。

「炊事でも、洗濯でも、手当ての手伝いでも、できることをします。迷惑をかけるだけなのは、嫌なので」

リヴィアは、二人を見比べた。

マティウスではなく、この二人を。


「……そこまで言うのなら、働いてもらおうか」

リヴィアの声から、少しだけ棘が抜けた。


「ただし、ただ乗りはさせないよ。男のあんたは荷運びと甲板作業、積荷の固定。ユリアと言ったね。あんたは炊事、洗濯、水汲み、怪我人の手当て補助」


そこで、リヴィアの視線がマティウスへ移った。

「あんたもだよ、マティウス」


黙って話を聞いていたマティウスが、わずかに眉を動かした。

「俺もか?」

「当然だよ。黙って突っ立ってるだけの男を船に乗せるほど、うちは暇じゃないんだよ。雑用と帳面確認くらいはしてもらう」


ルシアンが、少しだけ口元を緩めた。

「意外と似合いそうですね、帳面」

「黙れ」


リヴィアは最後にクルルを見た。

「この大鳥は荷役用として扱う。暴れさせるんじゃないよ」

「くるるっ」

「返事だけはいいね」

リヴィアがクルルの首筋を軽く叩きながら笑った。


「それで」

リヴィアが、ふと面白そうな顔をした。

「その娘とは、どういう関係だい?」

「護衛と、依頼人です」

ルシアンは即答した。

「ずいぶん大事そうに庇う依頼人だね。怪我してまで」


ルシアンが、少し詰まった。

ユリアも俯く。


「……大事じゃない依頼人って、いるんですか?」

「ふうん。口は回るね」

リヴィアが笑った。


「遊んでいる暇はない」

マティウスが割って入った。

「船はいつ出る?」

「何を急いでるのか知らないけど、船を出すのはうちなんだ。こっちの都合に合わせてもらうよ」


リヴィアはそう言って、マティウスを横目で睨んだ。


「厄介事を持ち込んできた側が、出港の時刻まで決めようってのは、少し虫がよすぎるんじゃないかい?」


マティウスは黙った。

否定できない、というより、ここで言い争うだけ時間の無駄だと判断した顔だった。


割り込んできたマティウスをいなして、リヴィアが言った。

「翌朝の夜明け前に出港だ。でも、それまでに身なりを整えないとね」


リヴィアは、ルシアンとユリアに小銭と書きつけを渡し、市場へのお使いを命じた。


「働き手として乗るなら、その格好じゃ目立つ。市場で、必要なものを揃えてきな」

彼女は言った。

「表通りへ出るんじゃないよ。水路沿いを三つ渡って、青い屋根の店だ。余計なものを見るな。余計なものを買うな。余計な男に声をかけられるな」

「最後のは、僕に言ってます?」

「あんたに声をかける男がいるか。港のならず者が、こんな可愛い娘を放っておくかって意味だよ」


隣で、ユリアが小さく吹き出した。

けれど、すぐに言葉の意味に気づいたのか、頬を赤くして俯く。


「……からかわないでください」


ルシアンは何か言い返そうとして、結局やめた。

否定するのも変で、頷くのはもっと変だった。


「……リヴィアさんの言い方が悪いんですよ」

ルシアンは市場の方へ視線を逸らしながら呟いた。



水路沿いの市場は、雨上がりの光に満ちていた。


狭い石橋の下を、小舟が行き交う。

布屋の軒先に色とりどりの反物が揺れ、店先には干した魚が並んでいた。


荷運び人の声が飛び交い、濡れた石畳が陽を照り返している。


ルシアンとユリアは、書きつけの品を順に揃えていった。


粗末な作業上着、ユリア用の頭巾、包帯、傷薬、針と糸、船で食べる乾物、それからクルル用の穀袋。


途中、港の男たちが何度かユリアに目を留めた。

声をかけようと近づいてきた者もいたが、そのたびにルシアンが荷物を抱えたまま、さりげなくユリアとの間に立った。


睨んだわけではない。


ただ、近づけば面倒なことになると分かる程度には、剣闘士の目をしていた。



買い物の合間、ユリアが頭巾をかぶろうとして、うまく結べずにいた。


ルシアンが、つい手を伸ばしかける。

けれど、指先が布に触れる寸前で止まった。


「……すみません。勝手に触るところでした」


ユリアは少しだけ目を伏せた。

それから、かすかに頬を赤くして答える。

「いえ。嫌では、ないです」


ルシアンが苦笑した。

「それ、僕が言った台詞みたいですね」

ユリアの頬が、さらに赤くなった。

「……覚えていたんですか」

「忘れるほど、昔の話でもないでしょう」


ルシアンはそれ以上は言わず、視線を市場のほうへ戻した。

そのとき、橋の向こうに、銀の鎧が見えた。


二人組が、橋のたもとの柱に布告を貼り付けている。


黒真珠を持つ少女。

黒衣の男。

逃亡剣闘士。

大きな鳥——。


ユリアの体が、強張った。

「走らないでください」

ルシアンが、低く言った。

「走ると、目立ちます」

「でも……」

「大丈夫。今は、ただの荷運びと、その手伝いです」


ルシアンは、ユリアを布屋の軒先の影へ促した。

荷を抱え直し、市場の人混みに紛れる。

買い物客の列に並び、何でもない顔で品物を眺めるふりをした。


帝国兵は布告を貼り終えると、橋を渡って別の方向へ去っていった。



ユリアは、胸元を片手で押さえていた。

けれど、布の奥の石は、静かなままだった。

「荷物が重くなる前に行きましょう」

ルシアンが言った。


だが、そう言って歩き出しかけたとき、露店の端に並んだ小さな髪飾りがルシアンの目に入った。


磨かれた白い貝殻を、小さな花の形に削ったものだった。


ルシアンは一度通り過ぎかけて、足を止めた。


「……少しだけ、待っていてください」「え?」


ユリアが振り向くより早く、ルシアンは露店の老婆に声をかけた。

小銭をいくつか渡し、髪飾りを一つ受け取る。


「ルシアンさん?」

「働き手らしくするなら、身なりを整えろと言われましたから」

「それは、たぶん、そういう意味では……」


ルシアンは聞こえないふりをして、白い貝殻の髪飾りを差し出した。


「ユリアさんの金色の髪に、似合うと思ったので……」

言ってから、ルシアンは自分でも少し驚いたように口を閉ざした。

それから、逃げるように視線を逸らす。


「……働き手らしく見えるかは、分かりませんけど」


ユリアは、差し出された髪飾りを見つめた。 それから、おずおずと受け取る。


「……ありがとうございます」

声は小さかった。

けれど、指先は大事そうに、その小さな髪飾りを包んでいた。


金色の髪、と言われたことが、まだ耳の奥に残っている。


ユリアはそれを隠すように少しだけ顔を伏せると、頭巾の内側、髪の端にそっと髪飾りを留めた。



商会へ戻ると、リヴィアが二人を出迎えた。


「ただのお使いにしては、ずいぶん時間がかかったね」

「道が入り組んでたので」

ルシアンが答えた。


リヴィアは受け取った荷物をざっと確かめ、書きつけと残った小銭を見比べた。

そして、片眉を上げる。


「計算が合わないみたいだけど?」

「値上がりしてました」

「何が」

「いろいろです」


リヴィアの視線が、ユリアの髪に留まった。 白い貝殻の小さな髪飾りが、頭巾の下から少しだけ覗いている。


ユリアが、慌てて俯いた。

ルシアンは何食わぬ顔で荷物を持ち直す。

リヴィアはしばらく二人を眺め、それから大きくため息をついた。


「……その分、二人とも働いてもらうよ」

「はい」

「もちろんです」

二人の返事が重なった。


「まったく。若いってのは、帳面に合わないね」

リヴィアは呆れたように手を振った。



その夜、ユリアはルシアンの包帯に血が滲んでいないかを確かめた。


さっきより、手の震えは少なかった。

それでも、包帯の端を直す指先はひどく慎重だった。


「……そんなに怖い顔をしなくても、大丈夫ですよ」

「怖い顔をしているのは、ルシアンさんの方です」


言い返されて、ルシアンは黙った。

ユリアは結び目を確かめると、小さく息を吐いた。


「無理は、しないでください」

「努力はします」

「約束してください」

「……努力します」


ユリアが少しだけ眉を寄せたので、ルシアンは目を逸らした。



夜明け前、港にはまだ朝靄が立ちこめていた。

船長のバルトロは、ファンネリア商会の船を預かる、口の荒い男だった。


集まった一行を見るなり、彼は顔をしかめた。

「リヴィア。聞いていたより荷が多いぞ」

「よく働く荷だよ」

リヴィアが涼しく返した。


バルトロは、ルシアンを上から下まで見た。

「剣闘士だろうが何だろうが、甲板じゃ新人だ。船に乗るなら、働け」

「怪我人なので、優しくお願いします」

「海に優しさを期待するな」


それから、バルトロの視線がクルルで止まった。

「……その鳥も、乗せるのか?」

「荷役用だ」

リヴィアが答えた。

「くるる」

「本人は、納得してないみたいです」

ルシアンが言った。


出航前、帝国兵が港の検問に来た。

だが、商会員たちは慣れたものだった。


ルシアンは荷を運ぶふりをし、ユリアは頭巾を深くかぶって炊事場の手伝いに紛れた。


クルルは荷役用の大鳥として、積荷の脇に繋がれた。


「黒真珠を持つ少女を見なかったか?」

帝国兵が、リヴィアに尋ねた。

「うちは、荷を運ぶ商会だ」

リヴィアは表情ひとつ変えなかった。

「厄介事は、運ばないよ」


兵の目が、クルルに向いた。

「その鳥は?」

「荷役用だ」

バルトロが答えた。

「人間より、よほど働く」

「くるる」


——文句は言うほうですけどね。

ルシアンは、荷の陰でそう思った。


帝国兵は、完全には納得しない顔をしていた。

だが、船を止める根拠はなかった。


やがて、彼らは桟橋を去っていった。



船は、夜明けとともに水路を滑り出した。


低い石橋の下をくぐり、朝靄の中をゆっくりと進む。


白い帆が、少しずつ風をはらんでいく。

やがて水路が開け、外海が見えてきた。


背後で、ヴェネスの町が、靄の向こうへ遠ざかっていく。


ユリアは、船縁からそれを見送っていた。

もう、引き返せない距離まで来ていた。

風に揺れた髪の端で、白い貝殻の髪飾りが小さく光る。


市場でルシアンが買ったものだ。

ユリアはそれに気づいたように、そっと指先で触れた。


ルシアンが、隣に立った。

脇腹の傷が、船の揺れにわずかに痛んだが、顔には出さなかった。


「本当に」

ユリアが、ぽつりと言った。

「黒真珠を、外せるんでしょうか……」


ルシアンには、答えがなかった。

「外せなかったら、別の方法を探しましょう」

「そんな、簡単に……」

「簡単じゃないことは」

ルシアンは海を見た。

「だいたい、そうやって片付けるしかないんですよ」


ユリアはしばらく黙って、ルシアンの横顔を見つめていた。


何の保証もない言葉だった。

けれど、不思議と突き放された気はしなかった。


「……そういうところ、少しずるいです」


ルシアンは答えに困ったように、海へ視線を戻した。



外海に出ると、本格的な船の仕事が始まった。

最初の半日は、ルシアンも揺れる甲板に慣れるだけで精一杯だった。


力はある。

だが、勝手の違う海の上では思うように動けない。

おまけに、脇腹の傷が、荷を持ち上げるたびに引きつる。


若い船員が、青い顔をしたルシアンを見て笑った。

「剣闘士様も、海には勝てねえか」

「海は、殴れませんからね」

それでも、ルシアンは手を抜かなかった。


「口より手を動かせ、新人」

バルトロが、遠くから怒鳴った。

「怪我人への労わりが、薄い船ですね」

「働ける怪我人は、怪我人じゃねえ」


ユリアは、炊事場と洗濯場で働いた。

船員の破れた服を針と糸で繕い、水を汲み、食事を運んだ。


彼女もまた、黒真珠には手を触れなかった。

船旅の途中、手を切った船員が、冗談半分に言った。


「黒い石を持ってる少女って、あんたのことだろう? 帝国が探すくらいなら、何かご利益でもあるのかい?」


ユリアは、胸元をそっと押さえた。

「これは」

彼女は静かに言った。

「使ってはいけないものなんです」


クルルは、最初のうちは船上で落ち着かなかった。

揺れる床に脚を踏ん張り、帆が鳴るたびに首をすくめた。


「クルル、船酔いか?」

ルシアンがからかった。

「くるるっ」

「怒ったか。元気そうだな」


それでも二日目の昼には慣れた様子で、ユリアが水桶を運んでよろけたときには、すっと首を伸ばして支えた。

荷崩れしかけた木箱を、体で押さえたこともあった。



その夜、海は静かだった。

甲板で、ルシアンとユリアは並んで海を見ていた。


「傷、痛みますか?」

ユリアが聞いた。

「痛くないと言ったら、怒りますか?」

「怒ります」

「じゃあ、少し痛いです」

ユリアが、少しだけ笑った。


しばらく、波の音だけがあった。

「黒真珠が外れたら……」

ユリアが言った。

「ルシアンさんは、どうするんですか?」


ルシアンは、少し考えた。

「まずは、追われない場所で、寝たいです」

「それだけですか?」

「大事ですよ。誰にも起こされないで寝るのは」

ユリアが、また笑った。

その横顔で、白い貝殻の髪飾りが月明かりを受けて淡く光っていた。


ルシアンは、首に巻いたままの布に触れる。

「でも、その前に、これを返さないと」「ちゃんと、洗って返してください」

「船の水で洗ったら、潮の匂いがしそうですね」

「それは、嫌です」

ユリアはそう言ってから、少しだけ髪飾りに触れた。


「……これは、潮の匂いがしても、返しませんから」

「返されても困ります」

「そうですか」

「はい。帳面にも、もう載っているでしょうし」

ユリアが小さく笑った。

波の音が、二人の間を静かに満たしていた。



船室で、マティウスは一人だった。

灯りの揺れる狭い船室で、彼は懐から小さな布包みを取り出した。


中には、青みを帯びた結晶があった。

船の揺れに合わせて、その奥の光が、水面のように静かに揺れる。


マティウスは、それをしばらく無言で見つめていた。

「……近いな」

それだけ呟くと、また布に包み、懐へ戻した。



船旅の終盤、海の色が変わった。

青かった海が、次第に濁った褐色を帯びはじめる。

乾いた風が吹き、潮の匂いに、土と葦の匂いが混じった。遠くに、赤茶けた陸地が見えてきた。


海へ流れ込む大河の河口。

その川辺には葦が茂り、白い壁の港町が見える。


さらに奥には砂丘が連なり、川沿いには古い石造りの水門らしき影があった。


そのとき、ユリアが胸元を押さえた。

「どうしました?」

ルシアンが気づいた。

「少し……熱いんです」

布の奥で、黒い石が、かすかに熱を持っていた。

脈打つほどではない。

けれど、確かに熱を帯びている。


マティウスも、それに気づいていた。

だが、表情は変えなかった。


「神殿が近い」

マティウスは低く言った。

「もう?」

ルシアンが眉を寄せた。

「ここから先は、大河沿いに進む」

マティウスは、川の奥を見た。

「古い水門跡を抜ければ、砂漠へ入れる」


船はネフェルティアの河口港に着いた。

船員たちが、慌ただしく積荷を下ろしはじめる。


バルトロの号令が飛ぶ。

ルシアンも荷下ろしを手伝ったが、重い荷を担いだ拍子に、脇腹の傷が鋭く痛んだ。


「ルシアンさん、今——」

「荷が重かっただけです」

ルシアンは、軽く流した。


けれどユリアの視線は、ルシアンの脇腹から離れなかった。


ルシアンはそれに気づいて、困ったように笑う。


「……あとで、ちゃんと見せます」

ユリアは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。



港の向こうには、ゆったりと流れる大河があった。

その先に、赤茶けた大地と、霞んだ砂漠。

さらに遠く、古い水門の影が、陽炎の中に揺れていた。


「ここから先は、歩きだ」

マティウスが言った。

「船の次は、砂ですか」

「文句があるなら、泳いで帰れ」

「歩きます」


ルシアンは肩をすくめてから、遠くの水門跡へ目を向けた。

笑って済ませるには、目の前の大地はあまりにも広かった。


ユリアは、胸元の黒真珠を、そっと押さえた。


熱は、もう引いていた。

冷たくもない。

脈打つほどでもない。


ただ、何かを待っているように沈黙していた。

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