-黒真珠の少女- 第6話 白い貝殻と夜明けの船
養育院の扉をくぐった途端、外の喧騒が遠のいた。
子どもたちの笑い声が、奥の部屋から漏れてくる。
小さな中庭には洗濯物が干され、雨上がりの陽が石畳を乾かしはじめていた。
たった今まで槍を向けられていたとは思えない、穏やかな場所だった。
それでも、ルシアンは剣の柄から手を離さなかった。
ユリアもクルルのそばに立ち、落ち着かなげに辺りを見ている。
胸元の布包みに添えた手だけが、なかなか緩まない。
奥から、前掛けをつけた女が出てきた。
年の頃は四十ほど。
子どもをあやしていたのだろう、袖をまくり上げている。
その目が、マティウスを認めた途端、すっと険しくなった。
「また厄介事を持ち込んできたのかい、マティウス」
「今回は少し急ぎだ、リヴィア」
マティウスは軽く流した。
リヴィアと呼ばれた女は、腕を組んでルシアン、ユリア、そしてクルルを順に眺めた。
「黒真珠持ちの娘、逃亡剣闘士、黒衣の男、それに大鳥……」
彼女はため息をついた。
「厄介者の勢ぞろいじゃないか」
その視線が、ルシアンの左脇腹で止まった。
「あんた、血が出てるよ」
ルシアンは裂けた服の上から手を当てた。
「ああ、これは。大したことないです。まだ走れます」
「大したことないって言わないでください」
ユリアが、すぐに口を挟んだ。
「走れるから大丈夫、ではありません」
リヴィアは、もう決めたという顔で奥を指した。
「まず手当てだ。そんな血の匂いをさせたままじゃ、話を聞く気にもならないよ」
◇
奥の小部屋で、ユリアはルシアンの応急の布を外し、傷を洗い直すことになった。
リヴィアが用意した湯と布で、ユリアは裂けた脇腹の血を慎重に拭った。
さっき路地で押さえた布は、もう赤く滲んでいる。
傷そのものは浅い。
だが、走ったせいで傷の縁が開きかけていた。
ユリアの手は、少し震えていた。
その胸元には、黒真珠がある。
使えば、この傷も塞がるのかもしれない。
けれど、彼女は石に触れなかった。
布を当て、傷薬を塗り、丁寧に包帯を巻いていく。
それは奇跡ではない。
人の手による、ただの手当てだった。
「見た目ほど、痛くないですよ」
ルシアンが、気まずそうに言った。
「痛くないなら」
ユリアは手を止めずに言った。
「そんな顔をしないでください」
ルシアンは、口をつぐんだ。
ユリアの指が、包帯を巻きつけていく。
ルシアンは、その丁寧な手つきから、なんとなく目を逸らした。
さっきの路地でも、彼女は同じように心配していた。
それなのに、誰かにこんなふうに手当てされることには、まだ慣れそうになかった。
「……ありがとうございます」
ユリアは、包帯を結び終えて、小さく頷いた。
◇
手当てが済むと、マティウスがリヴィアに本題を切り出した。
ネフェルティア行きの船に乗せてほしい、と。
リヴィアは即答しなかった。
「帝国兵が、もうヴェネスに入ってる」
彼女は指を折った。
「黒真珠持ちの娘を乗せるのは危ない。逃亡剣闘士もいる。あんたは帝国から危険人物扱いだ。おまけに、目立つ大鳥つき。うちが帝国に目をつけられたら商売に響くんだよ」
彼女は、きっぱりと言った。
「だから、乗せられない」
「金がないからですか?」
ルシアンが口を開いた。
「違う。金を積まれても困るって話だよ」
「なら、客じゃなくていいです」
ルシアンは、リヴィアをまっすぐ見た。
「荷運びでも、甲板掃除でも、できることは何でもやります」
「私も」
ユリアが続いた。
「炊事でも、洗濯でも、手当ての手伝いでも、できることをします。迷惑をかけるだけなのは、嫌なので」
リヴィアは、二人を見比べた。
マティウスではなく、この二人を。
「……そこまで言うのなら、働いてもらおうか」
リヴィアの声から、少しだけ棘が抜けた。
「ただし、ただ乗りはさせないよ。男のあんたは荷運びと甲板作業、積荷の固定。ユリアと言ったね。あんたは炊事、洗濯、水汲み、怪我人の手当て補助」
そこで、リヴィアの視線がマティウスへ移った。
「あんたもだよ、マティウス」
黙って話を聞いていたマティウスが、わずかに眉を動かした。
「俺もか?」
「当然だよ。黙って突っ立ってるだけの男を船に乗せるほど、うちは暇じゃないんだよ。雑用と帳面確認くらいはしてもらう」
ルシアンが、少しだけ口元を緩めた。
「意外と似合いそうですね、帳面」
「黙れ」
リヴィアは最後にクルルを見た。
「この大鳥は荷役用として扱う。暴れさせるんじゃないよ」
「くるるっ」
「返事だけはいいね」
リヴィアがクルルの首筋を軽く叩きながら笑った。
「それで」
リヴィアが、ふと面白そうな顔をした。
「その娘とは、どういう関係だい?」
「護衛と、依頼人です」
ルシアンは即答した。
「ずいぶん大事そうに庇う依頼人だね。怪我してまで」
ルシアンが、少し詰まった。
ユリアも俯く。
「……大事じゃない依頼人って、いるんですか?」
「ふうん。口は回るね」
リヴィアが笑った。
「遊んでいる暇はない」
マティウスが割って入った。
「船はいつ出る?」
「何を急いでるのか知らないけど、船を出すのはうちなんだ。こっちの都合に合わせてもらうよ」
リヴィアはそう言って、マティウスを横目で睨んだ。
「厄介事を持ち込んできた側が、出港の時刻まで決めようってのは、少し虫がよすぎるんじゃないかい?」
マティウスは黙った。
否定できない、というより、ここで言い争うだけ時間の無駄だと判断した顔だった。
割り込んできたマティウスをいなして、リヴィアが言った。
「翌朝の夜明け前に出港だ。でも、それまでに身なりを整えないとね」
リヴィアは、ルシアンとユリアに小銭と書きつけを渡し、市場へのお使いを命じた。
「働き手として乗るなら、その格好じゃ目立つ。市場で、必要なものを揃えてきな」
彼女は言った。
「表通りへ出るんじゃないよ。水路沿いを三つ渡って、青い屋根の店だ。余計なものを見るな。余計なものを買うな。余計な男に声をかけられるな」
「最後のは、僕に言ってます?」
「あんたに声をかける男がいるか。港のならず者が、こんな可愛い娘を放っておくかって意味だよ」
隣で、ユリアが小さく吹き出した。
けれど、すぐに言葉の意味に気づいたのか、頬を赤くして俯く。
「……からかわないでください」
ルシアンは何か言い返そうとして、結局やめた。
否定するのも変で、頷くのはもっと変だった。
「……リヴィアさんの言い方が悪いんですよ」
ルシアンは市場の方へ視線を逸らしながら呟いた。
◇
水路沿いの市場は、雨上がりの光に満ちていた。
狭い石橋の下を、小舟が行き交う。
布屋の軒先に色とりどりの反物が揺れ、店先には干した魚が並んでいた。
荷運び人の声が飛び交い、濡れた石畳が陽を照り返している。
ルシアンとユリアは、書きつけの品を順に揃えていった。
粗末な作業上着、ユリア用の頭巾、包帯、傷薬、針と糸、船で食べる乾物、それからクルル用の穀袋。
途中、港の男たちが何度かユリアに目を留めた。
声をかけようと近づいてきた者もいたが、そのたびにルシアンが荷物を抱えたまま、さりげなくユリアとの間に立った。
睨んだわけではない。
ただ、近づけば面倒なことになると分かる程度には、剣闘士の目をしていた。
◇
買い物の合間、ユリアが頭巾をかぶろうとして、うまく結べずにいた。
ルシアンが、つい手を伸ばしかける。
けれど、指先が布に触れる寸前で止まった。
「……すみません。勝手に触るところでした」
ユリアは少しだけ目を伏せた。
それから、かすかに頬を赤くして答える。
「いえ。嫌では、ないです」
ルシアンが苦笑した。
「それ、僕が言った台詞みたいですね」
ユリアの頬が、さらに赤くなった。
「……覚えていたんですか」
「忘れるほど、昔の話でもないでしょう」
ルシアンはそれ以上は言わず、視線を市場のほうへ戻した。
そのとき、橋の向こうに、銀の鎧が見えた。
二人組が、橋のたもとの柱に布告を貼り付けている。
黒真珠を持つ少女。
黒衣の男。
逃亡剣闘士。
大きな鳥——。
ユリアの体が、強張った。
「走らないでください」
ルシアンが、低く言った。
「走ると、目立ちます」
「でも……」
「大丈夫。今は、ただの荷運びと、その手伝いです」
ルシアンは、ユリアを布屋の軒先の影へ促した。
荷を抱え直し、市場の人混みに紛れる。
買い物客の列に並び、何でもない顔で品物を眺めるふりをした。
帝国兵は布告を貼り終えると、橋を渡って別の方向へ去っていった。
◇
ユリアは、胸元を片手で押さえていた。
けれど、布の奥の石は、静かなままだった。
「荷物が重くなる前に行きましょう」
ルシアンが言った。
だが、そう言って歩き出しかけたとき、露店の端に並んだ小さな髪飾りがルシアンの目に入った。
磨かれた白い貝殻を、小さな花の形に削ったものだった。
ルシアンは一度通り過ぎかけて、足を止めた。
「……少しだけ、待っていてください」「え?」
ユリアが振り向くより早く、ルシアンは露店の老婆に声をかけた。
小銭をいくつか渡し、髪飾りを一つ受け取る。
「ルシアンさん?」
「働き手らしくするなら、身なりを整えろと言われましたから」
「それは、たぶん、そういう意味では……」
ルシアンは聞こえないふりをして、白い貝殻の髪飾りを差し出した。
「ユリアさんの金色の髪に、似合うと思ったので……」
言ってから、ルシアンは自分でも少し驚いたように口を閉ざした。
それから、逃げるように視線を逸らす。
「……働き手らしく見えるかは、分かりませんけど」
ユリアは、差し出された髪飾りを見つめた。 それから、おずおずと受け取る。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
けれど、指先は大事そうに、その小さな髪飾りを包んでいた。
金色の髪、と言われたことが、まだ耳の奥に残っている。
ユリアはそれを隠すように少しだけ顔を伏せると、頭巾の内側、髪の端にそっと髪飾りを留めた。
◇
商会へ戻ると、リヴィアが二人を出迎えた。
「ただのお使いにしては、ずいぶん時間がかかったね」
「道が入り組んでたので」
ルシアンが答えた。
リヴィアは受け取った荷物をざっと確かめ、書きつけと残った小銭を見比べた。
そして、片眉を上げる。
「計算が合わないみたいだけど?」
「値上がりしてました」
「何が」
「いろいろです」
リヴィアの視線が、ユリアの髪に留まった。 白い貝殻の小さな髪飾りが、頭巾の下から少しだけ覗いている。
ユリアが、慌てて俯いた。
ルシアンは何食わぬ顔で荷物を持ち直す。
リヴィアはしばらく二人を眺め、それから大きくため息をついた。
「……その分、二人とも働いてもらうよ」
「はい」
「もちろんです」
二人の返事が重なった。
「まったく。若いってのは、帳面に合わないね」
リヴィアは呆れたように手を振った。
◇
その夜、ユリアはルシアンの包帯に血が滲んでいないかを確かめた。
さっきより、手の震えは少なかった。
それでも、包帯の端を直す指先はひどく慎重だった。
「……そんなに怖い顔をしなくても、大丈夫ですよ」
「怖い顔をしているのは、ルシアンさんの方です」
言い返されて、ルシアンは黙った。
ユリアは結び目を確かめると、小さく息を吐いた。
「無理は、しないでください」
「努力はします」
「約束してください」
「……努力します」
ユリアが少しだけ眉を寄せたので、ルシアンは目を逸らした。
◇
夜明け前、港にはまだ朝靄が立ちこめていた。
船長のバルトロは、ファンネリア商会の船を預かる、口の荒い男だった。
集まった一行を見るなり、彼は顔をしかめた。
「リヴィア。聞いていたより荷が多いぞ」
「よく働く荷だよ」
リヴィアが涼しく返した。
バルトロは、ルシアンを上から下まで見た。
「剣闘士だろうが何だろうが、甲板じゃ新人だ。船に乗るなら、働け」
「怪我人なので、優しくお願いします」
「海に優しさを期待するな」
それから、バルトロの視線がクルルで止まった。
「……その鳥も、乗せるのか?」
「荷役用だ」
リヴィアが答えた。
「くるる」
「本人は、納得してないみたいです」
ルシアンが言った。
出航前、帝国兵が港の検問に来た。
だが、商会員たちは慣れたものだった。
ルシアンは荷を運ぶふりをし、ユリアは頭巾を深くかぶって炊事場の手伝いに紛れた。
クルルは荷役用の大鳥として、積荷の脇に繋がれた。
「黒真珠を持つ少女を見なかったか?」
帝国兵が、リヴィアに尋ねた。
「うちは、荷を運ぶ商会だ」
リヴィアは表情ひとつ変えなかった。
「厄介事は、運ばないよ」
兵の目が、クルルに向いた。
「その鳥は?」
「荷役用だ」
バルトロが答えた。
「人間より、よほど働く」
「くるる」
——文句は言うほうですけどね。
ルシアンは、荷の陰でそう思った。
帝国兵は、完全には納得しない顔をしていた。
だが、船を止める根拠はなかった。
やがて、彼らは桟橋を去っていった。
◇
船は、夜明けとともに水路を滑り出した。
低い石橋の下をくぐり、朝靄の中をゆっくりと進む。
白い帆が、少しずつ風をはらんでいく。
やがて水路が開け、外海が見えてきた。
背後で、ヴェネスの町が、靄の向こうへ遠ざかっていく。
ユリアは、船縁からそれを見送っていた。
もう、引き返せない距離まで来ていた。
風に揺れた髪の端で、白い貝殻の髪飾りが小さく光る。
市場でルシアンが買ったものだ。
ユリアはそれに気づいたように、そっと指先で触れた。
ルシアンが、隣に立った。
脇腹の傷が、船の揺れにわずかに痛んだが、顔には出さなかった。
「本当に」
ユリアが、ぽつりと言った。
「黒真珠を、外せるんでしょうか……」
ルシアンには、答えがなかった。
「外せなかったら、別の方法を探しましょう」
「そんな、簡単に……」
「簡単じゃないことは」
ルシアンは海を見た。
「だいたい、そうやって片付けるしかないんですよ」
ユリアはしばらく黙って、ルシアンの横顔を見つめていた。
何の保証もない言葉だった。
けれど、不思議と突き放された気はしなかった。
「……そういうところ、少しずるいです」
ルシアンは答えに困ったように、海へ視線を戻した。
◇
外海に出ると、本格的な船の仕事が始まった。
最初の半日は、ルシアンも揺れる甲板に慣れるだけで精一杯だった。
力はある。
だが、勝手の違う海の上では思うように動けない。
おまけに、脇腹の傷が、荷を持ち上げるたびに引きつる。
若い船員が、青い顔をしたルシアンを見て笑った。
「剣闘士様も、海には勝てねえか」
「海は、殴れませんからね」
それでも、ルシアンは手を抜かなかった。
「口より手を動かせ、新人」
バルトロが、遠くから怒鳴った。
「怪我人への労わりが、薄い船ですね」
「働ける怪我人は、怪我人じゃねえ」
ユリアは、炊事場と洗濯場で働いた。
船員の破れた服を針と糸で繕い、水を汲み、食事を運んだ。
彼女もまた、黒真珠には手を触れなかった。
船旅の途中、手を切った船員が、冗談半分に言った。
「黒い石を持ってる少女って、あんたのことだろう? 帝国が探すくらいなら、何かご利益でもあるのかい?」
ユリアは、胸元をそっと押さえた。
「これは」
彼女は静かに言った。
「使ってはいけないものなんです」
クルルは、最初のうちは船上で落ち着かなかった。
揺れる床に脚を踏ん張り、帆が鳴るたびに首をすくめた。
「クルル、船酔いか?」
ルシアンがからかった。
「くるるっ」
「怒ったか。元気そうだな」
それでも二日目の昼には慣れた様子で、ユリアが水桶を運んでよろけたときには、すっと首を伸ばして支えた。
荷崩れしかけた木箱を、体で押さえたこともあった。
◇
その夜、海は静かだった。
甲板で、ルシアンとユリアは並んで海を見ていた。
「傷、痛みますか?」
ユリアが聞いた。
「痛くないと言ったら、怒りますか?」
「怒ります」
「じゃあ、少し痛いです」
ユリアが、少しだけ笑った。
しばらく、波の音だけがあった。
「黒真珠が外れたら……」
ユリアが言った。
「ルシアンさんは、どうするんですか?」
ルシアンは、少し考えた。
「まずは、追われない場所で、寝たいです」
「それだけですか?」
「大事ですよ。誰にも起こされないで寝るのは」
ユリアが、また笑った。
その横顔で、白い貝殻の髪飾りが月明かりを受けて淡く光っていた。
ルシアンは、首に巻いたままの布に触れる。
「でも、その前に、これを返さないと」「ちゃんと、洗って返してください」
「船の水で洗ったら、潮の匂いがしそうですね」
「それは、嫌です」
ユリアはそう言ってから、少しだけ髪飾りに触れた。
「……これは、潮の匂いがしても、返しませんから」
「返されても困ります」
「そうですか」
「はい。帳面にも、もう載っているでしょうし」
ユリアが小さく笑った。
波の音が、二人の間を静かに満たしていた。
◇
船室で、マティウスは一人だった。
灯りの揺れる狭い船室で、彼は懐から小さな布包みを取り出した。
中には、青みを帯びた結晶があった。
船の揺れに合わせて、その奥の光が、水面のように静かに揺れる。
マティウスは、それをしばらく無言で見つめていた。
「……近いな」
それだけ呟くと、また布に包み、懐へ戻した。
◇
船旅の終盤、海の色が変わった。
青かった海が、次第に濁った褐色を帯びはじめる。
乾いた風が吹き、潮の匂いに、土と葦の匂いが混じった。遠くに、赤茶けた陸地が見えてきた。
海へ流れ込む大河の河口。
その川辺には葦が茂り、白い壁の港町が見える。
さらに奥には砂丘が連なり、川沿いには古い石造りの水門らしき影があった。
そのとき、ユリアが胸元を押さえた。
「どうしました?」
ルシアンが気づいた。
「少し……熱いんです」
布の奥で、黒い石が、かすかに熱を持っていた。
脈打つほどではない。
けれど、確かに熱を帯びている。
マティウスも、それに気づいていた。
だが、表情は変えなかった。
「神殿が近い」
マティウスは低く言った。
「もう?」
ルシアンが眉を寄せた。
「ここから先は、大河沿いに進む」
マティウスは、川の奥を見た。
「古い水門跡を抜ければ、砂漠へ入れる」
船はネフェルティアの河口港に着いた。
船員たちが、慌ただしく積荷を下ろしはじめる。
バルトロの号令が飛ぶ。
ルシアンも荷下ろしを手伝ったが、重い荷を担いだ拍子に、脇腹の傷が鋭く痛んだ。
「ルシアンさん、今——」
「荷が重かっただけです」
ルシアンは、軽く流した。
けれどユリアの視線は、ルシアンの脇腹から離れなかった。
ルシアンはそれに気づいて、困ったように笑う。
「……あとで、ちゃんと見せます」
ユリアは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
◇
港の向こうには、ゆったりと流れる大河があった。
その先に、赤茶けた大地と、霞んだ砂漠。
さらに遠く、古い水門の影が、陽炎の中に揺れていた。
「ここから先は、歩きだ」
マティウスが言った。
「船の次は、砂ですか」
「文句があるなら、泳いで帰れ」
「歩きます」
ルシアンは肩をすくめてから、遠くの水門跡へ目を向けた。
笑って済ませるには、目の前の大地はあまりにも広かった。
ユリアは、胸元の黒真珠を、そっと押さえた。
熱は、もう引いていた。
冷たくもない。
脈打つほどでもない。
ただ、何かを待っているように沈黙していた。




