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-黒真珠の少女- 第5話 黒旗の封鎖線

剣の柄に手をかけたまま、ルシアンは丘の麓を見据えていた。

冷たい雨に当てられたせいか、首筋の古い傷跡がかすかに疼く。


黒旗の下、銀の鎧をまとった兵たちがこちらを認め、

散開しはじめた。


槍の穂先が、雨上がりの薄日を鈍く弾いている。

五、六名。

細い街道を塞ぐには、それで十分だった。


「正面を抜けるしかなさそうだな」

マティウスが声を潜め、周囲を見回す。

その目はすでに最短の突破口を値踏みしていた。

「できれば、話し合いで済ませたいんですけど」

「帝国兵が聞いてくれるといいな」


ルシアンは、背後のユリアとクルルを庇うように、

半歩だけ体をずらした。

すぐ後ろで、ユリアの息が小さく震えるのがわかる。


張り詰めた空気を察したのか、クルルも喉の奥で

「くるる……」と不安げに鳴いた。



「止まれ! その場を動くな!」

先頭の兵が鋭く槍を突き出し、声を張り上げた。


「黒真珠を持つ少女を確認!」

別の兵も叫ぶ。


「黒衣の男と、剣を持った若い男が同行している!」


切っ先はルシアンたちから外さないまま、

彼らは背後のユリアへ向けて呼びかけた。


「娘! こちらへ来い! 我々はお前を傷つけるつもりはない!」

「黒衣の男から離れろ! その男は危険だ!」


「槍を向けながら『傷つけるつもりはない』って言うの、

帝国では礼儀か何かなんですか?」

ルシアンは剣の柄を握り込みながら、自嘲気味に口の端を歪めた。


「逃亡剣闘士、武器を捨てろ!」

「ほらな」

マティウスが、ルシアンにだけ聞こえる声で言った。

「保護という名の捕獲だ。綺麗な言葉ほど、檻に似る」

「……かもしれませんね」

ルシアンは小さく答えた。


昨日見た布告の、あの妙に丁寧な文言が

まだ頭の隅に引っかかってはいる。

だが、槍を突きつけられている今、

それを信じる理由はどこにもなかった。


後方から、部隊を束ねているらしい男の怒号が飛ぶ。

「ヴァロ隊長の命令だ! 娘を傷つけるな! 確保を最優先しろ!」


その名に、背後のユリアが弾かれたように息を呑んだ。

ルシアンの服の裾を、小さな手がきつく握りしめている。

「ヴァロ……隊長……?」

「知ってるんですか?」

横目で問うと、ユリアの声がかすかに揺れた。

「村に来た、帝国の人です。あの人は、私を……」

「考えるのは後だ」

マティウスが短く遮る。


「名に聞き覚えがあろうが、槍を向けていることに変わりはない。

今は抜けるぞ」

ユリアは言いかけた言葉を呑み込み、こくりと頷いた。


兵たちが、じりじりと包囲を狭めてくる。

泥を軍靴が踏みしめる不快な音が響いた。



ルシアンが剣を抜く。

「ユリアさん、下がって。クルル、頼む」

「くるるっ」

クルルがユリアを乗せたまま、後方へ飛び退いた。

ただし、遠くまでは離れない。

いつでも駆け出せるように、首を低くして身構えていた。


正面の兵が、鋭い踏み込みとともに槍を突き出してきた。

ルシアンは、迫る穂先を正面からは受けない。


闘技場で叩き込まれた癖で、半身をひねって一撃をいなす。

伸びきった柄を踏みつけ、前のめりになった兵の兜を肘で打ち据える。


横からの槍は刃の腹で払い上げ、手首を柄頭で痛打。

膝裏を蹴り抜き、兵をぬかるみへ這わせた。


「保護対象を傷つけない命令なら」

ルシアンは、三人目の槍を軽やかに捌きながら言った。

「僕への扱いも、もう少し優しくなりませんか?」

「逃亡剣闘士に配慮は不要だ!」

「差別だなあ。痛いのは僕も同じなんですけど」

そのまま三人目の懐へ深く踏み込み、鎧の肩を掴んで

重い音を立てて投げ崩した。


殺してはいない。

動けなくしただけだ。

突破さえできればいい。

この雨と泥にまみれた街道で、無駄な血を流すつもりはなかった。


兵が一人、また一人と地に転がる。

彼らもよく訓練されていた。

だが、ただ生き残るためだけに刃を振るってきた

剣闘士の動きには追いつけない。


その時、後方から異様に重い足音が響いた。

一人の兵が、仲間を押しのけて前に出る。

鎧は他より厚く、左腕の籠手に黄褐色の結晶が嵌め込まれていた。


ルシアンは構わず踏み込んだ。

鎧の継ぎ目、肩口の甘い部分を狙って鋭く剣を振り抜く。

だが、刃は届かなかった。


兵の足元で、泥が生命を持ったかのようにぶわりと盛り上がった。

一瞬にして岩のように硬く締まり、ルシアンの斬撃は、

あと一寸のところで土の防壁に弾かれる。


渾身の力を重い土塊に叩きつけたような痺れが、

腕にずしりと跳ね返ってきた。

「……重いですね。嫌になるな」


兵は、籠手の結晶を鈍く光らせたまま、冷ややかに言った。

「使い捨てのファルサとは違う。監理局の特務兵に支給されたプーラだ。

剣闘士の刃で崩せるものではない」


兵が、手にした槍の石突を地面に強く突く。

ルシアンの足元の石畳が、不意に脈打つように盛り上がった。

跳んでかわしたつもりだった。

だが、避けきれない。


跳ね上がった石の縁が、左脇腹をかすめた。

服が裂け、熱い痛みが一拍遅れて走る。

「……っ」

着地した先でも泥が硬く締まり、足首を締め付けられるように

取られかけた。

ルシアンは無理やり足を引き抜き、大きく間合いを取る。


左脇腹に触れた指先に、赤いものがついた。

「……嫌になるな」

ルシアンは忌々しげに舌打ちし、泥を蹴って大きく間合いを取り直した。


「ルシアンさん、血が……!」

背後で、ユリアの声が震えた。

「もう、やめてください……! 私が行けば……!」


たまらず、ユリアがクルルの背から身を乗り出した。

同時に、その手が胸元の布包みへ伸びかける。


黒真珠を握れば、傷は塞がるかもしれない。

けれど、その代わりに何を奪うのか、ユリアには分からなかった。


「駄目です!」

ルシアンは振り向かずに制止した。

「でもっ!」

「僕はまだ動けます」


言葉は少し鋭くなった。

けれど、責めるための声ではなかった。


「だから、その石は使わないでください」

ユリアの指が、布包みの上で止まった。


「ユリアさんが自分から行ったら、僕がここで戦ってる意味が

なくなります。そこにいてください。

クルルの背の上が、一番安全です」


ユリアははっと息を呑み、動きを止めた。


胸元の布包みを握る手に、白くなるほど力がこもる。

布の奥で、黒い石が微かに熱を持った。

けれどユリアは、ぐっと唇を噛んで耐えた。


クルルが小さく喉を鳴らし、温かい首をユリアの肩へ寄せる。

その温かさが、ユリアの震えを少しだけ和らげた。

石の気配よりも、クルルの優しさの方が、ずっと強かった。



ルシアンは、プーラ持ちの兵と激しく打ち合った。


剣を受け止められるたび、足元の泥が波打ち、

不気味に締まる。

踏み込むたびに、先ほど裂かれた左脇腹がずきりと痛んだ。

服の下で、ぬるい血が少しずつ広がっていく。


だが——極限状態の中で研ぎ澄まされたルシアンの目は、

ある一つの綻びを見逃さなかった。


足元を固める土の、さらにその外側。

雨水を吸って崩れかけた泥の縁までは、どうやら術が及んでいない。

守りはあくまで兵の足元だけだ。

発動している間、兵自身もその固めた土の上に

必死に踏ん張って立っている。


(なら、崩せる)


もう一度、正面から踏み込む。

当然のように兵の籠手が光り、泥が締まって土の守りが刃を待ち構える。


だが、ルシアンが狙ったのは、鎧でも土壁でもなかった。


「剣を止めるのは、上手いですね」

ルシアンは極端に低く身を沈め、兵の足元へ滑り込んだ。

傷が引きつり、息が詰まる。

それでも構わず、固まった泥の外側、雨水を含んで崩れかけた縁を

踵で思い切り蹴り抜く。


「でも、足場の外までは守ってない」

兵の重心が、一瞬だけ流れた。

その隙に、ルシアンは剣の柄を逆手に握り替え、

籠手の縁へ全体重を乗せて叩き込んだ。


硬い金属音が弾け飛ぶ。

黄褐色の光がぐらりと乱れ、兵がたまらず片膝をついた。

「く……っ!」


その瞬間、クルルが動いた。

ユリアを乗せたまま低く身を沈め、力強く地を蹴る。


しなやかで長い脚がぬかるみを越え、

ルシアンがこじ開けた包囲の隙間を迷わず駆け抜けた。


「槍を引け! 娘に当たる!」

「保護対象を傷つけるな!」


猛然と走り抜けるクルルへ、兵たちは槍を突き出せなかった。

ユリアを傷つけることを禁じられた軛が、彼らの動きを鈍らせたのだ。

穂先が虚しく宙で止まる。


クルルは背上のユリアに衝撃を与えぬよう、

脚のばねで揺れを殺しながら疾走した。


「こっちだ!」

マティウスの声が響いた。

「表通りへ出るな。水路側へ抜ける!」


ルシアンは片膝をついた兵を蹴り飛ばして距離を取ると、

最後にもう一人の槍を払い落とし、地面を蹴って身を翻した。

その動きに、左脇腹の傷が鋭く引きつる。


「ルシアンさん!」

「すぐ行きます!」


痛みを押し殺し、風を切って走るクルルとマティウスの背中を追う。


背後で、泥に塗れた兵たちが怒号を上げ、

立て直そうとする音が聞こえる。

だが、重い鎧を着た追っ手の足は、すぐには揃わなかった。


丘を駆け下りた先は、もう町の縁だった。

がらりと、空気が変わる。

石畳は雨に濡れて黒々と光り、低いアーチ状の石橋が

いくつもの水路をまたいでいた。


魚と潮、濡れた木箱、そして人々の濃密な生活の匂いが

入り混じっている。

荷車が軋み、日焼けした荷運び人の怒号が飛び交い、

係留された船の帆が潮風を受けてバタバタと鳴っている。


三人と一羽は、逃げ込むようにその雑踏の中へと飛び込んだ。

狭い路地を折れ、橋を渡り、また暗い路地へ。

積まれた木箱や荷車の陰をすり抜ける。


銀の鎧を鳴らす帝国兵が、入り組んだ水路の町を

力任せに追ってくるには、あまりに目立ちすぎた。

やがて、背後の重い足音は町の喧騒に呑まれ、聞こえなくなった。


ルシアンは湿った苔の生える路地の角で足を緩め、

大きく息を吐き出した。

その拍子に、左脇腹の傷がずきりと痛む。



「ルシアンさん、傷を見せてください」

路地の陰で息を整えたあと、ユリアが低く言った。


クルルの背から降りてきたユリアを、

ルシアンは思わず止めかける。

「今ですか?」

「今です」

珍しく強い声だった。


マティウスが周囲を見張ったまま、短く言う。

「手短にしろ。長居はできん」


ルシアンは軽口を返そうとして、失敗した。

外套の下、裂けた服の脇から血が滲んでいる。

深手ではない。

けれど、放っておいていい傷でもなかった。


ユリアは黒真珠には触れず、荷物の中から布を取り出した。

雨と泥で汚れた手をできるだけ拭い、そっと傷口の上から布を当てる。


「痛かったら、言ってください」

「言ったら、優しくなります?」

「なります」

「じゃあ、痛いです」


ユリアが一瞬だけ目を丸くして、それから困ったように眉を下げた。

「……本当に、痛いんですね」


ルシアンは返事に詰まった。

冗談に逃げたつもりだったのに、彼女はちゃんと心配していた。


傷口に当てられた布の上から、ユリアの指先がそっと押さえられる。

その手は、かすかに震えていた。


痛みのせいではなく、ルシアンは息を呑んだ。

向けられる真っ直ぐな気遣いに、どう答えればいいのか分からなかった。

視線の行き場を探して、ただ水路の向こうへ目を逸らす。


「……大丈夫です」

ようやく出てきた言葉は、自分でも呆れるほど頼りなかった。


ユリアの真っ直ぐな視線に、ルシアンは少しだけ顔を逸らした。

こんな風に誰かに心配されるのは、久しぶりだった。


「……痛い時は、痛いと言ってくださいね」

ユリアは、傷口に当てた布を外套の内側で押さえ、

ずれないように端を軽く結んだ。


「ちゃんと後で洗って、巻き直してください」

「命令ですか?」

「お願いです」


ルシアンは少しだけ笑って、視線を逸らした。

「……それなら、聞きます」

ユリアは、その言葉にほっとしたように、小さく微笑んだ。

ルシアンが自分の願いを聞いてくれる、という安心感が、

ユリアの胸の奥で温かく広がった。


それからクルルのそばへ戻り、その温かい羽毛にそっと手を添える。

クルルが心配そうに首を下げると、ユリアは「大丈夫」と囁くように撫でた。



「一応、着いた……ってことでいいんですかね?」

ルシアンは隣のマティウスに尋ねた。


「ヴェネスの外れだ」

マティウスが、油断なく周囲の窓や屋根に目を配りながら答える。


「街の中にも帝国兵がいるかもしれん。安心するにはまだ早い」

「最近、そればっかりですね。寿命が縮みそうだ」

そう言いながら、ルシアンは外套の下、ユリアが結んだ布に

そっと触れた。


ユリアはクルルの首元に手を添えたまま、

初めて見る水の町に大きな瞳を見開いていた。


建物の間を縫うように流れる水路、その上にかかる無数の小さな橋、

行き交う小舟。

太陽の光が水面に反射し、古いレンガの壁にきらきらと

光の網目を揺らしている。


クルルも慣れない潮の匂いに落ち着かないのか、

しきりに首を動かして「くるる」と小さく鳴いていた。



一方、街道のほうでは、片膝をついた兵が

よろめきながら立ち上がっていた。

乱れた籠手の光が明滅を繰り返し、まだ完全には戻っていない。


「追うぞ!」

「待て! あの水路へ踏み込めば、娘だけでなく

町の人間まで巻き込む。隊長の命令を忘れるな」


彼は、活気あふれる町の輪郭を睨んで、唇を噛んだ。


「ヴァロ隊長に報告する。対象は黒衣の男と逃亡剣闘士に連れられ、

ヴェネスへ入った——と」



「で、これからどこへ?」

息を整えながらルシアンが聞いた。

「ファンネリア商会の養育院へ向かう」

「養育院?」

「孤児や、商会で働く者の子を預かっている場所だ。

ファンネリア商会の庇護下にある。帝国兵も、そう簡単には踏み込めん」

「そんなところに、いきなり逃げ込んでいいんですか?」

ユリアがわずかに戸惑いの表情を見せる。

「嫌なら、水路の泥水をすすって寝るか? それとも帝国兵に見つかるかだ」


「……分かりましたよ」

有無を言わさぬ極論を突きつけられ、ルシアンは呆れたように

両手を挙げた。


ユリアは反論こそしなかったが、胸元の布包みに添えた手だけは、

なかなか緩まなかった。



水路沿いの、昼なお暗い路地をいくつも抜けた。

その先に、小さな中庭を囲む石造りの建物があった。


表の蔦の絡まる壁には、見覚えのない商会の印が目立たぬように

小さく掲げられている。

中から、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。

雨上がりの澄んだ空気の中で、その声だけが、妙に明るく響いた。


「ここだ」

マティウスが、警戒を解かぬまま言った。


ヴェネスには着いた。

だが、ここが本当に羽を休められる安全な場所なのかどうかは、

まだ分からなかった。


ルシアンは、いまだ剣の柄から手を離せずにいた。


クルルの隣で、ユリアが不安げに息を吐く。


その胸元で、黒真珠だけが、ただ重く沈黙していた。

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