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-黒真珠の少女- 第9話 水門守りの鉤剣

涸れた水路は、上流へ行くほど浅くなった。


かつて水が流れていた石畳の溝には、今は砂と乾いた泥が溜まっている。

それでも、どこか奥のほうから、絶え間なく水の滴る音が聞こえていた。


ルシアンは脇腹をかばいながら、その音を辿って歩いた。

隣にはヴァロがいる。

少し後ろを、片脚に添え木を巻いたクルルが、ゆっくりとついてきた。


「黒い石に関わった娘の記録は、過去にもある」

ヴァロが、前を見たまま言った。

「最初は癒しとして扱われる。傷が治る。病が消える。村は奇跡だと喜ぶ。だが……」

「そのうちおかしくなる、ですか?」

「ああ。草が枯れる。家畜が弱る。井戸が濁る。それから、黒衣の男が現れる」

ルシアンの足が、わずかに遅れた。


「娘は神殿へ、あるいは古い遺跡へ連れて行かれる。そして、戻らない」

ヴァロは、淡々と続けた。

「見つかるのは、紐や、髪飾りや、布切れだ。本人ではない」


ルシアンは、無意識に剣の鞘へ手をやった。

結ばれた護符紐の、白い貝殻に指が触れる。

あの老夫婦の娘も、こうして連れて行かれたのだろうか。


「マティウスさんが、十年前の男なんですか?」

「同一人物とは限らん」

ヴァロは断定しなかった。

「だが、同じ系統の者だ。目的も、おそらく同じだ」

「知っていたなら、どうして止められなかったんです?」

「記録があることと、防げることは違う。黒い石は場所を選ばず現れる。帝国が、すべての村に兵を置けるわけではない」


正論だ。

それでも、ルシアンは引っ込められなかった。

「便利ですね。できなかった理由を並べるのは」

「事実を言っている。だから今、追っている」

ルシアンは、それ以上は言わなかった。



古い水門は、涸れた水路の終わりにあった。


崩れた石壁に、波とも川ともつかない文様が刻まれている。

涸れているはずの奥から、かすかな水音だけが響いていた。


「旧ネフェルティア王国の水門だ」

ヴァロが、石壁を見上げて言った。

「旧五大国の中で、レムリアを別にすれば、もっとも豊かだった国だ。ニルム大河があったからな」

「川が、ですか?」

「この土地では、水を制する者が人を制した。穀物も、町も、信仰も、すべて川に沿って育った」


ヴァロは、奥の闇を見据えた。

「水門守りの遺物があるとすれば、ここ以上にふさわしい場所はない」


クルルが片脚を引きずりながら、水門の中へ進もうとした。

ルシアンは、その首筋に手を置いて止めた。

「ここで待ってろよ」

クルルが、不満そうに喉を鳴らす。

ルシアンは、少しだけ表情を緩めた。

「クルル……ユリアさんを追うためにも、今はその脚を休ませないといけないんだ」


クルルは納得しきっていない様子だったが、ルシアンの掌に頭を押しつけ、悔しそうにその場へ伏せた。


「……そういえば、あなたはどうして、僕と一緒にここまで来ているんですか?」

「理由ならある」

「僕を信用していないから?」

「それもある」

ヴァロは続けた。


「水門守りの鉤剣が実在するなら、帝国の目録にない古代遺物だ。聖遺物監理局の人間として、確認せずに放置はできん」

「結局、帝国のものにする気ですか?」

「必要なら回収する」


ヴァロは、そこで初めてルシアンを見た。

「だが、今は違う。あの黒衣の男に対抗する手段が要る。お前が死ねば、あの娘を追う者が一人減る。私の任務にも支障が出る」


「便利ですね、任務って」

ルシアンは短く吐き捨てた。

「便利ではない。面倒だからこそ、私が来ている」

ヴァロは表情一つ変えずに返した。


肩を並べることもないまま、二人は薄暗い水門の中へ入っていった。



内部は暗く、涸れた水路と石の通路が入り組んでいた。

壁には、古い水門守りの文様が残っている。


歩くうちに、ヴァロがルシアンの腰の剣へ目をやった。

「その剣、闘技場のものか?」

「拾い物です」

「見れば分かる。刃が痩せている。手入れはされているが、何度も無理をさせた跡がある。よくそんな剣でここまで来たな」


ルシアンは、鞘に結ばれた護符紐に指を触れた。

「それでも、ここまで来ました」

ヴァロは、奥の水音に耳を澄ませた。

「なら、ここから先は足りん。水を相手にするには、別の刃が要る」


通路の先で、浅い水路の泥が、不意に盛り上がった。


蛇とも蛭ともつかない、黒く濡れた小型の魔物が、数匹這い出てくる。

「泥喰いだ」

ヴァロが、帝国制式細剣を抜いた。

「噛まれるなよ。血ではなく、やつらは熱を吸う」


ルシアンも剣を抜いたが、踏み込んだ足が泥に沈み、動きが鈍った。

その隙を狙って、泥喰いが跳ねる。


「水の上ではなく、石の縁を踏め」

ヴァロが、鋭く言った。

細剣の切っ先が、泥喰いの節を正確に突く。


無駄のない、技巧的な動きだった。

「振り切るな。戻しが遅れる」


ルシアンは反発を呑み込み、石の縁へ足を移した。

足場が安定すると、踏み込みが戻る。

振りを抑え、急所だけを狙って、泥喰いを斬り伏せた。


口だけの男ではない。

ルシアンは、横で戦うヴァロの腕を、認めざるを得なかった。



水路を進む途中、ヴァロの手にした小さな円盤が、低い音を立てた。

ヴァロが立ち止まり、壁の黒い染みや水路の底へ円盤を向けると、細い針が小さく震えた。


「それは?」

ルシアンが訊くと、ヴァロは円盤から目を離さずに答えた。

「聖遺物測定盤だ。黒真珠に近い反応を拾う」

「ここにも?」

「ああ」

ヴァロは、壁の黒い染みへ視線を向けた。「ここにも、残っている」

「結局、黒真珠って、何なんですか?」

ルシアンが訊いた。


「帝国にも、完全な答えはない」

「分からないものを、保護だの確保だの言ってたんですか?」

「分からないから確保する。分からないまま村に置けば、被害が広がる」

「……」

ヴァロの正論に、ルシアンは口を閉ざした。

「見ろ」

ヴァロは、壁の一面を示した。


そこには、胸に黒い円を抱いた人影と、その周りに膝をつく者たち、枯れた草、濁る川が刻まれていた。


「一見、黒真珠は傷を癒しているように見える。だが、無から命を生んでいるわけではない」

ヴァロは、測定盤の針を見た。

「どこかから命の流れを集め、別の場所へ偏らせている。だから、あの娘が石を離した時、草が枯れ、羽虫が落ち、水が濁った」


ルシアンは、水車小屋でユリアが語ったことを思い出した。

黒真珠を捨てた時、川辺の草が黒く枯れ、羽虫が落ちた。

拾い直したら、それ以上は止まった。


誰かを助けているのではなく、どこかから何かを奪っているのかもしれない。


あの時、彼女はそう言って怯えていた。


「帝国は、黒真珠を、命の流れを歪める核と見ている。所持者の身体に根を張るため、無理に外すことは危険だ。封印針で侵蝕を一時的に抑えることはできるが、すぐに外すことはできない」

ヴァロは、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「記録上、所持者は器に近い状態になる」

「器、ですか」

ルシアンは、低く言った。


「器って言い方、嫌いですね」

「私も、好きで使っているわけではない」


外せる、とマティウスは言った。

だが、帝国の見立てが正しければ、それは、そう簡単な話ではない。



水路を抜けると、広間に出た。

広間の奥、左右に、獣の頭を持つ石像が立っている。

手には、鉤のような槍を握っていた。

ルシアンが前を通ろうとした瞬間、石像の目に、青白い光が灯った。


「防衛機構か……来るぞ」

ヴァロが測定盤の針を見た。

石像が、軋みながら動き出す。

水門の番兵めいた石像が、鉤槍を振り下ろした。

ルシアンは半身でかわしたが、剣で石の腕を打っても、刃が滑るだけだった。


「腕を狙っても無駄だ」

ヴァロが腰から短剣を抜いた。

柄に銀の環を刻んだ、細身の短剣だった。

石兵の肩へ走る黒い筋に、その刃を突き立てる。

石兵の動きが、一拍鈍った。


「今だ」

ヴァロの言葉と同時に、ルシアンは踏み込んだ。

石そのものは砕けない。

だが、黒い筋を断たれた肩口の継ぎ目だけは、わずかに動きが鈍っている。


「継ぎ目を狙え」

ヴァロが短く言った。

ルシアンの剣が、そこを打った。

石兵の腕が軋む。

だが、崩れない。

鉤槍が、横薙ぎに迫った。


「低く入れ」

ルシアンは床すれすれまで身を沈めてかわし、そのまま石兵の懐へ踏み込んだ。

肩口に入った亀裂。

そこへ、もう一度刃を入れる。


今度は、石の継ぎ目が断ち切れた。

片腕を失った石兵が、均衡を崩し、片膝から崩れ落ちた。


「僕はあなたの部下じゃないんです。指示が多いんですよ」

素直に礼を言う気になれず、ルシアンは短く吐き捨てた。

「従ったから生きている」

ヴァロは表情一つ変えず、短い刃を鞘に収めた。


ルシアンは舌打ちしかけて、飲み込んだ。

言い返せるだけの材料が、今の自分にはなかった。



最奥に、祭壇があった。

その上に、一振りの剣が置かれている。

刃は鈍い銀色で、先端がわずかに鉤状に曲がっていた。


ルシアンが近づこうとした、その時。

水路の底から、低い音が響いた。


泥と、石と、水草が絡み合い、巨大な鰐のような影が起き上がる。

その身体には、黒真珠の残滓に似た黒い筋が、いくつも走っていた。


「……水葬の石鰐。記録にあった守護獣か」

ヴァロが、短剣を構えた。


石鰐は、ただ噛みつくだけではなかった。

ゴリュ、と岩をすり潰すような低い咆哮を上げる。

水路の水がうねり、足場を崩してくる。


「くそっ、キリがない!」

泥水が、ルシアンの足元をさらった。

石の尾が、通路の石畳を砕く。

水草のような縄が、足首へ伸びてくる。


ルシアンの剣は、黒い筋を裂いてはいた。

だが、石鰐の動きは止まらない。

決定打にはならなかった。

「深追いするな。弾かれるぞ」

「じゃあ、どうすればいいんですか!」

「核は、腹の下だ」

ヴァロが、測定盤の針を見ながら叫んだ。


ヴァロは短剣を抜き、石鰐の腹の下へ走る黒い筋へ踏み込んだ。

短い刃が、黒い筋に突き立つ。

石鰐の動きが、一瞬だけ鈍った。

その直後、尾が横薙ぎに振るわれた。

崩れた石塊が、ヴァロの脚を打つ。


「ヴァロ!」

「……気にするな、前を見ろ!」

ヴァロは膝をついた。

それでも、声は乱れなかった。


「鉤剣を取れ。水を斬ろうとするな。水を、動かしている命令を断て」

石鰐が、獲物を逃すまいと地鳴りを立てて追ってくる。


ルシアンは、石鰐の噛みつきをかいくぐり、祭壇へ走った。

鉤剣を、左手で掴む。


思っていたよりも、軽かった。

右手には、闘技場から持ち出した剣。

左手には、水門守りの鉤剣。


グォォン、と石鰐が一段と高く咆えた。

石鰐が、水草の縄をルシアンの足首へ放った。

ルシアンは、その縄を、左手の鉤剣で薙いだ。


水そのものは、消えなかった。

だが、水を従わせていた力だけが、一瞬、ほどけた。

縄が、ただの水に戻って、地に落ちる。


「止まったわけじゃない!」

ヴァロの声が飛んだ。

その言葉通り、石鰐はすぐに次の水を引き寄せた。

崩れた水路の泥が盛り上がり、再び足元をさらおうとする。


一息だけ。

鉤剣が断てるのは、それだけだった。

ならば、その一息で届かせるしかない。


ルシアンは、石畳の縁を踏んだ。

泥ではない。

水でもない。

ヴァロが先ほど言った、わずかな踏み場。


「そこだ!」

ヴァロの鋭い声。


左手の鉤剣で、絡みつこうとする水を従わせる力を断つ。

右手の剣で、腹の下の黒い筋を狙う。

ヴァロの短剣が傷を入れたその一点へ、ルシアンは一気に踏み込んだ。


硬い石を貫く、確かな手応えがあった。

水葬の石鰐は、低く軋み、泥と石へと崩れ落ちた。



石鰐が崩れ落ちたあと、水門の奥に残っていた流れは、嘘のように静まった。


鉤剣が祭壇から取られたことで、古い水門の仕掛けは、役目を終えたらしい。

行く手を塞いでいた水は引き、閉ざされていた石扉も、いつの間にか半ば開いていた。


ルシアンは、脚を負傷したヴァロに肩を貸し、崩れかけた通路を抜けた。


外の光が見えた瞬間、クルルの鳴き声が響いた。

入口の脇で、クルルが待っていた。

ルシアンの姿を見るなり、片脚をかばいながら立ち上がろうとする。


「待ってろって言ったのに」

「くるるっ」

不満そうな声だった。

ルシアンは、小さく息を吐いた。

「……分かってる。一緒に行くんだよな」

クルルが、低く力強く鳴いた。


「……忠儀なことだ」

ヴァロが短く呟いた。

「ただ頑固なだけですよ」

ルシアンはヴァロに肩を貸し、クルルを連れて、老婆の集落へ戻った。



老婆と村人が、ヴァロの脚に薬草を当て、布で固定する。


そこへ、泥に汚れた帝国兵が一人、息を切らして集落へ駆け込んできた。

「ヴァロ隊長。黒衣の男と娘は、支流の上流へ向かっています。古い水路跡に入った形跡がありました」

「神殿方面か」

「おそらく。ただ、途中で水路を崩され、追跡班はこれ以上進めません」

兵士は、悔しそうに顔を歪めた。


ヴァロは、添え木を当てた自分の脚を見下ろして、短く息を吐いた。

「この足では、もう追えん」

「帝国の将校が、任務の途中で諦めるんですか?」

ルシアンの皮肉にも、ヴァロの表情は動かない。

「諦めるのではない。役割を分けるだけだ」


ヴァロは懐から土色の小さな結晶を取り出すと、ルシアンに向かって軽く放った。

「持っていけ」

ルシアンは片手でそれを受け取る。

「これは?」

「土のファルサだ。一度だけ足場を固められる。水に足を取られた時に使え」


ルシアンは、掌の結晶を見た。

「帝国の道具を、逃亡剣闘士に渡していいんですか?」

「今は、それが最も任務の成功率を上げる」

ヴァロは、淡々と言った。

だが、その視線はルシアンを真っ直ぐに射抜いていた。

「お前が言ったのだろう。あの娘に、選ばせると」


ルシアンは、手の中の土のファルサを静かに握り込んだ。

「……借りておきます」

「貸した覚えはない。使え」

ルシアンは小さく息を吐き、何も言わずに、その結晶を慎重に袋へ収めた。


「それで、あなたは?」

ルシアンが訊いた。

「集落を守る。下流を塞ぎ、黒衣の男が戻る可能性に備える」

「動けないわりに、忙しいですね」

「役割を分けると言ったはずだ」


ヴァロはルシアンから視線を外し、部下たちへと向き直った。

すでに、冷徹な将校の顔に戻っていた。


「動ける者を集め、下流の道を封鎖しろ。集落の民には手を出すな。協力を求めるだけにしろ」

「はっ」

兵士が背筋を伸ばし、力強く頷いた。


出発の前、老婆が神殿への道を示した。

「ニルムの支流を遡れ」

皺だらけの指が、上流を指す。


「水門のさらに奥から、神殿へ続く涸れた水路が延びておる。砂に埋もれた道じゃが、向かうならそこしかない」

「なぜ知っているんです?」

「昔、娘を探した者たちが通った道じゃ」

老婆は目を伏せ、しわがれた声で静かに言った。


ルシアンは言葉を失った。

無意識に、腰の剣の柄に手を添える。

また、過去の娘と、ユリアが重なる。

ルシアンは短く息を吐き、その暗い想像を断ち切るように顔を上げた。


小屋の外で、クルルが低く鳴いた。

そして、ルシアンの前で身を沈める。

「……乗れって、言ってるのか?」

クルルは、短く鳴いた。


怪我をしている。

それでも、置いていかれる気はないらしい。

「だめだ。脚を痛めてるだろ」

「くるるっ!」

クルルは、もう一度鳴いた。

今度は、少し怒ったような声だった。


ルシアンは、短く息を吐いた。

「分かった。でも、無理はするなよ」

「くるるっ」

クルルの背に、ルシアンは慎重にまたがった。

「行こう、クルル。ユリアさんを、迎えに行く」

「くるるっ」

怪我をしていることなど忘れたように、クルルは力強く地を蹴った。


ルシアンとクルルは、神殿へ続く古い水路跡を進み始めた。



ユリアは、さらに深い水路の奥を歩かされていた。


古い水門の通路は、いつの間にか、神殿の地下へ続いていた。

壁には、川と、胸に黒い円を抱く人影が刻まれている。

その周囲には、膝をつく者たちと、枯れた草が並んでいた。


ユリアは胸元を押さえた。

黒真珠は、前よりも熱い。

「外すには、まず目覚めさせなければならない」

マティウスが、前を向いたまま言った。

「眠ったままのものを、引き剥がすことはできない」

「それは……」

ユリアは、その背中に問いかけた。

「本当に、私を助けるためですか?」

「……」

マティウスは答えなかった。


ユリアは、髪に留めた白い貝殻の髪飾りに触れた。 冷たい感触が、指先に残る。


ルシアンが、市場で買ってくれたもの。 似合うと思った、と、少し困ったように言ってくれたもの。


それだけが、まだ自分のものだと言える、たった一つのものだった。


「私は、何をさせられるんですか?」

マティウスは、振り返らずに言った。

「歩け。答えは、神殿の奥にある」

ユリアは、恐怖を呑み込んだ。


逃げ出す力は、今の彼女にはない。

けれど、何も知らないまま運命に流されることだけは、拒みたかった。


ユリアは小さく息を吸い、自らの意志で、暗い通路の奥へ足を踏み出した。

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