-黒真珠の少女- 第9話 水門守りの鉤剣
涸れた水路は、上流へ行くほど浅くなった。
かつて水が流れていた石畳の溝には、今は砂と乾いた泥が溜まっている。
それでも、どこか奥のほうから、絶え間なく水の滴る音が聞こえていた。
ルシアンは脇腹をかばいながら、その音を辿って歩いた。
隣にはヴァロがいる。
少し後ろを、片脚に添え木を巻いたクルルが、ゆっくりとついてきた。
「黒い石に関わった娘の記録は、過去にもある」
ヴァロが、前を見たまま言った。
「最初は癒しとして扱われる。傷が治る。病が消える。村は奇跡だと喜ぶ。だが……」
「そのうちおかしくなる、ですか?」
「ああ。草が枯れる。家畜が弱る。井戸が濁る。それから、黒衣の男が現れる」
ルシアンの足が、わずかに遅れた。
「娘は神殿へ、あるいは古い遺跡へ連れて行かれる。そして、戻らない」
ヴァロは、淡々と続けた。
「見つかるのは、紐や、髪飾りや、布切れだ。本人ではない」
ルシアンは、無意識に剣の鞘へ手をやった。
結ばれた護符紐の、白い貝殻に指が触れる。
あの老夫婦の娘も、こうして連れて行かれたのだろうか。
「マティウスさんが、十年前の男なんですか?」
「同一人物とは限らん」
ヴァロは断定しなかった。
「だが、同じ系統の者だ。目的も、おそらく同じだ」
「知っていたなら、どうして止められなかったんです?」
「記録があることと、防げることは違う。黒い石は場所を選ばず現れる。帝国が、すべての村に兵を置けるわけではない」
正論だ。
それでも、ルシアンは引っ込められなかった。
「便利ですね。できなかった理由を並べるのは」
「事実を言っている。だから今、追っている」
ルシアンは、それ以上は言わなかった。
◆
古い水門は、涸れた水路の終わりにあった。
崩れた石壁に、波とも川ともつかない文様が刻まれている。
涸れているはずの奥から、かすかな水音だけが響いていた。
「旧ネフェルティア王国の水門だ」
ヴァロが、石壁を見上げて言った。
「旧五大国の中で、レムリアを別にすれば、もっとも豊かだった国だ。ニルム大河があったからな」
「川が、ですか?」
「この土地では、水を制する者が人を制した。穀物も、町も、信仰も、すべて川に沿って育った」
ヴァロは、奥の闇を見据えた。
「水門守りの遺物があるとすれば、ここ以上にふさわしい場所はない」
クルルが片脚を引きずりながら、水門の中へ進もうとした。
ルシアンは、その首筋に手を置いて止めた。
「ここで待ってろよ」
クルルが、不満そうに喉を鳴らす。
ルシアンは、少しだけ表情を緩めた。
「クルル……ユリアさんを追うためにも、今はその脚を休ませないといけないんだ」
クルルは納得しきっていない様子だったが、ルシアンの掌に頭を押しつけ、悔しそうにその場へ伏せた。
「……そういえば、あなたはどうして、僕と一緒にここまで来ているんですか?」
「理由ならある」
「僕を信用していないから?」
「それもある」
ヴァロは続けた。
「水門守りの鉤剣が実在するなら、帝国の目録にない古代遺物だ。聖遺物監理局の人間として、確認せずに放置はできん」
「結局、帝国のものにする気ですか?」
「必要なら回収する」
ヴァロは、そこで初めてルシアンを見た。
「だが、今は違う。あの黒衣の男に対抗する手段が要る。お前が死ねば、あの娘を追う者が一人減る。私の任務にも支障が出る」
「便利ですね、任務って」
ルシアンは短く吐き捨てた。
「便利ではない。面倒だからこそ、私が来ている」
ヴァロは表情一つ変えずに返した。
肩を並べることもないまま、二人は薄暗い水門の中へ入っていった。
◆
内部は暗く、涸れた水路と石の通路が入り組んでいた。
壁には、古い水門守りの文様が残っている。
歩くうちに、ヴァロがルシアンの腰の剣へ目をやった。
「その剣、闘技場のものか?」
「拾い物です」
「見れば分かる。刃が痩せている。手入れはされているが、何度も無理をさせた跡がある。よくそんな剣でここまで来たな」
ルシアンは、鞘に結ばれた護符紐に指を触れた。
「それでも、ここまで来ました」
ヴァロは、奥の水音に耳を澄ませた。
「なら、ここから先は足りん。水を相手にするには、別の刃が要る」
通路の先で、浅い水路の泥が、不意に盛り上がった。
蛇とも蛭ともつかない、黒く濡れた小型の魔物が、数匹這い出てくる。
「泥喰いだ」
ヴァロが、帝国制式細剣を抜いた。
「噛まれるなよ。血ではなく、やつらは熱を吸う」
ルシアンも剣を抜いたが、踏み込んだ足が泥に沈み、動きが鈍った。
その隙を狙って、泥喰いが跳ねる。
「水の上ではなく、石の縁を踏め」
ヴァロが、鋭く言った。
細剣の切っ先が、泥喰いの節を正確に突く。
無駄のない、技巧的な動きだった。
「振り切るな。戻しが遅れる」
ルシアンは反発を呑み込み、石の縁へ足を移した。
足場が安定すると、踏み込みが戻る。
振りを抑え、急所だけを狙って、泥喰いを斬り伏せた。
口だけの男ではない。
ルシアンは、横で戦うヴァロの腕を、認めざるを得なかった。
◆
水路を進む途中、ヴァロの手にした小さな円盤が、低い音を立てた。
ヴァロが立ち止まり、壁の黒い染みや水路の底へ円盤を向けると、細い針が小さく震えた。
「それは?」
ルシアンが訊くと、ヴァロは円盤から目を離さずに答えた。
「聖遺物測定盤だ。黒真珠に近い反応を拾う」
「ここにも?」
「ああ」
ヴァロは、壁の黒い染みへ視線を向けた。「ここにも、残っている」
「結局、黒真珠って、何なんですか?」
ルシアンが訊いた。
「帝国にも、完全な答えはない」
「分からないものを、保護だの確保だの言ってたんですか?」
「分からないから確保する。分からないまま村に置けば、被害が広がる」
「……」
ヴァロの正論に、ルシアンは口を閉ざした。
「見ろ」
ヴァロは、壁の一面を示した。
そこには、胸に黒い円を抱いた人影と、その周りに膝をつく者たち、枯れた草、濁る川が刻まれていた。
「一見、黒真珠は傷を癒しているように見える。だが、無から命を生んでいるわけではない」
ヴァロは、測定盤の針を見た。
「どこかから命の流れを集め、別の場所へ偏らせている。だから、あの娘が石を離した時、草が枯れ、羽虫が落ち、水が濁った」
ルシアンは、水車小屋でユリアが語ったことを思い出した。
黒真珠を捨てた時、川辺の草が黒く枯れ、羽虫が落ちた。
拾い直したら、それ以上は止まった。
誰かを助けているのではなく、どこかから何かを奪っているのかもしれない。
あの時、彼女はそう言って怯えていた。
「帝国は、黒真珠を、命の流れを歪める核と見ている。所持者の身体に根を張るため、無理に外すことは危険だ。封印針で侵蝕を一時的に抑えることはできるが、すぐに外すことはできない」
ヴァロは、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「記録上、所持者は器に近い状態になる」
「器、ですか」
ルシアンは、低く言った。
「器って言い方、嫌いですね」
「私も、好きで使っているわけではない」
外せる、とマティウスは言った。
だが、帝国の見立てが正しければ、それは、そう簡単な話ではない。
◆
水路を抜けると、広間に出た。
広間の奥、左右に、獣の頭を持つ石像が立っている。
手には、鉤のような槍を握っていた。
ルシアンが前を通ろうとした瞬間、石像の目に、青白い光が灯った。
「防衛機構か……来るぞ」
ヴァロが測定盤の針を見た。
石像が、軋みながら動き出す。
水門の番兵めいた石像が、鉤槍を振り下ろした。
ルシアンは半身でかわしたが、剣で石の腕を打っても、刃が滑るだけだった。
「腕を狙っても無駄だ」
ヴァロが腰から短剣を抜いた。
柄に銀の環を刻んだ、細身の短剣だった。
石兵の肩へ走る黒い筋に、その刃を突き立てる。
石兵の動きが、一拍鈍った。
「今だ」
ヴァロの言葉と同時に、ルシアンは踏み込んだ。
石そのものは砕けない。
だが、黒い筋を断たれた肩口の継ぎ目だけは、わずかに動きが鈍っている。
「継ぎ目を狙え」
ヴァロが短く言った。
ルシアンの剣が、そこを打った。
石兵の腕が軋む。
だが、崩れない。
鉤槍が、横薙ぎに迫った。
「低く入れ」
ルシアンは床すれすれまで身を沈めてかわし、そのまま石兵の懐へ踏み込んだ。
肩口に入った亀裂。
そこへ、もう一度刃を入れる。
今度は、石の継ぎ目が断ち切れた。
片腕を失った石兵が、均衡を崩し、片膝から崩れ落ちた。
「僕はあなたの部下じゃないんです。指示が多いんですよ」
素直に礼を言う気になれず、ルシアンは短く吐き捨てた。
「従ったから生きている」
ヴァロは表情一つ変えず、短い刃を鞘に収めた。
ルシアンは舌打ちしかけて、飲み込んだ。
言い返せるだけの材料が、今の自分にはなかった。
◆
最奥に、祭壇があった。
その上に、一振りの剣が置かれている。
刃は鈍い銀色で、先端がわずかに鉤状に曲がっていた。
ルシアンが近づこうとした、その時。
水路の底から、低い音が響いた。
泥と、石と、水草が絡み合い、巨大な鰐のような影が起き上がる。
その身体には、黒真珠の残滓に似た黒い筋が、いくつも走っていた。
「……水葬の石鰐。記録にあった守護獣か」
ヴァロが、短剣を構えた。
石鰐は、ただ噛みつくだけではなかった。
ゴリュ、と岩をすり潰すような低い咆哮を上げる。
水路の水がうねり、足場を崩してくる。
「くそっ、キリがない!」
泥水が、ルシアンの足元をさらった。
石の尾が、通路の石畳を砕く。
水草のような縄が、足首へ伸びてくる。
ルシアンの剣は、黒い筋を裂いてはいた。
だが、石鰐の動きは止まらない。
決定打にはならなかった。
「深追いするな。弾かれるぞ」
「じゃあ、どうすればいいんですか!」
「核は、腹の下だ」
ヴァロが、測定盤の針を見ながら叫んだ。
ヴァロは短剣を抜き、石鰐の腹の下へ走る黒い筋へ踏み込んだ。
短い刃が、黒い筋に突き立つ。
石鰐の動きが、一瞬だけ鈍った。
その直後、尾が横薙ぎに振るわれた。
崩れた石塊が、ヴァロの脚を打つ。
「ヴァロ!」
「……気にするな、前を見ろ!」
ヴァロは膝をついた。
それでも、声は乱れなかった。
「鉤剣を取れ。水を斬ろうとするな。水を、動かしている命令を断て」
石鰐が、獲物を逃すまいと地鳴りを立てて追ってくる。
ルシアンは、石鰐の噛みつきをかいくぐり、祭壇へ走った。
鉤剣を、左手で掴む。
思っていたよりも、軽かった。
右手には、闘技場から持ち出した剣。
左手には、水門守りの鉤剣。
グォォン、と石鰐が一段と高く咆えた。
石鰐が、水草の縄をルシアンの足首へ放った。
ルシアンは、その縄を、左手の鉤剣で薙いだ。
水そのものは、消えなかった。
だが、水を従わせていた力だけが、一瞬、ほどけた。
縄が、ただの水に戻って、地に落ちる。
「止まったわけじゃない!」
ヴァロの声が飛んだ。
その言葉通り、石鰐はすぐに次の水を引き寄せた。
崩れた水路の泥が盛り上がり、再び足元をさらおうとする。
一息だけ。
鉤剣が断てるのは、それだけだった。
ならば、その一息で届かせるしかない。
ルシアンは、石畳の縁を踏んだ。
泥ではない。
水でもない。
ヴァロが先ほど言った、わずかな踏み場。
「そこだ!」
ヴァロの鋭い声。
左手の鉤剣で、絡みつこうとする水を従わせる力を断つ。
右手の剣で、腹の下の黒い筋を狙う。
ヴァロの短剣が傷を入れたその一点へ、ルシアンは一気に踏み込んだ。
硬い石を貫く、確かな手応えがあった。
水葬の石鰐は、低く軋み、泥と石へと崩れ落ちた。
◆
石鰐が崩れ落ちたあと、水門の奥に残っていた流れは、嘘のように静まった。
鉤剣が祭壇から取られたことで、古い水門の仕掛けは、役目を終えたらしい。
行く手を塞いでいた水は引き、閉ざされていた石扉も、いつの間にか半ば開いていた。
ルシアンは、脚を負傷したヴァロに肩を貸し、崩れかけた通路を抜けた。
外の光が見えた瞬間、クルルの鳴き声が響いた。
入口の脇で、クルルが待っていた。
ルシアンの姿を見るなり、片脚をかばいながら立ち上がろうとする。
「待ってろって言ったのに」
「くるるっ」
不満そうな声だった。
ルシアンは、小さく息を吐いた。
「……分かってる。一緒に行くんだよな」
クルルが、低く力強く鳴いた。
「……忠儀なことだ」
ヴァロが短く呟いた。
「ただ頑固なだけですよ」
ルシアンはヴァロに肩を貸し、クルルを連れて、老婆の集落へ戻った。
◇
老婆と村人が、ヴァロの脚に薬草を当て、布で固定する。
そこへ、泥に汚れた帝国兵が一人、息を切らして集落へ駆け込んできた。
「ヴァロ隊長。黒衣の男と娘は、支流の上流へ向かっています。古い水路跡に入った形跡がありました」
「神殿方面か」
「おそらく。ただ、途中で水路を崩され、追跡班はこれ以上進めません」
兵士は、悔しそうに顔を歪めた。
ヴァロは、添え木を当てた自分の脚を見下ろして、短く息を吐いた。
「この足では、もう追えん」
「帝国の将校が、任務の途中で諦めるんですか?」
ルシアンの皮肉にも、ヴァロの表情は動かない。
「諦めるのではない。役割を分けるだけだ」
ヴァロは懐から土色の小さな結晶を取り出すと、ルシアンに向かって軽く放った。
「持っていけ」
ルシアンは片手でそれを受け取る。
「これは?」
「土のファルサだ。一度だけ足場を固められる。水に足を取られた時に使え」
ルシアンは、掌の結晶を見た。
「帝国の道具を、逃亡剣闘士に渡していいんですか?」
「今は、それが最も任務の成功率を上げる」
ヴァロは、淡々と言った。
だが、その視線はルシアンを真っ直ぐに射抜いていた。
「お前が言ったのだろう。あの娘に、選ばせると」
ルシアンは、手の中の土のファルサを静かに握り込んだ。
「……借りておきます」
「貸した覚えはない。使え」
ルシアンは小さく息を吐き、何も言わずに、その結晶を慎重に袋へ収めた。
「それで、あなたは?」
ルシアンが訊いた。
「集落を守る。下流を塞ぎ、黒衣の男が戻る可能性に備える」
「動けないわりに、忙しいですね」
「役割を分けると言ったはずだ」
ヴァロはルシアンから視線を外し、部下たちへと向き直った。
すでに、冷徹な将校の顔に戻っていた。
「動ける者を集め、下流の道を封鎖しろ。集落の民には手を出すな。協力を求めるだけにしろ」
「はっ」
兵士が背筋を伸ばし、力強く頷いた。
出発の前、老婆が神殿への道を示した。
「ニルムの支流を遡れ」
皺だらけの指が、上流を指す。
「水門のさらに奥から、神殿へ続く涸れた水路が延びておる。砂に埋もれた道じゃが、向かうならそこしかない」
「なぜ知っているんです?」
「昔、娘を探した者たちが通った道じゃ」
老婆は目を伏せ、しわがれた声で静かに言った。
ルシアンは言葉を失った。
無意識に、腰の剣の柄に手を添える。
また、過去の娘と、ユリアが重なる。
ルシアンは短く息を吐き、その暗い想像を断ち切るように顔を上げた。
小屋の外で、クルルが低く鳴いた。
そして、ルシアンの前で身を沈める。
「……乗れって、言ってるのか?」
クルルは、短く鳴いた。
怪我をしている。
それでも、置いていかれる気はないらしい。
「だめだ。脚を痛めてるだろ」
「くるるっ!」
クルルは、もう一度鳴いた。
今度は、少し怒ったような声だった。
ルシアンは、短く息を吐いた。
「分かった。でも、無理はするなよ」
「くるるっ」
クルルの背に、ルシアンは慎重にまたがった。
「行こう、クルル。ユリアさんを、迎えに行く」
「くるるっ」
怪我をしていることなど忘れたように、クルルは力強く地を蹴った。
ルシアンとクルルは、神殿へ続く古い水路跡を進み始めた。
◆
ユリアは、さらに深い水路の奥を歩かされていた。
古い水門の通路は、いつの間にか、神殿の地下へ続いていた。
壁には、川と、胸に黒い円を抱く人影が刻まれている。
その周囲には、膝をつく者たちと、枯れた草が並んでいた。
ユリアは胸元を押さえた。
黒真珠は、前よりも熱い。
「外すには、まず目覚めさせなければならない」
マティウスが、前を向いたまま言った。
「眠ったままのものを、引き剥がすことはできない」
「それは……」
ユリアは、その背中に問いかけた。
「本当に、私を助けるためですか?」
「……」
マティウスは答えなかった。
ユリアは、髪に留めた白い貝殻の髪飾りに触れた。 冷たい感触が、指先に残る。
ルシアンが、市場で買ってくれたもの。 似合うと思った、と、少し困ったように言ってくれたもの。
それだけが、まだ自分のものだと言える、たった一つのものだった。
「私は、何をさせられるんですか?」
マティウスは、振り返らずに言った。
「歩け。答えは、神殿の奥にある」
ユリアは、恐怖を呑み込んだ。
逃げ出す力は、今の彼女にはない。
けれど、何も知らないまま運命に流されることだけは、拒みたかった。
ユリアは小さく息を吸い、自らの意志で、暗い通路の奥へ足を踏み出した。




