表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/14

-黒真珠の少女- 第10話 月のない夜と、火の番人

ユリアは、マティウスに連れられて神殿の奥へ進んでいた。


壁には、川と、胸に黒い円を抱く人影が刻まれている。

その周囲には、膝をつく者たちと、枯れた草、濁った水が並んでいた。


胸元の黒真珠が、ひどく熱を帯びている。

服の上からでも分かるほど、どくん、どくんと脈打っていた。


マティウスの足が止まった。

行き止まりではない。

神殿の奥、巨大な水門が口を閉ざしている。

「今すぐでは、ないんですか?」

ユリアが問うと、マティウスは振り返らずに答えた。

「黒真珠は、いつでも目覚めるわけではない」

重々しい声が、石の壁に反響する。

「月のない夜、神殿の奥の水門が開く。その時だけ、眠っていたものを呼び起こせる」

ユリアは、息を呑んだ。

「それが……今夜なんですか」

「そうだ」


マティウスはかつて、黒真珠を外すには一度目覚めさせなければならないと言った。

だが、今の彼の横顔には、ユリアを助けようとする色は見えない。


彼は外そうとしているのではない。完全に開かせようとしているのだ。

ユリアはその事実に、薄々と気づき始めていた。

恐怖のなかで、ユリアはそっと髪飾りに触れた。


ルシアンが買ってくれた、白い貝殻。

どれほど黒い石に縛られても、それだけは絶対に手放したくなかった。




ルシアンは、クルルの背に乗り、神殿へ続く涸れた水路跡を進んでいた。

クルルは脚を痛めているため、全力では走れない。

それでも、弱音を吐くことなく力強く地を蹴っている。

「無理するなよ」

「くるるっ」

「急ぎたいのは、僕も同じだけどさ」

ルシアンは、その首筋にそっと手を添えた。


道には、黒衣の男たちが通った痕跡が残っていた。

黒く濡れた染みや、崩された水路の石材。

だが、途中からルシアンは違和感を覚えた。


濡れた跡だけではない。焼け焦げた古い葦や、熱で黒く変色した石が転がっている。

マティウスは水を操った。

だが、ここに残っているのは火の跡だ。

マティウスとは別の者がいる。

ルシアンが警戒を強めた時、焦げた匂いとともに、崩れた石材の陰から呻き声が聞こえた。


倒れていたのは、帝国兵だった。

ヴァロの追跡班の一人だ。

火に巻かれたのか、鎧は黒く焦げ、脚が重い石材の下敷きになっている。

まだ生きている。

兵士はルシアンを見ると、苦しげに腰の剣へ手を伸ばそうとした。だが、力が入らずに手が滑り落ちる。


ルシアンは一瞬、足を止めた。

相手は帝国兵だ。

自分を捕まえる側の人間である。

この兵士を助ければ、時間を失う。

その間にも、ユリアは神殿の奥へ連れて行かれている。


「……僕は、帝国兵を助けに来たわけじゃない」

ルシアンが呟いた時、クルルが兵士のそばで低く鳴いた。

その声に、ルシアンの脳裏に、いつかのユリアの言葉が蘇る。


『でも……まだ、生きてます』

魔獣に襲われていたクルルを見捨てられなかった、あの日のユリアの顔。


ルシアンは舌打ちするように息を吐いた。

「分かってる」

ルシアンはクルルの背から飛び降りた。

「……ユリアさんなら、見捨てるなって言う」


ルシアンは兵士の脚を押し潰す石材の隙間に、鉤剣の先を差し込んだ。

柄に体重をかけ、てこのように押し上げる。

クルルも、石材が戻らないように体を押し当てた。

わずかに浮いた隙間から、ルシアンは兵士の体を引きずり出した。

兵士は、荒い息を吐きながら情報を絞り出した。


「黒衣の男が……神殿への道を焼いている」

「水ではない。火だ」

「名は、ラウグス……火のファルサを使う」

「ヴァロ隊長に……」

ルシアンは、その言葉を遮った。

「ヴァロさんは、今は動けません」

ルシアンは立ち上がり、前を見据える。

「報告なら、生きて帰って自分でしてください」

ルシアンは兵士を安全な岩陰へ運び、再びクルルの背に戻った。


時間を失った焦りはある。

だが、助けたこと自体に後悔はなかった。



神殿へ続く水路跡の手前。

乾いた葦と崩れた石壁の間に、黒衣の男が立っていた。

マティウスとは違う、どこか荒々しく好戦的な空気をまとっている。


「貴様がルシアンか」

男の右腕には、赤く光る結晶をはめ込んだ腕輪があった。

「マティウスが警戒しろと言うから、どれほどの男かと思えば……ただの若造だな」

男は、ルシアンを値踏みするように見た。

「俺はラウグス。薪にするには、ちょうどよさそうだ」


ルシアンはクルルから降り、腰の剣を抜いた。

「自己紹介どうも」

ルシアンは剣先を向ける。

「それで、そこをどいてくれる気は?」

「あると思うか?」


ラウグスが右腕を振るった。

赤い結晶が輝き、涸れた水路跡に残っていた乾いた葦や、古い泥が一気に燃え上がる。

ごうっ、と熱風が吹き抜け、炎の壁が進路を塞いだ。


ルシアンは左手に、水門守りの鉤剣を構える。

ラウグスは口元を歪めた。

「その鉤剣は、水門守りのものだろう」

ラウグスが嘲る。

「火が斬れると思ったか」

「思ってませんよ」

ルシアンは冷静に足場を探る。

「でも、あなたを斬ることはできそうだ」


ラウグスはさらに右腕を振り、炎の舌を這わせた。

火はルシアンではなく、後ろにいるクルルの痛めた脚を狙ってくる。

「くっ!」

ルシアンが怒りを露わにするが、無理に突っ込めば炎に巻かれる。

ラウグスは、ルシアンの焦りを見透かしていた。

「敵を助けて遅れるとはな」

ラウグスが、炎の向こうから笑う。

「逃亡剣闘士にしては、ずいぶん甘い」

「僕も、そう思いますよ」

ルシアンは剣を強く握り直した。

「でも、見捨てたら、あの人に顔向けできない」

ラウグスは鼻を鳴らし、さらに火力を上げた。


炎を前にして、ルシアンが見ていたのはラウグスの足元だった。


ラウグスが火を放つたび、水路跡の乾いた泥が、パチッ、と小さく爆ぜる。

続いて、ピキッ、と細い亀裂が走った。

下層に残っていた水分が急激に熱され、地面を脆くしているのだ。

だが、右腕の炎に頼りきるラウグスの目は、自分の足元が崩れかけていることを捉えていなかった。


ルシアンは、後ろのクルルに向かって叫んだ。

「クルル、砂を!」

クルルは痛む脚をかばいながら、大きな翼と脚を使って、乾いた砂を勢いよく跳ね上げた。


砂ぼこりが火の粉と混ざり合い、ラウグスの視界を完全に塞ぐ。

「小賢しい真似を!」

ラウグスが腕を振るった瞬間、ルシアンは炎を避け、崩れた石畳の縁だけを踏んで一気に接近した。

ルシアンは左手の鉤剣を、ラウグスの頭上に倒れかけていた古い石柱の鎖へ引っ掛ける。

そのまま、体重を乗せて強引に引き倒した。

「なっ!?」

降ってくる石材を避けようと、ラウグスが大きく後ろへ飛び退く。

だが、そこは彼自身の炎で極限まで焼かれ、脆く割れた泥の地面だった。

バキッ、と嫌な音がして、ラウグスの足元が深く沈み込む。

体勢が崩れたその一瞬。

ルシアンは迷わず踏み込んだ。

右手の剣が一閃する。

狙いは体ではない。

右腕の腕輪だ。

硬い金属音とともに、火のファルサが腕輪から叩き落とされた。


赤い結晶が地面に転がった瞬間、暴れ狂っていた炎が嘘のように消え去る。

ラウグスが慌てて立ち上がろうとした時には、すでにルシアンの剣がその首元に突きつけられていた。


「そこまでです」

「……っ!」

ラウグスは悔しげに顔を歪めたが、やがて不敵に笑った。

「急いでも無駄だ」

「何?」

「月のない夜が来れば、黒真珠は開く」

ルシアンの眉がピクリと動いた。

「月のない夜?」

ラウグスは、自分が余計なことを言ったと一瞬顔を顰めたが、開き直ったように、不敵な笑みを深めた。

「空を見てみろ」

ラウグスが、顎で空をしゃくる。

「もう日が落ちる。知ったところで、お前が着く頃にはすべて終わっている」


ルシアンは静かに剣を引いた。

火のファルサを失ったこの男に、もう足止めの力はない。

「なら、まだ間に合うってことですね」

ルシアンは背を向けた。

「待て。とどめを刺さないのか?」

ラウグスの膝は、割れた泥に深く沈んでいた。

右腕からは血が落ちている。

火のファルサを失ったこの男に、もう足止めの力はない。

「あなたが言ったでしょう?」

ルシアンは足を止め、肩越しに振り返った。

「逃亡剣闘士にしては、ずいぶん甘い……って」


焼けた石畳の上に、赤い結晶が転がっている。

表面にはひびが入り、内側の赤い光も弱々しく明滅していた。

ルシアンはそれを拾い上げる。

「……まだ使えるのか、これ」

ファルサの奥には、かすかな熱が残っていた。

完全な状態ではないが、一度くらいなら火を起こせるかもしれない。


ルシアンは少し迷ったあと、それを腰の袋へ収めた。

ルシアンはクルルのもとへ戻る。

「行こう、クルル」

ルシアンは空を見上げた。

「今夜までに、ユリアさんのところへ行く」



神殿の奥で、黒真珠の反応がいっそう強まった。


ユリアの胸元で、どくん、どくん、と激しく脈打つ。

マティウスは、水門の奥にある祭壇をじっと見つめていた。

祭壇には、黒い円を囲むような古い文字がびっしりと刻まれている。


ユリアは、震える声で聞いた。

「黒真珠を外すために、ここまで来たんですよね?」

彼女は一歩、マティウスから距離を取る。

「でも、あなたは……外そうとしているようには見えません」

マティウスは沈黙した。

その沈黙こそが、明確な答えだった。

ユリアは髪飾りに触れる。

恐怖に押しつぶされそうな心を、その冷たい貝殻の感触だけが繋ぎ止めている。


「月のない夜が満ちれば、道は開く」

マティウスが、静かに言った。

「その時、お前も理解する」

ユリアは唇を噛んだ。

理解するだけではいけない。

誰かに決められた道ではなく、自分で選ばなければならないのだ。



ルシアンとクルルは、ついに神殿の外縁へ到着した。

神殿は、巨大な岩と砂の奥に沈むように建っていた。

入口の周囲には、古い水路が何本も集まり、黒真珠の侵蝕を示す黒い染みがべったりと残っている。

空はすでに暮れかけていた。

見上げても、月はない。


クルルは激しく息を切らしていた。

痛めた脚が震え、もう立っているのも限界に近い。

ルシアンは背から下り、クルルの首を優しく撫でた。

「ここまででいい」

ルシアンは神殿を見据える。

「ここから先は、僕が行く」

クルルが、不安そうに低く鳴く。

だが、ルシアンは静かに首を振った。

「今度は、本当に待っててくれ」

ルシアンはクルルの目を真っ直ぐに見た。

「ユリアさんを連れて戻るには、君が必要なんだ」

クルルはしばらくルシアンを見つめ返していたが、やがて納得したように小さく鳴き、その場に静かに伏せた。


ルシアンは、右手に闘技場から持ち出した剣を握る。

左手には、水門守りの鉤剣。

腰の袋には、ヴァロから受け取った土のファルサと、ラウグスから回収した壊れかけの火のファルサ。


神殿の奥から、低く重い鼓動が響いてくる。


どくん。


それは黒真珠の音だった。

そして同時に、ユリアの胸の奥から響いているようにも聞こえた。


ルシアンは両手の剣を強く握り直した。「待っててください、ユリアさん」

そして、暗い神殿の入口へ足を踏み出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ