-黒真珠の少女- 第10話 月のない夜と、火の番人
ユリアは、マティウスに連れられて神殿の奥へ進んでいた。
壁には、川と、胸に黒い円を抱く人影が刻まれている。
その周囲には、膝をつく者たちと、枯れた草、濁った水が並んでいた。
胸元の黒真珠が、ひどく熱を帯びている。
服の上からでも分かるほど、どくん、どくんと脈打っていた。
マティウスの足が止まった。
行き止まりではない。
神殿の奥、巨大な水門が口を閉ざしている。
「今すぐでは、ないんですか?」
ユリアが問うと、マティウスは振り返らずに答えた。
「黒真珠は、いつでも目覚めるわけではない」
重々しい声が、石の壁に反響する。
「月のない夜、神殿の奥の水門が開く。その時だけ、眠っていたものを呼び起こせる」
ユリアは、息を呑んだ。
「それが……今夜なんですか」
「そうだ」
マティウスはかつて、黒真珠を外すには一度目覚めさせなければならないと言った。
だが、今の彼の横顔には、ユリアを助けようとする色は見えない。
彼は外そうとしているのではない。完全に開かせようとしているのだ。
ユリアはその事実に、薄々と気づき始めていた。
恐怖のなかで、ユリアはそっと髪飾りに触れた。
ルシアンが買ってくれた、白い貝殻。
どれほど黒い石に縛られても、それだけは絶対に手放したくなかった。
◆
ルシアンは、クルルの背に乗り、神殿へ続く涸れた水路跡を進んでいた。
クルルは脚を痛めているため、全力では走れない。
それでも、弱音を吐くことなく力強く地を蹴っている。
「無理するなよ」
「くるるっ」
「急ぎたいのは、僕も同じだけどさ」
ルシアンは、その首筋にそっと手を添えた。
道には、黒衣の男たちが通った痕跡が残っていた。
黒く濡れた染みや、崩された水路の石材。
だが、途中からルシアンは違和感を覚えた。
濡れた跡だけではない。焼け焦げた古い葦や、熱で黒く変色した石が転がっている。
マティウスは水を操った。
だが、ここに残っているのは火の跡だ。
マティウスとは別の者がいる。
ルシアンが警戒を強めた時、焦げた匂いとともに、崩れた石材の陰から呻き声が聞こえた。
倒れていたのは、帝国兵だった。
ヴァロの追跡班の一人だ。
火に巻かれたのか、鎧は黒く焦げ、脚が重い石材の下敷きになっている。
まだ生きている。
兵士はルシアンを見ると、苦しげに腰の剣へ手を伸ばそうとした。だが、力が入らずに手が滑り落ちる。
ルシアンは一瞬、足を止めた。
相手は帝国兵だ。
自分を捕まえる側の人間である。
この兵士を助ければ、時間を失う。
その間にも、ユリアは神殿の奥へ連れて行かれている。
「……僕は、帝国兵を助けに来たわけじゃない」
ルシアンが呟いた時、クルルが兵士のそばで低く鳴いた。
その声に、ルシアンの脳裏に、いつかのユリアの言葉が蘇る。
『でも……まだ、生きてます』
魔獣に襲われていたクルルを見捨てられなかった、あの日のユリアの顔。
ルシアンは舌打ちするように息を吐いた。
「分かってる」
ルシアンはクルルの背から飛び降りた。
「……ユリアさんなら、見捨てるなって言う」
ルシアンは兵士の脚を押し潰す石材の隙間に、鉤剣の先を差し込んだ。
柄に体重をかけ、てこのように押し上げる。
クルルも、石材が戻らないように体を押し当てた。
わずかに浮いた隙間から、ルシアンは兵士の体を引きずり出した。
兵士は、荒い息を吐きながら情報を絞り出した。
「黒衣の男が……神殿への道を焼いている」
「水ではない。火だ」
「名は、ラウグス……火のファルサを使う」
「ヴァロ隊長に……」
ルシアンは、その言葉を遮った。
「ヴァロさんは、今は動けません」
ルシアンは立ち上がり、前を見据える。
「報告なら、生きて帰って自分でしてください」
ルシアンは兵士を安全な岩陰へ運び、再びクルルの背に戻った。
時間を失った焦りはある。
だが、助けたこと自体に後悔はなかった。
◆
神殿へ続く水路跡の手前。
乾いた葦と崩れた石壁の間に、黒衣の男が立っていた。
マティウスとは違う、どこか荒々しく好戦的な空気をまとっている。
「貴様がルシアンか」
男の右腕には、赤く光る結晶をはめ込んだ腕輪があった。
「マティウスが警戒しろと言うから、どれほどの男かと思えば……ただの若造だな」
男は、ルシアンを値踏みするように見た。
「俺はラウグス。薪にするには、ちょうどよさそうだ」
ルシアンはクルルから降り、腰の剣を抜いた。
「自己紹介どうも」
ルシアンは剣先を向ける。
「それで、そこをどいてくれる気は?」
「あると思うか?」
ラウグスが右腕を振るった。
赤い結晶が輝き、涸れた水路跡に残っていた乾いた葦や、古い泥が一気に燃え上がる。
ごうっ、と熱風が吹き抜け、炎の壁が進路を塞いだ。
ルシアンは左手に、水門守りの鉤剣を構える。
ラウグスは口元を歪めた。
「その鉤剣は、水門守りのものだろう」
ラウグスが嘲る。
「火が斬れると思ったか」
「思ってませんよ」
ルシアンは冷静に足場を探る。
「でも、あなたを斬ることはできそうだ」
ラウグスはさらに右腕を振り、炎の舌を這わせた。
火はルシアンではなく、後ろにいるクルルの痛めた脚を狙ってくる。
「くっ!」
ルシアンが怒りを露わにするが、無理に突っ込めば炎に巻かれる。
ラウグスは、ルシアンの焦りを見透かしていた。
「敵を助けて遅れるとはな」
ラウグスが、炎の向こうから笑う。
「逃亡剣闘士にしては、ずいぶん甘い」
「僕も、そう思いますよ」
ルシアンは剣を強く握り直した。
「でも、見捨てたら、あの人に顔向けできない」
ラウグスは鼻を鳴らし、さらに火力を上げた。
炎を前にして、ルシアンが見ていたのはラウグスの足元だった。
ラウグスが火を放つたび、水路跡の乾いた泥が、パチッ、と小さく爆ぜる。
続いて、ピキッ、と細い亀裂が走った。
下層に残っていた水分が急激に熱され、地面を脆くしているのだ。
だが、右腕の炎に頼りきるラウグスの目は、自分の足元が崩れかけていることを捉えていなかった。
ルシアンは、後ろのクルルに向かって叫んだ。
「クルル、砂を!」
クルルは痛む脚をかばいながら、大きな翼と脚を使って、乾いた砂を勢いよく跳ね上げた。
砂ぼこりが火の粉と混ざり合い、ラウグスの視界を完全に塞ぐ。
「小賢しい真似を!」
ラウグスが腕を振るった瞬間、ルシアンは炎を避け、崩れた石畳の縁だけを踏んで一気に接近した。
ルシアンは左手の鉤剣を、ラウグスの頭上に倒れかけていた古い石柱の鎖へ引っ掛ける。
そのまま、体重を乗せて強引に引き倒した。
「なっ!?」
降ってくる石材を避けようと、ラウグスが大きく後ろへ飛び退く。
だが、そこは彼自身の炎で極限まで焼かれ、脆く割れた泥の地面だった。
バキッ、と嫌な音がして、ラウグスの足元が深く沈み込む。
体勢が崩れたその一瞬。
ルシアンは迷わず踏み込んだ。
右手の剣が一閃する。
狙いは体ではない。
右腕の腕輪だ。
硬い金属音とともに、火のファルサが腕輪から叩き落とされた。
赤い結晶が地面に転がった瞬間、暴れ狂っていた炎が嘘のように消え去る。
ラウグスが慌てて立ち上がろうとした時には、すでにルシアンの剣がその首元に突きつけられていた。
「そこまでです」
「……っ!」
ラウグスは悔しげに顔を歪めたが、やがて不敵に笑った。
「急いでも無駄だ」
「何?」
「月のない夜が来れば、黒真珠は開く」
ルシアンの眉がピクリと動いた。
「月のない夜?」
ラウグスは、自分が余計なことを言ったと一瞬顔を顰めたが、開き直ったように、不敵な笑みを深めた。
「空を見てみろ」
ラウグスが、顎で空をしゃくる。
「もう日が落ちる。知ったところで、お前が着く頃にはすべて終わっている」
ルシアンは静かに剣を引いた。
火のファルサを失ったこの男に、もう足止めの力はない。
「なら、まだ間に合うってことですね」
ルシアンは背を向けた。
「待て。とどめを刺さないのか?」
ラウグスの膝は、割れた泥に深く沈んでいた。
右腕からは血が落ちている。
火のファルサを失ったこの男に、もう足止めの力はない。
「あなたが言ったでしょう?」
ルシアンは足を止め、肩越しに振り返った。
「逃亡剣闘士にしては、ずいぶん甘い……って」
焼けた石畳の上に、赤い結晶が転がっている。
表面にはひびが入り、内側の赤い光も弱々しく明滅していた。
ルシアンはそれを拾い上げる。
「……まだ使えるのか、これ」
ファルサの奥には、かすかな熱が残っていた。
完全な状態ではないが、一度くらいなら火を起こせるかもしれない。
ルシアンは少し迷ったあと、それを腰の袋へ収めた。
ルシアンはクルルのもとへ戻る。
「行こう、クルル」
ルシアンは空を見上げた。
「今夜までに、ユリアさんのところへ行く」
◆
神殿の奥で、黒真珠の反応がいっそう強まった。
ユリアの胸元で、どくん、どくん、と激しく脈打つ。
マティウスは、水門の奥にある祭壇をじっと見つめていた。
祭壇には、黒い円を囲むような古い文字がびっしりと刻まれている。
ユリアは、震える声で聞いた。
「黒真珠を外すために、ここまで来たんですよね?」
彼女は一歩、マティウスから距離を取る。
「でも、あなたは……外そうとしているようには見えません」
マティウスは沈黙した。
その沈黙こそが、明確な答えだった。
ユリアは髪飾りに触れる。
恐怖に押しつぶされそうな心を、その冷たい貝殻の感触だけが繋ぎ止めている。
「月のない夜が満ちれば、道は開く」
マティウスが、静かに言った。
「その時、お前も理解する」
ユリアは唇を噛んだ。
理解するだけではいけない。
誰かに決められた道ではなく、自分で選ばなければならないのだ。
◆
ルシアンとクルルは、ついに神殿の外縁へ到着した。
神殿は、巨大な岩と砂の奥に沈むように建っていた。
入口の周囲には、古い水路が何本も集まり、黒真珠の侵蝕を示す黒い染みがべったりと残っている。
空はすでに暮れかけていた。
見上げても、月はない。
クルルは激しく息を切らしていた。
痛めた脚が震え、もう立っているのも限界に近い。
ルシアンは背から下り、クルルの首を優しく撫でた。
「ここまででいい」
ルシアンは神殿を見据える。
「ここから先は、僕が行く」
クルルが、不安そうに低く鳴く。
だが、ルシアンは静かに首を振った。
「今度は、本当に待っててくれ」
ルシアンはクルルの目を真っ直ぐに見た。
「ユリアさんを連れて戻るには、君が必要なんだ」
クルルはしばらくルシアンを見つめ返していたが、やがて納得したように小さく鳴き、その場に静かに伏せた。
ルシアンは、右手に闘技場から持ち出した剣を握る。
左手には、水門守りの鉤剣。
腰の袋には、ヴァロから受け取った土のファルサと、ラウグスから回収した壊れかけの火のファルサ。
神殿の奥から、低く重い鼓動が響いてくる。
どくん。
それは黒真珠の音だった。
そして同時に、ユリアの胸の奥から響いているようにも聞こえた。
ルシアンは両手の剣を強く握り直した。「待っててください、ユリアさん」
そして、暗い神殿の入口へ足を踏み出した。




