-黒真珠の少女- 第11話 月なき神殿
暗い神殿の入口へ、ルシアンは静かに足を踏み入れた。
ひんやりとした古い石の冷気と、湿り気を帯びた砂の匂いが鼻をつく。
右手に、闘技場から持ち出した剣。
左手には、水門守りの鉤剣。
腰の袋には、ヴァロから託された土のファルサと、壊れかけの火のファルサが入っている。
ルシアンは両手の柄を強く握り直し、一つ息を吐いて奥を見据えた。
深く暗い回廊の先から、ドクン、と重い鼓動が響いてくる。
壁には、古代の文様が刻まれていた。
黒い円を胸に抱く人影。
その周囲で膝をつく人々。
枯れた草と、濁る川。
ふと、足元の黒い水たまりに視線が落ちる。
石積みに張り付いた枯れ苔が、黒い水に触れた瞬間、一斉に青々とした葉を広げた。
だが――次の瞬間には、灰のようにぼろぼろと崩れ落ちた。
ルシアンは足を止めた。
「……治してるんじゃない。命を無理やり絞り出してるだけだ」
ルシアンは、水車小屋でユリアが語ったことを思い出した。
黒真珠を捨てた時、川辺の草が黒く枯れ、羽虫が落ちた。
拾い直したら、それ以上は止まった。
誰かを助けているのではなく、どこかから何かを奪っているのかもしれない。
あの時、彼女はそう言って怯えていた。
黒真珠の力は奇跡などではない。
ただの、残酷な歪みだ。
(急がないと……!)
通路の先で、黒い水が意思を持ったようにせり上がり、行く手を塞ぐ。
ルシアンは迷わず左手の鉤剣を振るった。
水を従わせる力が、一瞬だけ断ち切られる。
ぱしゃり、と黒い壁がただの水に戻って崩れ落ちたわずかな隙間を、ルシアンは滑り込むように駆け抜けた。
◆
神殿の最奥。
巨大な水門を背にした祭壇の前で、マティウスは静かに虚空を見つめていた。
「時が来た」
マティウスが、抑揚のない声で言った。
「月はない。水門は開く」
ユリアの胸元で、黒真珠が激しく脈打っている。
彼女はもう、マティウスがただ石を外すためだけに自分を連れてきたのではないと確信していた。
何をされるのか。恐怖で足がすくむ。
それでも、ただ目を閉じて運命に流されるわけにはいかない。
ユリアは、髪に留めた白い貝殻にそっと触れた。
「……私は、あなたの思い通りにはなりません」
自分は何を選べるのか。
冷たい貝殻の感触だけが、彼女の意志を細く、けれど確かに繋ぎ止めていた。
◆
「ユリアさん!」
弾かれたように、ユリアが振り返る。
祭壇の広間の入口に、ルシアンが立っていた。
息を切らし、服は泥や煤でひどく汚れている。
それでも、その瞳はまっすぐに彼女を捉えていた。
「ルシアンさん……!」
ユリアの顔に喜びが走り、駆け寄ろうと一歩踏み出した。
その髪に、白い貝殻の髪飾りが揺れた。
泥と煤に汚れたルシアンの視界の中で、それだけが不思議なほどはっきり見えた。
ルシアンは、剣の鞘に結ばれた護符紐を一瞬だけ握る。
無事に戻れるように。
そう言ってくれた声が、まだ耳の奥に残っていた。
その時、ユリアの胸元で、黒真珠がドクンと強く脈打った。
呼応するように、神殿の床と水路が低く震えた。
見えない巨大な力に縫い留められたように、ユリアの足が止まる。
「迎えに来ました。遅くなって、すみません」
ルシアンは息を切らしながらも、努めて普段通りの声を出した。
ユリアは何か言おうとした。
けれど、震えた唇から声になる前に、マティウスが、二人の間に静かに立ち塞がった。
◆
「そこをどいてください」
ルシアンが右手の剣を構える。
「ユリアさんを、連れて帰ります」
「連れて帰る?」
マティウスの表情は、石像のように動かなかった。
「本人が、それを選んだのか?」
その言葉に、ユリアの肩が小さく震えた。
選ぶ。
その言葉が、胸元の黒真珠の鼓動よりも深く、彼女の中へ落ちてきた。
村へ帰りたい。
黒真珠を外したい。
誰かを傷つける奇跡になど、縛られたくない。
けれど、そのどれも、今まで誰かの言葉や力に押し流されてばかりだった。
ルシアンの眼差しが、静かに冷えた。
「だから、選ばせるんです」
ルシアンは、祭壇の向こうにいるユリアを見た。
「帝国にも、あなたにも、黒真珠にも決めさせない。ユリアさん自身に、選ばせる」
ユリアは、髪に留めた白い貝殻に触れた。
冷たい感触が、震える指先を少しだけ落ち着かせる。
「……私は」
声はかすれていた。
それでも、ユリアは顔を上げた。
「私は、誰かを傷つけるための石になんて、なりたくありません」
その言葉に、マティウスが初めてユリアを見た。
怒りも、失望も、そこにはなかった。
ただ、遠いものを見るような、ひどく静かな目だった。
「なりたいかどうかの話ではない」
マティウスは淡々と言った。
「黒真珠は、すでにお前を選んだ。お前が拒もうと、受け入れようと、流れは変わらない」
ユリアの指先が、髪飾りを握りしめる。
白い貝殻が、かすかに震えた。
「それでも……私は」
「意志があれば、呪いに勝てると思うか」
マティウスの声は低かった。
「優しさで人を救えると思ったか。傷を癒したその手が、何を奪っていたのかも知らずに」
ユリアの顔から、血の気が引いた。
ルシアンの眼差しが、さらに冷える。
「それ以上、ユリアさんを責めるな」
マティウスはルシアンへ視線を戻した。
「責めてはいない。事実を言っているだけだ」
そして、腰から細身の剣を抜いた。
鋭い金属音が広間に響く。
マティウスの剣筋は滑らかで、一切の無駄がない。
だが――綺麗すぎた。
ルシアンの目は、刃だけを追っていなかった。
肩の沈み方。
爪先の向き。
踏み込む前に、わずかに遅れる呼吸。
闘技場という死地では、そういう小さな揺れを見落とした者から死んでいったのだ。
マティウスの剣は確かに速い。
だが、命を奪い合う間合いには、まだ半歩浅い。
何度か刃を交えるうち、ルシアンは相手の踏み込みの浅さを完全に見切った。
マティウスの刃を紙一重でかわし、半歩深く踏み込む。
鋭く布を裂く音がした。
ルシアンの右手の剣が、マティウスの袖を切り裂く。
青黒い布が宙に舞い、ルシアンの剣先がマティウスの喉元に迫った。
あと半歩。
剣だけなら、確実に届いていた。
◆
「……なるほど」
マティウスは微塵も慌てることなく、喉元の刃を見下ろした。
「剣だけなら、お前の方が上か」
「だったら、そこをどいてください」
ルシアンはさらに踏み込もうとした。
「だが」
マティウスは短く応じた。
次の瞬間、祭壇を囲む水路が低く唸った。
足元の石が震え、ルシアンの踏み込みがわずかに止まる。
マティウスは、裂かれた袖の奥から露わになった左腕を掲げた。
その腕にはめられた青い結晶が、眩い光を放つ。
水プーラだ。
青い光に呼応し、神殿全体が低い唸り声を上げた。
祭壇を囲む水路から、ただの水ではない、黒く重い水が意思を持ったように立ち上がる。
ごうっ、と荒れ狂う黒い水の壁が、ルシアンとユリアの間を完全に遮った。
ルシアンは左手の鉤剣を構え直す。
水を従わせる力を断つ刃。
だが、目の前で動き出したのは、水路一本ではなかった。
神殿そのものが、巨大な一つの生き物のように水を従え始めていた。
「ここからは、剣の勝負ではない」
マティウスが言った。
黒真珠が、ユリアの胸元で大きく脈打った。




