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-黒真珠の少女- 第12話 黒真珠の少女

「ここからは、剣の勝負ではない」

マティウスの左腕で、青い結晶が光を放つ。


水プーラ。

その輝きに呼応し、神殿全体が低い唸り声を上げた。

祭壇を囲む水路から、ただの水ではない、黒く重い濁流が意思を持ったように立ち上がる。


ごうっ、と荒れ狂う水の壁が、ルシアンとユリアの間を完全に遮った。

ルシアンは左手の鉤剣を振るう。

水の壁が一瞬だけ形を崩し、ただの液体となって崩れ落ちる。

だが、すぐに別の水流が鞭のようにしなり、ルシアンの横腹を打ち据えた。


「ぐっ……!」

石畳を転がり、ルシアンは辛うじて体勢を立て直す。


水路一本ではない。

神殿そのものが、巨大な一つの生き物のように水を従え始めている。

鉤剣で一息断ったところで、次から次へと足場を奪われる。



祭壇の前で、ユリアは動けないまま立っていた。

胸元の黒真珠が、不気味なほど大きく脈打っている。


「黒真珠は、呪いではない」

水の壁の向こうから、マティウスの抑揚のない声が響いた。

「命を集め、歪め、道を開く核だ」


ルシアンは迫り来る水の槍を避けながら、右手の剣で弾き返す。


「そして、あの娘は器ではない。扉だ」

マティウスは静かに、事実だけを告げた。

「この水門を開くために、ユリアは選ばれた」


「何を、開くつもりですか」

ルシアンが、濁流をかわしながら問い返す。


マティウスの視線が、巨大な封印水門へ向いた。

「神だ」

その声には、初めてわずかな熱が宿っていた。


「黒真珠は、かつてこの地に封じられた黒い神性の残滓だ。人の命を集め、選ばれた者に根を張り、月のない夜に道を開く」


マティウスは、巨大な封印水門を見上げた。

「これまでにも、黒真珠に選ばれた娘たちはいた。村で奇跡と呼ばれ、恐れられ、やがてここへ導かれた者たちがな」


ユリアの息が、喉の奥で止まった。


同時に、ルシアンの脳裏に、集落で出会った老夫婦の話がよみがえった。


十年前にも、黒い石を拾った娘がいた。

黒衣の男に連れて行かれ、そのまま帰ってこなかった。

見つかったのは、髪に結んでいた紐だけだったという。


ルシアンの指が、剣の柄をきつく握り締める。

「あの人たちを……あなたが」

「すべてではない」


マティウスは、何の感情も見せずに答えた。

「だが、同じ道を歩ませた者はいる。多くは耐えきれなかった。黒真珠に喰われ、扉になりきる前に壊れた」


「壊れた……?」

ルシアンの声が低く沈む。


マティウスは、まるで失敗した道具の話でもするように続けた。


「だが、ユリアは違う。黒真珠はここまで根を張り、月なき夜に水門の前まで辿り着いた。ようやく、道が開く」

「そのために、ユリアさんを使うのか」

「一人の娘の人生で、神が戻る」

マティウスは、当然のことのように言った。

「安いものだ」


ユリアの顔から、血の気が引いた。

マティウスは続ける。


「帝国は恐れて封じるだけだ。村人は奇跡と呼んで怯えるだけだ。だが、私は違う。神が戻るなら、その傍らに立つ。人のまま朽ちるつもりはない」


その言葉に、ルシアンの眼差しが凍るように冷えた。

「……それが、あなたの目的ですか」

「そうだ」


マティウスは、青い結晶を輝かせた左腕を掲げる。

「神を戻し、その力に触れる。人が人のまま終わる時代を、私は認めない」



神殿の最奥。

巨大な封印水門が、地鳴りのような音を立てて微かに震え始めていた。

癒やしに見えた力は、命の流れを無理やり動かしていただけ。

かつて封じられた黒い神性に繋がるための、鍵。


マティウスはユリアを助けるために連れてきたのではない。

完全に黒真珠を開かせるための道具として利用していたのだ。


ユリアの肩が小さく震えた。

自分は、ただ外してもらうためにここまで来たわけではない。

絶望が足元から這い上がってくる。

だが、ユリアは目を閉じなかった。

震える手で、髪に留めた白い貝殻にそっと触れる。


ルシアンとの旅の証。

まだ自分が、自分であることの証。

(私は、何を選べるの……)



「それは、救うって言いません」

水の爆音を引き裂くように、ルシアンの低い声が響いた。


彼の手には、いつものような余裕も、軽い響きもない。

「あなたは、ユリアさんに選ばせていない」

ルシアンは前へ踏み出す。

「ユリアさんには、自分で選ばせます。帝国のものにも、あなたのものにも、黒真珠のものにもさせない!」


ルシアンは腰の袋から、赤い結晶を掴み出した。

壊れかけの、火のファルサ。

「頼む、砕けろ!」

ルシアンはそれを、目の前に迫る巨大な水の壁へ向かって全力で叩きつけた。


激しい衝突音。

水と火の魔力がぶつかり合い、爆発的な蒸気が弾け飛んだ。

広間が一瞬にして真っ白な霧に包まれる。


「……目眩ましか」

マティウスの水操作が、ほんの一瞬だけ乱れた。

役目を終えた火のファルサが、粉々に砕け散って石畳に落ちる。


だが、マティウスは冷静だった。

視界が塞がれたなら、足元をすくえばいい。

足元の黒い水が牙を剥き、ルシアンの立つ石畳を丸ごと押し流そうとする。


その瞬間、ルシアンは袋からもう一つの石を握り込んだ。

ヴァロから託された、土のファルサ。

魔力が流れ込み、崩れかけた泥と石畳が、一息だけ強固な岩盤へと変わる。


それは、ほんのわずかな時間。

だが、ルシアンにとっては、前へ踏み出すには十分すぎる足場だった。


土のファルサがパキンと音を立てて砕ける。

その反動を利用し、ルシアンは白い蒸気を突き抜けた。


「!」

マティウスの視界に、泥だらけの剣闘士が飛び込んでくる。


ルシアンは左手の鉤剣を振るい、マティウスを守る最後の水流を断った。

水が、ほんの一瞬だけ力を失う。


その隙に、ルシアンは間合いを潰した。

右手の剣を振るうと見せかけ、左手の鉤剣をマティウスの左腕へ絡める。

鉤の先が、青い結晶をはめ込んだ腕輪に食い込んだ。


「っ……!」

マティウスの動きが、わずかに止まる。


その一瞬を、ルシアンは逃さなかった。

体ごと踏み込み、柄頭でマティウスの胸元を打ち据える。


「がっ……」

マティウスの体が石畳に叩きつけられた。

同時に、鉤剣に絡め取られた水プーラの腕輪が軋む。

青い結晶に、細い亀裂が走った。


次の瞬間、水プーラは青い光を散らして砕けた。

勝負は決した。


だが、終わってはいなかった。



神殿全体が、激しい地震のように揺れ始めた。


「なっ……」

ルシアンが顔を上げる。

水プーラの制御が失われたことで、ユリアの胸元の黒真珠が暴走を始めていた。


黒い光が、狂ったように明滅する。

奥の封印水門が、重々しい音を立てて開き始めた。


黒い水が逆巻き、神殿の中へ溢れ出す。

黒真珠はユリアを扉として使い、外の世界へ出ようとしていた。


倒れたままのマティウスの口元に、微かな笑みが浮かぶ。

成功したのだと。

そう思ったのだ。


だが、ユリアは外へ向かわなかった。


彼女は、大きく開いた封印水門の奥へと体を向けた。


「ユリアさん!」

ルシアンが叫ぶ。

ユリアは振り返り、真っ直ぐにルシアンを見た。


黒真珠を自分から外せば、また誰かがこの石の器にされる。

自分がここで逃げれば、また同じように苦しむ子が現れる。

なら……。



「私を、使わせません」

ユリアの澄んだ声が、轟音の中でもはっきりと響いた。

「黒真珠にも、あなたにも」

彼女は、暗闇が広がる水門の奥へ一歩を踏み出す。

「私が、連れて行きます」


黒い濁流が渦巻く中、その声は不思議なほど澄んで響いた。


「違う……!」

石畳に倒れ伏したマティウスが、血を吐きながら呻いた。

常に冷徹だった彼の顔に、初めて明確な焦燥が浮かぶ。

「貴様は扉だ……! その水門は、開くためのものだ……!」

「閉じるためにも、使えます」

ユリアは静かに返した。


ユリアは、ルシアンを見た。

ごうごうと黒い水が荒れ狂う神殿の中で、二人の間だけが切り取られたように静かだった。


恐怖がないわけではなかった。

胸の前で握りしめた指先は、小さく震えている。

それでも、その瞳には、恐怖をねじ伏せるだけの澄み切った決意が宿っていた。


ルシアンは息を呑んだ。

助け出すはずだった。

彼女の手を引いて、あの明るい地上へ帰るはずだった。

なのに、彼女は自分の意志で、二度と戻れない道を選ぼうとしている。



「ルシアンさん」

胸元の黒真珠が、主導権を奪われまいと不気味に蠢き、彼女の肌を侵食しようとしている。

それでもユリアは、真っ直ぐにルシアンの目を見つめ返した。


「もし、他にもあるなら……この黒真珠のようなものが、まだ、どこかで誰かを苦しめているなら……」

震える唇から、痛切な言葉が紡がれる。

「探してください……私みたいな子を、もう出さないでください」


それは命令ではなかった。

呪いでもなかった。

ユリアがルシアンに託した、最後の願いだった。


「そんなことより、今は――」

ルシアンは手を伸ばして止めようとした。

だが、彼女の瞳を見て、言葉が喉の奥で詰まった。


ここで無理やり彼女を引き戻せば、彼女の選択を奪うことになる。

彼女は今、誰の道具でもなく、自分自身の意志で運命を選んだのだ。



ルシアンは奥歯を強く噛み締め、左手の鉤剣を構えた。

黒真珠が、水門の水を外へ向かって押し出そうとしている。


ルシアンはその流れの中心に向かって、鉤剣を振り下ろした。

水を従わせる力が一瞬だけ断ち切られ、外へ向かおうとした濁流がピタリと止まる。

その一瞬の隙を突き、ユリアは封印水門の奥へと足を踏み入れた。


だが、黒真珠は諦めなかった。

ユリアの意志を振りほどき、外へ逃げようとするように、彼女の胸元から太い黒い根のようなものが伸びる。

それは封印水門の奥ではなく、外の世界へ向かっていた。


ルシアンは右手に握った剣を、高く振り上げた。

闘技場から逃げ出すために持ち出し、ここまで血と泥に塗れて生き延びてきた、普通の鉄剣。


「逃がすかよっ!」

ルシアンは渾身の力で、黒い根を叩き斬った。

硬い衝撃が腕を跳ね上げる。

甲高い音が神殿に響き渡った。


黒い根が切断されると同時に、ルシアンの右手の剣が、根元から折れた。

折れた刃が、宙を舞う。


逃げ延びるための剣が、彼女の自由を守るために砕け散った。

逃げ道を断たれた黒真珠は、ユリアと共に水門の奥の暗闇へと引きずり込まれていく。


「器が、選ぶなど……」

マティウスが呆然と呟いた。

彼が道具と見下していた少女の意志が、すべての計画をひっくり返したのだ。


その言葉の続きは、逆巻く黒い濁流に呑み込まれて消えた。


水門の扉が、ゆっくりと閉まり始める。


「ルシアンさん」

暗闇の向こうで、ユリアが微かに微笑んだように見えた。


その髪から、白い貝殻の髪飾りが外れた。

黒い水に呑まれる寸前、小さな白だけが、流れにさらわれてこちら側へ戻ってくる。


鼓動の音が止む。

重い石の扉が完全に閉ざされ、ユリアの姿は暗闇の奥へと消え去った。


ずん、と重い音が響いた。


水門が閉じた強烈な反動で、神殿全体が崩壊を始めた。

行き場を失った水路の水が爆発的に膨れ上がり、広間を丸ごと飲み込む。


ルシアンは抗う間もなく濁流に巻き込まれ、意識が白く染まっていった。



頬を舐める温かい感触で、ルシアンは目を覚ました。

「くるるっ」

心配そうに鳴くクルルの顔が、ぼやけた視界に映る。


痛む体を起こすと、そこは神殿の外にある水路跡だった。


ルシアンはしばらくの間、呆然と神殿の入口を見つめていた。

崩落の土煙が上がっている。


クルルが、ルシアンの背中にそっと体をすり寄せた。

ルシアンは何も言えず、ただ濁った水が流れる水路の先を見ていた。


そのとき。

濁った水の上を、小さな白いものが流れてきた。


ルシアンは無意識に立ち上がり、泥水の中へ手を伸ばした。

引き上げたそれは、白い貝殻の髪飾りだった。


あの街で、彼がユリアに買ったものだ。


ルシアンは濡れた髪飾りを、泥だらけの両手で包み込んだ。

腰の鞘には、ユリアが結んでくれた護符紐が揺れている。

無事に戻れるようにと、彼女がくれたもの。


けれど、戻ってきたのは、自分だけだった。


手の中には、彼女の髪飾り。

胸の奥には、彼女が残した最後の願い。


ルシアンは声を出さなかった。


ただ、崩れた神殿を見つめ続けていた。

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