-黒真珠の少女- 第12話 黒真珠の少女
「ここからは、剣の勝負ではない」
マティウスの左腕で、青い結晶が光を放つ。
水プーラ。
その輝きに呼応し、神殿全体が低い唸り声を上げた。
祭壇を囲む水路から、ただの水ではない、黒く重い濁流が意思を持ったように立ち上がる。
ごうっ、と荒れ狂う水の壁が、ルシアンとユリアの間を完全に遮った。
ルシアンは左手の鉤剣を振るう。
水の壁が一瞬だけ形を崩し、ただの液体となって崩れ落ちる。
だが、すぐに別の水流が鞭のようにしなり、ルシアンの横腹を打ち据えた。
「ぐっ……!」
石畳を転がり、ルシアンは辛うじて体勢を立て直す。
水路一本ではない。
神殿そのものが、巨大な一つの生き物のように水を従え始めている。
鉤剣で一息断ったところで、次から次へと足場を奪われる。
◆
祭壇の前で、ユリアは動けないまま立っていた。
胸元の黒真珠が、不気味なほど大きく脈打っている。
「黒真珠は、呪いではない」
水の壁の向こうから、マティウスの抑揚のない声が響いた。
「命を集め、歪め、道を開く核だ」
ルシアンは迫り来る水の槍を避けながら、右手の剣で弾き返す。
「そして、あの娘は器ではない。扉だ」
マティウスは静かに、事実だけを告げた。
「この水門を開くために、ユリアは選ばれた」
「何を、開くつもりですか」
ルシアンが、濁流をかわしながら問い返す。
マティウスの視線が、巨大な封印水門へ向いた。
「神だ」
その声には、初めてわずかな熱が宿っていた。
「黒真珠は、かつてこの地に封じられた黒い神性の残滓だ。人の命を集め、選ばれた者に根を張り、月のない夜に道を開く」
マティウスは、巨大な封印水門を見上げた。
「これまでにも、黒真珠に選ばれた娘たちはいた。村で奇跡と呼ばれ、恐れられ、やがてここへ導かれた者たちがな」
ユリアの息が、喉の奥で止まった。
同時に、ルシアンの脳裏に、集落で出会った老夫婦の話がよみがえった。
十年前にも、黒い石を拾った娘がいた。
黒衣の男に連れて行かれ、そのまま帰ってこなかった。
見つかったのは、髪に結んでいた紐だけだったという。
ルシアンの指が、剣の柄をきつく握り締める。
「あの人たちを……あなたが」
「すべてではない」
マティウスは、何の感情も見せずに答えた。
「だが、同じ道を歩ませた者はいる。多くは耐えきれなかった。黒真珠に喰われ、扉になりきる前に壊れた」
「壊れた……?」
ルシアンの声が低く沈む。
マティウスは、まるで失敗した道具の話でもするように続けた。
「だが、ユリアは違う。黒真珠はここまで根を張り、月なき夜に水門の前まで辿り着いた。ようやく、道が開く」
「そのために、ユリアさんを使うのか」
「一人の娘の人生で、神が戻る」
マティウスは、当然のことのように言った。
「安いものだ」
ユリアの顔から、血の気が引いた。
マティウスは続ける。
「帝国は恐れて封じるだけだ。村人は奇跡と呼んで怯えるだけだ。だが、私は違う。神が戻るなら、その傍らに立つ。人のまま朽ちるつもりはない」
その言葉に、ルシアンの眼差しが凍るように冷えた。
「……それが、あなたの目的ですか」
「そうだ」
マティウスは、青い結晶を輝かせた左腕を掲げる。
「神を戻し、その力に触れる。人が人のまま終わる時代を、私は認めない」
◆
神殿の最奥。
巨大な封印水門が、地鳴りのような音を立てて微かに震え始めていた。
癒やしに見えた力は、命の流れを無理やり動かしていただけ。
かつて封じられた黒い神性に繋がるための、鍵。
マティウスはユリアを助けるために連れてきたのではない。
完全に黒真珠を開かせるための道具として利用していたのだ。
ユリアの肩が小さく震えた。
自分は、ただ外してもらうためにここまで来たわけではない。
絶望が足元から這い上がってくる。
だが、ユリアは目を閉じなかった。
震える手で、髪に留めた白い貝殻にそっと触れる。
ルシアンとの旅の証。
まだ自分が、自分であることの証。
(私は、何を選べるの……)
◆
「それは、救うって言いません」
水の爆音を引き裂くように、ルシアンの低い声が響いた。
彼の手には、いつものような余裕も、軽い響きもない。
「あなたは、ユリアさんに選ばせていない」
ルシアンは前へ踏み出す。
「ユリアさんには、自分で選ばせます。帝国のものにも、あなたのものにも、黒真珠のものにもさせない!」
ルシアンは腰の袋から、赤い結晶を掴み出した。
壊れかけの、火のファルサ。
「頼む、砕けろ!」
ルシアンはそれを、目の前に迫る巨大な水の壁へ向かって全力で叩きつけた。
激しい衝突音。
水と火の魔力がぶつかり合い、爆発的な蒸気が弾け飛んだ。
広間が一瞬にして真っ白な霧に包まれる。
「……目眩ましか」
マティウスの水操作が、ほんの一瞬だけ乱れた。
役目を終えた火のファルサが、粉々に砕け散って石畳に落ちる。
だが、マティウスは冷静だった。
視界が塞がれたなら、足元をすくえばいい。
足元の黒い水が牙を剥き、ルシアンの立つ石畳を丸ごと押し流そうとする。
その瞬間、ルシアンは袋からもう一つの石を握り込んだ。
ヴァロから託された、土のファルサ。
魔力が流れ込み、崩れかけた泥と石畳が、一息だけ強固な岩盤へと変わる。
それは、ほんのわずかな時間。
だが、ルシアンにとっては、前へ踏み出すには十分すぎる足場だった。
土のファルサがパキンと音を立てて砕ける。
その反動を利用し、ルシアンは白い蒸気を突き抜けた。
「!」
マティウスの視界に、泥だらけの剣闘士が飛び込んでくる。
ルシアンは左手の鉤剣を振るい、マティウスを守る最後の水流を断った。
水が、ほんの一瞬だけ力を失う。
その隙に、ルシアンは間合いを潰した。
右手の剣を振るうと見せかけ、左手の鉤剣をマティウスの左腕へ絡める。
鉤の先が、青い結晶をはめ込んだ腕輪に食い込んだ。
「っ……!」
マティウスの動きが、わずかに止まる。
その一瞬を、ルシアンは逃さなかった。
体ごと踏み込み、柄頭でマティウスの胸元を打ち据える。
「がっ……」
マティウスの体が石畳に叩きつけられた。
同時に、鉤剣に絡め取られた水プーラの腕輪が軋む。
青い結晶に、細い亀裂が走った。
次の瞬間、水プーラは青い光を散らして砕けた。
勝負は決した。
だが、終わってはいなかった。
◆
神殿全体が、激しい地震のように揺れ始めた。
「なっ……」
ルシアンが顔を上げる。
水プーラの制御が失われたことで、ユリアの胸元の黒真珠が暴走を始めていた。
黒い光が、狂ったように明滅する。
奥の封印水門が、重々しい音を立てて開き始めた。
黒い水が逆巻き、神殿の中へ溢れ出す。
黒真珠はユリアを扉として使い、外の世界へ出ようとしていた。
倒れたままのマティウスの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
成功したのだと。
そう思ったのだ。
だが、ユリアは外へ向かわなかった。
彼女は、大きく開いた封印水門の奥へと体を向けた。
「ユリアさん!」
ルシアンが叫ぶ。
ユリアは振り返り、真っ直ぐにルシアンを見た。
黒真珠を自分から外せば、また誰かがこの石の器にされる。
自分がここで逃げれば、また同じように苦しむ子が現れる。
なら……。
◆
「私を、使わせません」
ユリアの澄んだ声が、轟音の中でもはっきりと響いた。
「黒真珠にも、あなたにも」
彼女は、暗闇が広がる水門の奥へ一歩を踏み出す。
「私が、連れて行きます」
黒い濁流が渦巻く中、その声は不思議なほど澄んで響いた。
「違う……!」
石畳に倒れ伏したマティウスが、血を吐きながら呻いた。
常に冷徹だった彼の顔に、初めて明確な焦燥が浮かぶ。
「貴様は扉だ……! その水門は、開くためのものだ……!」
「閉じるためにも、使えます」
ユリアは静かに返した。
ユリアは、ルシアンを見た。
ごうごうと黒い水が荒れ狂う神殿の中で、二人の間だけが切り取られたように静かだった。
恐怖がないわけではなかった。
胸の前で握りしめた指先は、小さく震えている。
それでも、その瞳には、恐怖をねじ伏せるだけの澄み切った決意が宿っていた。
ルシアンは息を呑んだ。
助け出すはずだった。
彼女の手を引いて、あの明るい地上へ帰るはずだった。
なのに、彼女は自分の意志で、二度と戻れない道を選ぼうとしている。
◆
「ルシアンさん」
胸元の黒真珠が、主導権を奪われまいと不気味に蠢き、彼女の肌を侵食しようとしている。
それでもユリアは、真っ直ぐにルシアンの目を見つめ返した。
「もし、他にもあるなら……この黒真珠のようなものが、まだ、どこかで誰かを苦しめているなら……」
震える唇から、痛切な言葉が紡がれる。
「探してください……私みたいな子を、もう出さないでください」
それは命令ではなかった。
呪いでもなかった。
ユリアがルシアンに託した、最後の願いだった。
「そんなことより、今は――」
ルシアンは手を伸ばして止めようとした。
だが、彼女の瞳を見て、言葉が喉の奥で詰まった。
ここで無理やり彼女を引き戻せば、彼女の選択を奪うことになる。
彼女は今、誰の道具でもなく、自分自身の意志で運命を選んだのだ。
◆
ルシアンは奥歯を強く噛み締め、左手の鉤剣を構えた。
黒真珠が、水門の水を外へ向かって押し出そうとしている。
ルシアンはその流れの中心に向かって、鉤剣を振り下ろした。
水を従わせる力が一瞬だけ断ち切られ、外へ向かおうとした濁流がピタリと止まる。
その一瞬の隙を突き、ユリアは封印水門の奥へと足を踏み入れた。
だが、黒真珠は諦めなかった。
ユリアの意志を振りほどき、外へ逃げようとするように、彼女の胸元から太い黒い根のようなものが伸びる。
それは封印水門の奥ではなく、外の世界へ向かっていた。
ルシアンは右手に握った剣を、高く振り上げた。
闘技場から逃げ出すために持ち出し、ここまで血と泥に塗れて生き延びてきた、普通の鉄剣。
「逃がすかよっ!」
ルシアンは渾身の力で、黒い根を叩き斬った。
硬い衝撃が腕を跳ね上げる。
甲高い音が神殿に響き渡った。
黒い根が切断されると同時に、ルシアンの右手の剣が、根元から折れた。
折れた刃が、宙を舞う。
逃げ延びるための剣が、彼女の自由を守るために砕け散った。
逃げ道を断たれた黒真珠は、ユリアと共に水門の奥の暗闇へと引きずり込まれていく。
「器が、選ぶなど……」
マティウスが呆然と呟いた。
彼が道具と見下していた少女の意志が、すべての計画をひっくり返したのだ。
その言葉の続きは、逆巻く黒い濁流に呑み込まれて消えた。
水門の扉が、ゆっくりと閉まり始める。
「ルシアンさん」
暗闇の向こうで、ユリアが微かに微笑んだように見えた。
その髪から、白い貝殻の髪飾りが外れた。
黒い水に呑まれる寸前、小さな白だけが、流れにさらわれてこちら側へ戻ってくる。
鼓動の音が止む。
重い石の扉が完全に閉ざされ、ユリアの姿は暗闇の奥へと消え去った。
ずん、と重い音が響いた。
水門が閉じた強烈な反動で、神殿全体が崩壊を始めた。
行き場を失った水路の水が爆発的に膨れ上がり、広間を丸ごと飲み込む。
ルシアンは抗う間もなく濁流に巻き込まれ、意識が白く染まっていった。
◆
頬を舐める温かい感触で、ルシアンは目を覚ました。
「くるるっ」
心配そうに鳴くクルルの顔が、ぼやけた視界に映る。
痛む体を起こすと、そこは神殿の外にある水路跡だった。
ルシアンはしばらくの間、呆然と神殿の入口を見つめていた。
崩落の土煙が上がっている。
クルルが、ルシアンの背中にそっと体をすり寄せた。
ルシアンは何も言えず、ただ濁った水が流れる水路の先を見ていた。
そのとき。
濁った水の上を、小さな白いものが流れてきた。
ルシアンは無意識に立ち上がり、泥水の中へ手を伸ばした。
引き上げたそれは、白い貝殻の髪飾りだった。
あの街で、彼がユリアに買ったものだ。
ルシアンは濡れた髪飾りを、泥だらけの両手で包み込んだ。
腰の鞘には、ユリアが結んでくれた護符紐が揺れている。
無事に戻れるようにと、彼女がくれたもの。
けれど、戻ってきたのは、自分だけだった。
手の中には、彼女の髪飾り。
胸の奥には、彼女が残した最後の願い。
ルシアンは声を出さなかった。
ただ、崩れた神殿を見つめ続けていた。




