-黒真珠の少女- エピローグ 彼女の願いを連れて
帝国聖遺物監理局の仮設調査拠点。
湿った風が天幕を揺らすなか、ヴァロは机に広げられた報告書に目を落としていた。
負傷した右脚には粗末な添え木が当てられ、軍服には乾いた泥と血がこびりついている。だが、その姿勢に崩れはない。
机の上には、神殿崩落の記録、被害状況、そして回収された聖遺物の破片が無造作に積まれている。
傍らに立つ記録官が、羽ペンをインク壺に浸しながら事務的な声を出した。
「――以上が、ネフェルティア神殿崩落に関する一次報告となります。最後に、対象者の分類ですが……」
記録官は報告書の末尾を指し示した。
「『黒真珠適合者』でよろしいですか。それとも『聖遺物反応者』として処理しますか」
「違う」
ヴァロの返答は、短く、静かだった。
「では、何と」
「貸せ」
ヴァロは記録官から羽ペンを取り上げると、自ら分類欄に文字を書き込んだ。
感情の波立たない、規則正しい帝国の書体で。
分類:黒真珠災害被害者
氏名:ユリア
備考:黒真珠災害に巻き込まれ、最後まで他者を救う意思を示した少女。
『黒真珠災害被害者』
それが、ヴァロが帝国の記録に残した彼女の名だった。
◆
ネフェルティアの集落は、神殿崩落の余波からまだ立ち直りきっていなかった。
乾いた風が吹き抜ける集落の片隅で、ルシアンは黙々とクルルの脚に包帯を巻いていた。
クルルは痛みを堪えるように小さく鼻を鳴らしたが、その脚はすでに立ち上がれる程度には回復している。
ルシアンの腰の鞘には、ユリアが買って結んでくれた護符紐が揺れていた。
そしてもう一つ。
右の腰に残る剣は、刃の半ばから無惨に折れていた。
折れた剣は、もう使えない。
闘技場から逃げた時、ルシアンが拾った剣。
自由になるために握り続けてきた剣。
それは、ユリアの選択を守るために折れた。
掌を開けば、そこには白い貝殻の髪飾りがある。
ユリアは戻らない。
それでも、彼女が確かにいた証だけは、ルシアンの手元に残っていた。
◆
「……逃亡剣闘士の件が、消えたわけではない」
背後からかけられた声に、ルシアンは振り返らなかった。
足を引きずりながら近づいてきたのは、ヴァロだった。
「でしょうね」
ルシアンは包帯の端を結び終え、立ち上がった。
「だが、今ここでお前を捕らえることは、私の任務ではない」
「便利ですね、任務って」
「面倒なものだと言ったはずだ」
ヴァロの表情はいつも通り硬く、そこには何の馴れ合いもない。
帝国将校としての冷徹な線引きが、二人の間には確かに存在していた。
「黒真珠に似た記録は、他にもある」
唐突なヴァロの言葉に、ルシアンは視線を上げた。
「……どこに?」
「帝国の記録庫に眠っているものもあれば、まだ記録にもなっていないものもある」
「教えてくれるんですか?」
「すべては無理だ」
ヴァロは少しだけ間を置いた。
「だが、何も知らずに歩くよりはましだろう」
ルシアンは小さく息を吐いた。
「……十分です 」
言葉少なに返すルシアンの指先が、掌の髪飾りをわずかに強く握りしめた。
◆
砂混じりの風が、ネフェルティアの水路跡を吹き抜けた。
ルシアンは、白い貝殻の髪飾りを袋の奥へしまった。
左腰には水門守りの鉤剣。
右腰の鞘に結ばれた護符紐が、小さく揺れる。
ルシアンは足元に佇む相棒を見下ろした。
「君まで来る必要はないんだけど」
「くるるっ」
クルルは当然のように鳴き、一歩前に出た。
「……そう言うと思ったよ」
ルシアンの口元に、ほんのわずかだけ苦笑が浮かんだ。
『もし、他にもあるなら……この黒真珠のようなものが、まだ、どこかで誰かを苦しめているなら……探してください……私みたいな子を、もう出さないでください』
ユリアの最後の願いが、耳の奥で蘇る。
「黒真珠が、まだどこかにあるなら……」
言葉は最後まで口にしなかった。
ルシアンは踵を返し、歩き出した。
クルルが、当然のように身を沈める。
まだ脚は万全ではない。
それでも、その瞳は「乗れ」と言っていた。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「……無理はするなよ」
「くるる」
クルルが短く鳴く。
ルシアンはその背にまたがった。
振り返っても、神殿はもう見えない。
ユリアも、戻らない。
それでも、進むしかなかった。
黒真珠が、まだどこかにあるのなら。
ユリアのような誰かが、また泣くことになるのなら。
その前に、見つけなければならない。
◆
帝国歴143年。
サンシャーラ歴前403年。
朝焼けの中、ルシアンとクルルの影が、ネフェルティアの道を遠ざかっていく。
白い貝殻の髪飾りと、彼女の願いを連れて。
サンシャーラ神話物語
−黒真珠の少女− 完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『黒真珠の少女』はこれで完結です。
短い旅の物語でしたが、ユリアとルシアン、そしてクルルの行く末を見届けていただけたなら嬉しいです。
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