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-黒真珠の少女- 第3話 クルルとの出会い

ゲヌアの港を背にしてからは、まともな道がなかった。


マティウスが選ぶのは、決まって街道から外れた道だった。

森の縁を縫う獣道。

苔むして半ば土に還りかけた古い石畳。

雨で抉れて泥のぬかるんだ急斜面。

崩れて倒れた道標が、行き先も読めないまま藪に深く埋もれていた。


ルシアンは、足にまとわりつく重い泥を払いながら、

前を行く背中に声をかけた。

「マティウスさん。これ、本当に道なんですか?」

「獣の足跡があるだろう。立派な道だ」

「それ、道じゃなくて獣の通り道じゃありませんか?」

「安心しろ。獣が出たらお前に任せる。嬢ちゃんの護衛なんだろう?」

「獣が出ない方が安心できますよ」

マティウスは振り返りもせず、肩を揺らして低く笑った。


ユリアは、二人の少し後ろを歩いていた。

歩き慣れない足元に何度もよろけ、布でくるんだ黒い石を、

胸の前で大事そうに抱えている。

下草が長いスカートの裾に絡むたびに、小さな息が乱れた。


ルシアンは、それに気づいていた。

先を急ぐマティウスとの距離が開きすぎないよう、

自分の歩幅を、いつのまにかユリアの細い足取りに合わせていた。

苔むした倒木をまたぐところでは、何も言わずにすっと手を差し出した。


「すみません」

「いいですよ。こういう道、慣れてないでしょう?」

「はい……」

ユリアは差し出された無骨な手を借りて、倒木を越えた。

「ルシアンさんは、慣れてるんですか?」

「慣れてるってわけじゃないけど、身体が頑丈なのが取り柄なんですよ」

ルシアンが軽く返すと、ユリアがほんの少しだけ口元を緩めた。


「……止まれ」

マティウスが短く、鋭く言った。

ルシアンは即座にユリアの前へ半歩出て、剣の柄に手をかけた。

すぐ後ろで、ユリアが息を呑む気配がする。

次の瞬間、彼女の細い肩が、かすかにルシアンの背中に触れた。


ほんの一瞬の、頼りない重み。


ルシアンは振り返らなかった。

振り返れば、余計なことを考えそうだった。

代わりに、柄を握る手に無意識に力を込める。


木立の切れ間の遠く——おそらく本街道のあるあたりを、

土煙が一筋、走り抜けていった。

蹄の音が、風に乗って切れ切れに届く。


「伝令ですかね?」

ルシアンは目を細めて、遠ざかっていく土煙の行方を目で追った。

「逃亡した剣闘士と、連れ去られた少女の手配書が回ってる頃だ」

「その二枚に、マティウスさんの分も足して三枚ですね」

「俺は人相がいいからな。見逃されるかもしれん」

「人相はともかく、その背丈と黒衣は目立ちますよ」

マティウスが愉快そうに肩を揺らし、ルシアンは呆れたように

小さく息を吐いた。


その軽口の横で、ユリアだけは笑えなかった。

自分が『連れ去られた少女』として探されている。

その事実に、唇を噛んで小さく身を縮める。



森の奥へ入るほど、木々は高く背を伸ばし、頭上を覆った。

日差しは枝葉に漉されて薄緑に染まり、

足元には湿った土と腐葉の匂いが立ちこめていた。

鳥の声も、いつのまにか遠のいていた。

その張り詰めた静けさを、甲高い声が引き裂いた。 


ユリアが、はっと顔を上げた。

「今の……何かの、声」

人の悲鳴ではなかった。

鳥とも獣ともつかない、切羽詰まった、悲痛な鳴き声。


ルシアンは即座にユリアの前へ半歩出て、剣の柄に手をかけた。

「待ってください」

彼は声を低くした。

「こういう時は、大抵、面倒なのも一緒にいるんですよ」


マティウスは周囲の気配を探るように、ゆっくりと首を巡らせた。

「魔犬かもしれんな」

その声は、奇妙なほど落ち着いていた。

「森を抜けるだけなら、無視して回り込んだほうが早い」


ユリアは、声のした方をじっと見つめていた。

唇を噛み、抱えた包みに力を込める。


迷っていた。

自分が追われていること、ここで騒げば、

その気配を追手に呼び寄せるかもしれないこと。

それくらいは、彼女にも分かっていた。


——もう一度、鳴き声が響いた。

さっきより弱々しく、けれど、まだ必死に生を求めるように。


「でも……まだ、生きてます」

ユリアは懇願するように振り返った。


ルシアンは、一瞬だけ言葉を失った。

こんな状況で、まだ誰かを助けようとするのか。


追われているのは彼女自身だ。

怖いはずだ。

黒い石を抱えているだけで、今にも泣き出しそうなくらい、

不安なはずだ。


ルシアンが、マティウスに確認するように視線を向けると、

少し離れたところで、マティウスが黙って二人を見ていた。

止めるでもなく、急かすでもなく。

ただ、ユリアの言葉にルシアンがどう動くのかを、

面白がるように見ている。


ルシアンは、あてにした自分が馬鹿だったとでも言いたげに、

小さく息を吐いた。


ユリアに向き直る。

こちらを見る碧い瞳は、まっすぐだった。

助けたいと、そう訴えている。


その目を見てしまうと、駄目だとは言えなかった。


ルシアンは、天を仰ぐようにして深く息を吐いた。

それから、チャキリと剣を抜く。


「……わかりました」

ルシアンは剣先を森の奥へ向けた。

「助けるなら、僕が前に出ます。ユリアさんは、

絶対に下がっててください」


ユリアの表情が、ほんの少しだけ明るくなった。

「ありがとうございます」

その声を聞いて、ルシアンはもう引き返せなくなった。


少し離れた場所で、マティウスが小さく息を吐いた。


呆れたようにも、感心したようにも見える顔だった。

黒真珠を抱えた少女が何を選び、

逃亡剣闘士がどこまでその選択に付き合うのか。


マティウスは、まだ何も言わなかった。

ただ、その二人を静かに見定めていた。



下生えをかき分けて声のほうへ進むと、不意に視界が開けた。

倒木と岩に囲まれた、小さな空き地だった。


その奥、太い木の根元に、一羽の生き物が追い詰められていた。


ルシアンの背丈ほどもある、クッカだった。

羽毛に覆われ、首が長く、けれど飛ぶための翼は退化したように小さい。

まだ大人になりきっていないのか、体つきはどこか細かった。

片方の足をかばうように浮かせ、震えながら、

岩を背にして身を縮めていた。

汚れた羽毛のあちこちに、痛々しい赤い筋が滲んでいる。


それを囲んでいたのは、三匹の犬だった。

ただの野犬ではなかった。

毛並みは墨を流したように黒く、ところどころ抜け落ちて

赤黒く爛れている。

眼は濁った黄色に光り、開いた口からは悪臭を放つ涎が糸を引いていた。

喉の奥から漏れる唸りには、どこか湿った、

本能を粟立たせる嫌な響きがあった。


「助けなきゃ……!」

ユリアが息を呑んで踏み出そうとする。

「助けます」

ルシアンが腕で制した。

「だから、任せてください」


ユリアは、その腕の力に一瞬だけ身を任せた。

ルシアンの腕が、自分の震えを止めてくれるような気がした。



一匹が、クッカに飛びかかった。

ルシアンが動いた。

地を蹴り、最短の距離を詰める。

飛びかかった魔犬の横腹へ、踏み込みの勢いそのままに剣を振り抜いた。

鈍い感触が腕に返った。

魔犬は短く鳴いて、横ざまに転がった。


残る二匹が、気配を察して振り返る。

一匹がルシアンの正面から、もう一匹が右へ回り込もうとした。


ルシアンは、正面の一匹を待った。

低く沈んで飛びかかってくる牙を、半歩横へ流してかわす。

すれ違いざま、首筋へ正確に刃を落とした。


「魔犬って」

彼は息も乱さず呟いた。

「普通の犬より、ずいぶん愛想がないですね」

「だから魔犬なんだろう。それより気を抜くな」

マティウスの声が背後から飛んだ。

「抜いてません」


ルシアンは右へ回った最後の一匹へ、すでに向き直っていた。

「愛想の話をしただけです」


最後の魔犬は、仲間が倒れたのを見て、唸りながら後ずさった。

ルシアンは深追いしなかった。

剣を構えたまま、じり、と間合いを詰める。

地面の起伏を一歩で読み、相手が逃げる方向を塞ぐように

立ち位置を変えた。


魔犬は、追い詰められたと見るや、牙を剥いて跳んだ。

腐った肉のような悪臭が、風に乗って鼻を突く。

ルシアンはその軌道を、跳ぶ前から見ていた。

半身をひねって牙をかわし、伸びきった首の付け根へ刃を突き入れる。


鈍い衝撃が腕に走り、黒い血が飛び散った。


魔犬は地に落ち、二度三度痙攣して、動かなくなった。



空き地に、静けさが戻った。

最初に転がした一匹が、よろめきながら立ち上がり、

藪の奥へ逃げていく。

もう追ってくる力はなさそうだった。

ルシアンはそれを追わず、剣についた黒い血を振り払った。


「……終わりました」

ルシアンが言い終わるより早く、ユリアは駆け出していた。


クッカは、岩を背にしたまま、近づくユリアに向かって首をすくめ、

喉の奥でくぐもった警戒の声を上げた。

逃げようと足に力を込めて、けれど傷ついた足が崩れ、

その場にうずくまる。


ユリアは、足を止めた。

それ以上は近づかず、少し離れた場所にゆっくりとしゃがみ込む。

手のひらを見せるように開いて、できるだけ静かで、

優しい声で語りかけた。


「大丈夫。怖くないよ」

「噛まれませんかね?」

ルシアンが、周囲を警戒しながら言った。

「たぶん、大丈夫です」

ユリアは小さく笑った。


それから、またクッカのほうへ向き直る。

「ね? もう、あの怖いのはいなくなったから」


クッカは、まだ警戒していた。

けれど、ユリアが動かずにいると、クッカはじっと彼女を見つめ、

やがて、張り詰めていた首の力をわずかに緩めた。


ユリアは、その傷を見た。

脇腹が深く裂け、足の付け根からも血が流れていた。

羽毛がべったりと赤く濡れている。

荒い呼吸のたびに、体が小刻みに震えていた。


——このままじゃ、死んでしまう。


ユリアの手が、胸に抱えた包みへ伸びかけて、止まった。

「……ユリアさん」

ルシアンが、その手元を見て言った。

「無理しなくて、いいです」

ユリアは、首を振った。

「でも、このままだと、この子……」

声が、わずかに掠れた。


黒い石の力は、怖い。

捨てれば戻り、離せば周りの命を吸う。

川辺の草が黒く枯れていった光景を、彼女は忘れていなかった。


草の上に落ちた羽虫が、もう二度と動かなかったことも。

使えば、また何かが起きるかもしれない。


それでも、目の前で震えている命を、見過ごすことができなかった。


ユリアは布をほどき、黒い石を握りしめた。

石は、表面はひやりと冷たいのに、奥のほうだけが、

かすかに温かかった。

まるで脈を持った何かのように。


彼女は、もう片方の手を、クッカの傷の上にそっとかざした。

「痛みよ……」

おまじないの言葉が、喉でつかえた。

あの言葉を口にするのが、今は少しだけ怖かった。


それでも、ユリアは小さく息を吸って続けた。

「……風に、帰って」

掌の奥が、ちりりと熱を持った。

裂けた傷口が、見る間に塞がっていく。

流れていた血が止まり、ねじれていた羽毛の下で、

皮膚が縫い合わされるように戻っていった。

荒かったクッカの呼吸が、ゆっくりと落ち着き、震えが止まる。


——どくん。


その瞬間、握った黒真珠が、確かに一度、脈打った。

ユリアの掌の中で、それは生き物のように身じろぎした。

まるで、彼女の心臓と、どこか遠くの何かが、

一瞬だけ繋がったかのように。


ほんの一拍。

けれど、はっきりと。


ユリアは、思わず石を握る手に力を込めた。

「……黒い石が、ちょっと、動いたみたい」

「大丈夫ですか?」

ルシアンが、すぐにそばへ来た。

「はい。たぶん……」

ユリアは石を見つめた。

「痛くは、ないんです。ただ……」

うまく言葉にできなかった。


この石が、いつか自分から切り離されるとき、

どんな痛みが待っているのか……想像するのが怖かった。


少し離れた場所で、マティウスがその様子を見ていた。


腕を組んだまま、何も言わない。

ただ、ユリアの掌の黒真珠に注がれた視線が、

ほんのわずかに細められた。



癒されたクッカは、おそるおそる足に力を込め、

よろめきながらも、自分の脚で立ち上がった。


まだ少しふらつく。

けれど、さっきまでの瀕死の様子が嘘のように、

しっかりと首を持ち上げていた。

大きな目が、ユリアをまっすぐに見ている。


そして——ユリアのそばから、離れようとしなかった。


ユリアが一歩下がると、クッカは一歩ついてくる。

長い首を伸ばして、彼女の肩のあたりに、そっと頭をすり寄せた。

「……ついてくる気みたいですね」

ルシアンが、困ったように言った。


ユリアは、すり寄ってくるクッカの頭を、おそるおそる撫でた。

羽毛は、思っていたよりずっと柔らかく、温かかった。

彼女の顔に、自然と笑みがこぼれる。

「だめ、でしょうか……?」


ルシアンは、言葉に詰まった。

「駄目と言いたいところなんですけど……」

ルシアンは首の後ろをかいた。

「その顔で見られると、僕が悪者になりますね」


ユリアは、少しだけ目を大きく見開いた。

それから、クッカの頭を撫でる手を止めて、

ルシアンの顔をまっすぐ見上げる。

「……悪者には、なりませんよ」

彼女の声は、かすかに震えていた。

「ルシアンさんは、ちゃんと私を守ってくれていますから」


ルシアンは、その言葉に一瞬だけ言葉を失った。

「……まあ、護衛ですから」

そう返しながら、首の後ろが少しだけ熱くなるのを感じた。


「一羽増えたくらいで、旅は変わらんさ」

マティウスが、近づきながら軽く笑った。

「いや、変わると思いますよ」

ルシアンはマティウスを見た。

「食べる量とか」

「くるる」

クッカが長い首を傾けて、心外だと言いたげに短く鳴いた。


その声を聞いて、ユリアの顔が、ぱっと明るくなった。

「クルル」

「え?」

ルシアンが聞き返す。

「この子の名前です。クルル」

クッカは、まるで応えるように、もう一度鳴いた。

「くるる」


ユリアは、声を立てて笑った。

久しぶりに、心から笑ったようだった。


ルシアンは、一瞬だけ返事を忘れた。


さっきまで不安そうに黒真珠を抱えていた少女が、

今はクルルの首に手を添えて、柔らかく笑っている。

その顔を見てしまうと、反対する理由を探す方が難しかった。


「ほら。気に入ってくれたみたいです」

ユリアが、少し得意げにこちらを見る。


ルシアンは慌てて視線を逸らし、クルルのほうへ目を向けた。

「……本人がいいなら、いいと思います」

「はい」

ユリアが嬉しそうに頷く。


その声まで明るく聞こえて、ルシアンはますます何も言えなくなった。



旅を再開しようと、ユリアが立ち上がったときだった。


クルルが、ユリアの前に回り込み、すっと身を低くした。

長い脚を折りたたみ、背を差し出すように、その場に伏せる。


ユリアは、きょとんとした。

「……どうしたの?」

クルルは伏せたまま、ユリアを見上げて、また短く鳴いた。

ルシアンが、ふっと気づいた。

「……乗れって、ことじゃないですか?」

「え、でも」

ユリアは戸惑った。

「治ったばかりなのに、そんな」

クルルは、急かすようにもう一度鳴いて、背をさらに低くした。

まるで、本当に乗れと言っているようだった。


「乗ってあげたほうが、機嫌がよさそうですよ」

ルシアンが手を差し出した。

「ほら、支えますから」

ユリアは観念したように小さく息を吐いた。

「つらそうだったら、すぐ降りますから」


ユリアは、おそるおそる、クルルの背に手を置いた。

羽毛は、やはり温かかった。

ルシアンに支えられて、そっと背にまたがる。


クルルは、二、三度足踏みをして体勢を整えると、

ゆっくりと立ち上がった。

ユリアを乗せても、平気そうに、しっかりと地を踏みしめている。


「……すごい」

ユリアは、少し高くなった視界に、目を丸くした。

「大丈夫みたい」

「歩き疲れた足には、ちょうどいいですね」

ルシアンは、クルルの隣に並んだ。

「よかったじゃないですか。専属の乗り物ができて」

「くるるっ」

クルルが抗議するように鳴いた。

「ごめんな。乗り物じゃなくて、仲間だな」

ルシアンが優しく羽毛を撫でてやると、クルルは機嫌を直したように

喉の奥を鳴らして応えた。

ユリアが、また笑った。


泥のついた裾も、疲れた顔も、その笑みの中では少しだけ薄れて見えた。

さっきまで震えていた少女が、助かった命を前にして、

心から笑っている。


ルシアンは、何か言おうとして、結局やめた。



その夜、三人と一羽は、旧街道沿いの木立の陰で野営した。


焚き火が、ぱちぱちと音を立てて爆ぜている。

煙の匂いと、遠くで鳴く虫の声。


クルルは、ユリアのすぐそばで長い首を体に巻き込むようにして、

丸くなって眠っていた。

ユリアは時々、その羽毛をそっと撫でていた。

ルシアンは、焚き火に枝をくべながら、その様子を見ていた。


「ユリアさんって」

ルシアンは火を見つめたまま言った。

「放っておけないんですね」

「え?」

「自分が追われてるのに、魔犬に襲われてるクッカまで助けるんだから」


ユリアは、眠るクルルに目を落とした。

「……見捨てたら、きっと、後悔します」

少し間を置いて、彼女は続けた。

「あの時、声が聞こえて、見なかったことにして通り過ぎたら。

きっと、ずっと覚えてる気がして」

「そういうところ、危なっかしいです」

「……すみません」

「責めてるわけじゃないです」

ルシアンは、枝をもう一本、火にくべた。


「たぶん、いいところなんだと思います」

言ってから、自分でも少し踏み込みすぎた気がした。


焚き火の赤い光が、ユリアの頬を淡く照らしている。

彼女は驚いたようにルシアンを見て、それから、

困ったように目を伏せた。

「……そう、でしょうか」

「少なくとも、僕はそう思います」

ルシアンは火を見たまま答えた。

今度は、ユリアのほうを見られなかった。


ユリアは何か言いかけて、けれど言葉にできず、

眠るクルルの羽毛をそっと撫でた。

「……ありがとうございます」


小さな声だった。

焚き火の音に紛れてしまいそうなほど。


それでも、ルシアンにはちゃんと聞こえた。


焚き火の向こう、少し離れた岩に背を預けて、

マティウスが座っていた。

穏やかな顔で、二人と一羽のほうを眺めている。


だが、その視線が向いていたのは、ユリアでも、

ルシアンでも、クルルでもなかった。

ユリアが胸元に抱えた、布にくるまれた黒真珠。

その一点だけを、彼は静かに見つめていた。



翌朝、三人と一羽は、ヴェネスへ続く旧街道を、再び歩き出した。


ユリアはクルルの背に揺られながら、布の上から、

そっと黒い石を握っていた。

昨日の、あの「どくん」という感触が、

まだ掌の奥に残っているような気がした。


「昨日……」

彼女は、隣を歩くルシアンに、ぽつりと言った。

「黒真珠が、一瞬だけ動いた気がして……」

ルシアンが、心配そうに振り向いた。

「痛みますか?」

「いいえ」

ユリアは首を振った。

「ただ、少しだけ……」

彼女は、握った石に視線を落とした。

「生きてるみたいで……」


ルシアンは、それに何と返せばいいのか分からず、

ただ少しだけ、ユリアのほうへ歩み寄った。


先頭を行くマティウスは、前を向いたまま歩いていた。

木漏れ日が、その広い背中の上で揺れている。


ユリアの手の中で、黒真珠はもう動かなかった。

けれど、あの一度きりの鼓動だけは、いつまでも掌の奥に残っていた。

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