-黒真珠の少女- 第2話 水車小屋の約束
水車は、もう何年も回っていなかった。
朽ちた羽根の隙間から差し込む夕日が、床の埃を細く照らしている。
流れの止まった水路には黒い水が溜まり、苔の匂いがした。
ルシアンは戸口の柱に肩を預け、外の気配を窺っていた。
林を抜けてここまで来る間、追手の足音はなかった。
少なくとも、今は。
ユリアは部屋の隅に座り込んでいた。
膝を抱え、その膝の上に、黒い石を布でくるんだものを乗せている。
両手で包むようにして、決して手放さない。
マティウスだけが、妙に落ち着いていた。
割れた窓の縁に腰かけ、街道のほうを眺めながら、口笛でも吹きそうな顔をしている。
◇
「さて」
とマティウスが膝を打った。
「ひとまず、命拾いした祝いに名乗り合うとするか。一緒に逃げる相手の名前も知らんのは、落ち着かないだろう」
ルシアンは柱から背を起こした。
「ルシアンです。ついさっき言いましたけど」
「肩書きまでは聞いてないぞ」
ルシアンは少し間を置いてから、首に残ったままの重い鉄輪に指をやった。
「メディオラム闘技場の、逃亡奴隷です。剣闘士やってました。昨日まで」
「昨日まで、か」
マティウスが面白そうに笑った。
「景気のいい話だ」
「景気がいいかどうかは、これからですね」
ルシアンは肩をすくめた。
「行く当ては、まだないので」
帝国を恨んでいないわけではない。
だが、それを語るつもりはなかった。
恨み言を並べたところで、檻の中で費やした年月が戻るわけではない。
ルシアンが欲しかったのは、ただ自分の足で歩ける人生だった。それ以上でも、以下でもない。
自然と視線が、部屋の隅の少女へ向いた。
「君は?」
ユリアは顔を上げた。
まだ目の縁が赤い。
けれど、声は思ったよりしっかりしていた。
「ユリア、です」
その瞬間、ルシアンは言葉を詰まらせた。
斜めに差し込む夕日が、彼女の柔らかな金髪を黄金色に縁取っていた。
怯えて縮こまっているのに、こちらを見る碧眼だけは、まっすぐだった。
初めて会った時の血生臭い状況の中でも、深く頭を下げてきた時と同じ、芯のある目だ。
「……ルシアンさん?」
「あ、はい……すみません。ちょっと……」
ルシアンは慌てて目を逸らした。
何を言えばいいのか、一瞬分からなくなった。
「まあな、兄ちゃん。気持ちはわかるぞ」
窓辺でマティウスが、からかうように笑った。
「そんな顔で名乗られたら、返事のひとつも忘れる」
「そういう話じゃないです」
言い返した声が少しだけ遅れた。
そのせいで、説得力はほとんどなかった。
ユリアは困ったように、布の包みを抱える手に力を込めた。
白い頬が、夕陽のせいだけではなく、ほんのりと染まっている。
ルシアンはそれを見て、ますます言葉を失い、ただ口ごもるしかなかった。
◇
「俺はマティウス」
黒衣の男が、改めて胸に手を当てた。
「名乗るような立派な身分はないがね。帝国と揉めた連中の逃げ道を、少しばかり知ってる。それと──」
彼はユリアの抱える包みに目をやった。
「そういう厄介なものについて、多少詳しい」
ユリアの手が、わずかに強張った。
「それ、目立つな」
マティウスがふいに言って、窓辺から下りてきた。
視線はルシアンの首に向いている。
「おしゃれでしょう?」
「檻の中じゃあな」
マティウスが呆れたように息を吐いた。
「闘技場の首輪なんてつけたままだと、街道で見られた瞬間に正体がばれる。外しておけ」
「外せるんですか? これ」
ルシアンは鉄輪に触れた。
昨夜の脱走のときに留め具を一度こじ開けようとして、失敗したものだった。
「専用の鍵がないと──」
「鍵はいらん。留め具がもう傷んでる。切ったほうが早い」
マティウスは腰から短剣を抜いた。
刃が、夕日を鈍く弾いた。
「動くなよ。逸れると首を裂く」
ルシアンは壁際に座らされ、顎を上げさせられた。
マティウスの大きな手が後頭部を支え、もう片方の手で短剣の切っ先を、鉄輪と首の隙間へ容赦なく差し込んでくる。
冷たい刃が、喉のすぐ上を滑った。
ルシアンの全身が、一瞬だけ強張った。
首に刃を当てられる感覚を、彼は知りすぎていた。
檻の中で、見世物の合間に、看守の気まぐれで、逆らえば斬ると何度も突きつけられてきた。
指先まで力が入り、息が浅くなる。
「……えっと」
声が、わずかに上ずった。
「手元、確かなんですよね?」
「黙ってろ。喋ると喉が動く」
刃が、留め具の継ぎ目に食い込む。
錆びた金属が、軋んだ。
ユリアが、自分の首を押さえるようにして息を止めて見つめていた。
——ガチリ、と硬い音がして、鉄輪が割れた。
重い金属が、床に転がった。
間の抜けた音を立てて、埃の上で止まる。
ルシアンは、ゆっくりと首に手をやった。
何もない。
長いこと皮膚に食い込んでいた重みが、消えていた。
輪の形のまま、赤い跡が残っているだけだった。
「……軽いな」
思わず、そう呟いていた。
「軽いだろう」
マティウスは短剣を鞘に戻した。
「これでお前は、ただの腕の立つ兄ちゃんだ」
ルシアンは床に転がった鉄輪を見下ろした。たったこれだけのものに、何年も縛られていた。
力任せに蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、やめた。
そんなことをしても、惨めな時間が戻るわけではない。
代わりに、ルシアンはふっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
マティウスは肩を叩いた。
「それより、その首元を晒して歩くな。跡が引くまで何か巻いとけ」
ユリアが、ルシアンの首の赤い跡を見つめていた。
何か言いたそうに口を開きかけて、けれど、すぐには言葉にできずに、そっと膝の包みに視線を落とした。
ルシアンは、乱暴だが首輪を外してくれたこの男を、ひとまず敵ではないと見てもいいような気がした。
◇
「それで」
ルシアンは膝を崩して座り直した。
「ひとつ、間抜けな質問していいですか」
ユリアが顔を上げる。
「その黒い石」
ルシアンは包みを指した。
「そんなに帝国に追われる原因になるなら、捨てちゃ駄目なんですか?」
ユリアは、すぐには答えなかった。
布の包みを、両手でぎゅっと握りしめる。
指の節が白くなるほど力が入っていた。
やがて、彼女は俯いたまま、小さな声で言った。
「捨てました」
「え」
「一度、崖から投げました。次の朝、枕元に戻ってました」
彼女の声が、わずかに震えた。
「川に流しました。そうしたら……川辺の草が、黒くなって、枯れて。虫が、落ちて……動かなくなって」
彼女は包みを抱える腕に力を込めた。
「私が拾い直したら、止まりました。でも、虫は、もう……」
「……なるほど」
マティウスが低く呟いた。
「離れれば、周囲から命を取るわけか」
ユリアは頷けなかった。
それを認めるのが怖いように、ただ俯いていた。
「村に、子供がいて……最初に治した子です」
少し迷ってから、彼女は続けた。
「またあの子が怪我をしたらって思うと、怖くて。助けたいのに、助けたら、別の何かを傷つけるのかもしれないって」
膝の上に乗せた両手が、小さく震えていた。
「この力は、誰かを助けているんじゃなくて。どこかから、何かを、奪ってるのかもしれません。だから……」
ユリアは言葉を切った。続きを言うのが、怖いように。
水車小屋の中が、ひどく静かになった。
止まった水路から、苔の匂いが立ちのぼっている。
ルシアンは、何と言えばいいのか分からなかった。
綺麗なだけの慰めの言葉は、どれも嘘くさく思えた。
ユリアは、ただ守られて泣いているだけの少女ではなかった。
自分の手が誰かを傷つけたかもしれないという罪悪感を、ちゃんと自分で抱え込んで、怯えていた。
それが、ルシアンには痛いほど分かった。
「……それ、君のせいですか?」
ルシアンが言うと、ユリアが顔を上げた。
「拾っちゃ駄目だなんて、その辺に立て札でもあったわけじゃないでしょう? きれいだから拾った。子供が泣いてたから、手をかざした。当たり前のことです」
ルシアンは肩をすくめた。
「悪いのは、その石です。君じゃない」
ユリアは、しばらくルシアンの黒い瞳を見ていた。
「……ありがとうございます」
ほんの少しだけ、張り詰めていた肩の力が抜けたように見えた。
「その石を、お前から切り離せるかもしれん」
それまで黙って聞いていたマティウスが、ふいに口を開いた。
「本当、ですか?」
ユリアが弾かれたように振り向いた。
「ああ。古びた記録に残っている。こういう黒い石を鎮める神殿のことがな。そこで正しい儀式をやれば、お前からその石を切り離せるかもしれん」
「かもしれない、ですか」
ルシアンが口を挟むと、マティウスは鼻を鳴らした。
「こんな厄介な代物だ。確実とは言えん。だが、可能性があるのは、俺の知る限りそこだけだ」
ルシアンは、なるほど、と思った。
少なくとも、耳触りのいいことだけを並べる男には見えなかった。
「それで、どこなんです? その神殿とやらは」
「南の海の向こう。属州ネフェルティアの砂漠の奥にある古代神殿だ」
マティウスは窓の外、暮れていく空のほうへ顎をしゃくった。
ユリアは黙って、包みを見つめていた。
長い沈黙のあと、彼女は顔を上げた。
「行きます」
声は小さかったが、そこに迷いはなかった。
「これを……今度こそ手放して、村に帰りたいんです。このままじゃ、誰かを傷つけ続けるかもしれない……それは、嫌です」
彼女は包みを胸に寄せた。
「だから……行きます。その神殿に」
マティウスは、少しだけ目を細めて頷いた。
ルシアンは、すぐには何も言えなかった。
逃げたいのだと思っていた。
帝国から。
黒真珠から。自分を取り囲む怖いものすべてから。
けれど、違った。
この子は、逃げたいんじゃない。
帰りたいのだ。
羊を追って、井戸の水を汲んで、転んだ子供におまじないをかけていた、元の場所へ。
ただ、そこへ帰りたいだけなのだ。
ルシアンは、床に転がった自分の鉄輪を見た。
それから、包みを抱えて立ち上がろうとしているユリアを見た。
自分は、檻から逃げ出した。この子は、帰る場所を奪われようとしている。
似ているようで、少し違う。
けれど、放っておけないと思うには、十分だった。
「まあ」
ルシアンは立ち上がって、首の後ろをかいた。
「どうせ、自由になったばかりで行き先もないですし」
ユリアが驚いたように顔を上げた。
「それに、ここまで関わって、途中で放り出すのも、寝覚めが悪いですから」
ルシアンは無造作に剣を拾い上げた。
「護衛くらいは、やりますよ。剣しか取り柄はないですけど」
「寝覚めだけか?」
マティウスが、にやりとしてそう言った。
ルシアンは、少し詰まった。
「……だいたいは」
マティウスが豪快に声を上げて笑い、ユリアがまた、頬を染めて俯いた。
◇
ネフェルティアへ渡るなら、海路が早い。
三人はまず、南の港町ゲヌアを目指した。
街道を避け、林の縁と使われなくなった農道を進んで二日。
潮の匂いが風に混じり始めた頃、丘の上から港が見えた。
ルシアンは、丘の岩陰に身を伏せた。
「……これは」
港の入り口に、帝国の旗が立っていた。
桟橋の手前に厳重な柵が組まれ、鎧をまとった兵が列をなしている。
停泊した船には、出航を待つ人々が押し戻されていた。
兵が一人ひとり、荷も顔も念入りに検めている。
「封鎖されてますね」
「早いな」
マティウスが舌打ちした。
「もうここまで網を張ったか」
ユリアの顔が、さっと血の気が引いた。
「あの人たちは……私を、捕まえに?」
「だろうな」
マティウスは港の兵を睨んだ。
「ほらな。あいつらは、お前を逃がす気なんてない。村に帰すつもりもない。『保護』だの何だの、口では綺麗なことを言うがな。現実にやってるのはこれだ。港を全部塞いで、お前が網にかかるのを待っている」
風に乗って、桟橋の兵のやり取りが、切れ切れに届いた。
「……絶対に傷つけるな、丁重に扱え……保護と確保が最優先だ……」
「黒衣の、大男……剣を持った若い男が、同行……逃亡剣闘士には特に警戒を……」
ルシアンは眉をひそめた。
その言葉のどこかが、引っかかった。
(傷つけるな、丁重に……? 追い詰めて捕らえようとするなら、わざわざ現場にそんな言い方をするだろうか……)
だが、深く考えている余裕はなかった。
柵の向こうの兵の数を見れば、突っ込むのは論外だった。
「ここからは無理ですね」
ルシアンは岩陰から身を引いた。
「正面突破は自殺行為です」
「ゲヌアは使えないな」
マティウスがあっさり言った。
「どうするんです? ネフェルティアまで歩いて行くんですか?」
「いや。東の海岸に、ヴェネスって港町がある」
マティウスは振り返って、丘の反対側を指した。
「あそこなら、まだ抜け道がある。ファンネリア商会だ」
「ファンネリア……?」
「知らんのか? 百年以上続く、ヴェネスの大商会だ。あそこはネフェルティア航路の積荷船を持っている」
マティウスは口の端を上げた。
「正規の旅客船は、どこも帝国に押さえられてる。だが、商会の貨物船なら話は別だ。荷役でも下働きでも、船に紛れ込む口はある。封鎖の網を抜ける目はあるさ」
ルシアンは、ユリアを見た。
ユリアは包みを抱えたまま、不安そうに……けれど、行く先が示されたことに少しだけ安堵の表情を見せていた。
「ヴェネスまでは?」
「普通に歩けば、数日だ」
「普通に歩ける道なんですか?」
「帝国兵がいなけりゃな」
ルシアンはため息をついた。
街道は使えない。
林を抜け、山を越え、宿場の外れを縫って進むしかない。
長い道のりになる。
「まあ、行きましょう。ここで立ってても、港は開きませんし」
ユリアは、小さくうなずいた。
その手の中で、布に包まれた黒い石が、かすかに……本当にかすかに、脈打ったような気がした。
ユリアはそれを、ぎゅっと握りしめた。
マティウスは、二人に背を向けて、先へと歩き出した。
広い背が、夕暮れの斜面を下っていく。
今のユリアの目には、それが頼もしく映っていた。




