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-黒真珠の少女- 第2話 水車小屋の約束

水車は、もう何年も回っていなかった。


朽ちた羽根の隙間から差し込む夕日が、床の埃を細く照らしている。

流れの止まった水路には黒い水が溜まり、苔の匂いがした。


ルシアンは戸口の柱に肩を預け、外の気配を窺っていた。

林を抜けてここまで来る間、追手の足音はなかった。

少なくとも、今は。


ユリアは部屋の隅に座り込んでいた。

膝を抱え、その膝の上に、黒い石を布でくるんだものを乗せている。

両手で包むようにして、決して手放さない。


マティウスだけが、妙に落ち着いていた。

割れた窓の縁に腰かけ、街道のほうを眺めながら、口笛でも吹きそうな顔をしている。



「さて」

とマティウスが膝を打った。

「ひとまず、命拾いした祝いに名乗り合うとするか。一緒に逃げる相手の名前も知らんのは、落ち着かないだろう」


ルシアンは柱から背を起こした。

「ルシアンです。ついさっき言いましたけど」

「肩書きまでは聞いてないぞ」


ルシアンは少し間を置いてから、首に残ったままの重い鉄輪に指をやった。

「メディオラム闘技場の、逃亡奴隷です。剣闘士やってました。昨日まで」

「昨日まで、か」

マティウスが面白そうに笑った。

「景気のいい話だ」

「景気がいいかどうかは、これからですね」

ルシアンは肩をすくめた。

「行く当ては、まだないので」


帝国を恨んでいないわけではない。

だが、それを語るつもりはなかった。

恨み言を並べたところで、檻の中で費やした年月が戻るわけではない。

ルシアンが欲しかったのは、ただ自分の足で歩ける人生だった。それ以上でも、以下でもない。


自然と視線が、部屋の隅の少女へ向いた。

「君は?」

ユリアは顔を上げた。

まだ目の縁が赤い。

けれど、声は思ったよりしっかりしていた。

「ユリア、です」

その瞬間、ルシアンは言葉を詰まらせた。


斜めに差し込む夕日が、彼女の柔らかな金髪を黄金色に縁取っていた。

怯えて縮こまっているのに、こちらを見る碧眼だけは、まっすぐだった。

初めて会った時の血生臭い状況の中でも、深く頭を下げてきた時と同じ、芯のある目だ。


「……ルシアンさん?」

「あ、はい……すみません。ちょっと……」

ルシアンは慌てて目を逸らした。

何を言えばいいのか、一瞬分からなくなった。


「まあな、兄ちゃん。気持ちはわかるぞ」

窓辺でマティウスが、からかうように笑った。

「そんな顔で名乗られたら、返事のひとつも忘れる」

「そういう話じゃないです」


言い返した声が少しだけ遅れた。

そのせいで、説得力はほとんどなかった。

ユリアは困ったように、布の包みを抱える手に力を込めた。

白い頬が、夕陽のせいだけではなく、ほんのりと染まっている。


ルシアンはそれを見て、ますます言葉を失い、ただ口ごもるしかなかった。



「俺はマティウス」

黒衣の男が、改めて胸に手を当てた。

「名乗るような立派な身分はないがね。帝国と揉めた連中の逃げ道を、少しばかり知ってる。それと──」

彼はユリアの抱える包みに目をやった。

「そういう厄介なものについて、多少詳しい」

ユリアの手が、わずかに強張った。


「それ、目立つな」

マティウスがふいに言って、窓辺から下りてきた。

視線はルシアンの首に向いている。


「おしゃれでしょう?」

「檻の中じゃあな」

マティウスが呆れたように息を吐いた。

「闘技場の首輪なんてつけたままだと、街道で見られた瞬間に正体がばれる。外しておけ」

「外せるんですか? これ」

ルシアンは鉄輪に触れた。

昨夜の脱走のときに留め具を一度こじ開けようとして、失敗したものだった。


「専用の鍵がないと──」

「鍵はいらん。留め具がもう傷んでる。切ったほうが早い」

マティウスは腰から短剣を抜いた。

刃が、夕日を鈍く弾いた。


「動くなよ。逸れると首を裂く」

ルシアンは壁際に座らされ、顎を上げさせられた。

マティウスの大きな手が後頭部を支え、もう片方の手で短剣の切っ先を、鉄輪と首の隙間へ容赦なく差し込んでくる。


冷たい刃が、喉のすぐ上を滑った。

ルシアンの全身が、一瞬だけ強張った。

首に刃を当てられる感覚を、彼は知りすぎていた。


檻の中で、見世物の合間に、看守の気まぐれで、逆らえば斬ると何度も突きつけられてきた。

指先まで力が入り、息が浅くなる。


「……えっと」

声が、わずかに上ずった。

「手元、確かなんですよね?」

「黙ってろ。喋ると喉が動く」


刃が、留め具の継ぎ目に食い込む。

錆びた金属が、軋んだ。

ユリアが、自分の首を押さえるようにして息を止めて見つめていた。


——ガチリ、と硬い音がして、鉄輪が割れた。


重い金属が、床に転がった。

間の抜けた音を立てて、埃の上で止まる。


ルシアンは、ゆっくりと首に手をやった。

何もない。

長いこと皮膚に食い込んでいた重みが、消えていた。

輪の形のまま、赤い跡が残っているだけだった。


「……軽いな」

思わず、そう呟いていた。

「軽いだろう」

マティウスは短剣を鞘に戻した。

「これでお前は、ただの腕の立つ兄ちゃんだ」


ルシアンは床に転がった鉄輪を見下ろした。たったこれだけのものに、何年も縛られていた。

力任せに蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、やめた。

そんなことをしても、惨めな時間が戻るわけではない。

代わりに、ルシアンはふっと息を吐いた。


「ありがとうございます」

「礼はいい」

マティウスは肩を叩いた。

「それより、その首元を晒して歩くな。跡が引くまで何か巻いとけ」


ユリアが、ルシアンの首の赤い跡を見つめていた。

何か言いたそうに口を開きかけて、けれど、すぐには言葉にできずに、そっと膝の包みに視線を落とした。


ルシアンは、乱暴だが首輪を外してくれたこの男を、ひとまず敵ではないと見てもいいような気がした。



「それで」

ルシアンは膝を崩して座り直した。

「ひとつ、間抜けな質問していいですか」

ユリアが顔を上げる。

「その黒い石」

ルシアンは包みを指した。

「そんなに帝国に追われる原因になるなら、捨てちゃ駄目なんですか?」


ユリアは、すぐには答えなかった。

布の包みを、両手でぎゅっと握りしめる。

指の節が白くなるほど力が入っていた。


やがて、彼女は俯いたまま、小さな声で言った。

「捨てました」

「え」

「一度、崖から投げました。次の朝、枕元に戻ってました」

彼女の声が、わずかに震えた。


「川に流しました。そうしたら……川辺の草が、黒くなって、枯れて。虫が、落ちて……動かなくなって」

彼女は包みを抱える腕に力を込めた。

「私が拾い直したら、止まりました。でも、虫は、もう……」


「……なるほど」

マティウスが低く呟いた。

「離れれば、周囲から命を取るわけか」

ユリアは頷けなかった。

それを認めるのが怖いように、ただ俯いていた。


「村に、子供がいて……最初に治した子です」

少し迷ってから、彼女は続けた。

「またあの子が怪我をしたらって思うと、怖くて。助けたいのに、助けたら、別の何かを傷つけるのかもしれないって」


膝の上に乗せた両手が、小さく震えていた。

「この力は、誰かを助けているんじゃなくて。どこかから、何かを、奪ってるのかもしれません。だから……」

ユリアは言葉を切った。続きを言うのが、怖いように。


水車小屋の中が、ひどく静かになった。

止まった水路から、苔の匂いが立ちのぼっている。


ルシアンは、何と言えばいいのか分からなかった。

綺麗なだけの慰めの言葉は、どれも嘘くさく思えた。

ユリアは、ただ守られて泣いているだけの少女ではなかった。

自分の手が誰かを傷つけたかもしれないという罪悪感を、ちゃんと自分で抱え込んで、怯えていた。

それが、ルシアンには痛いほど分かった。


「……それ、君のせいですか?」

ルシアンが言うと、ユリアが顔を上げた。

「拾っちゃ駄目だなんて、その辺に立て札でもあったわけじゃないでしょう? きれいだから拾った。子供が泣いてたから、手をかざした。当たり前のことです」

ルシアンは肩をすくめた。

「悪いのは、その石です。君じゃない」


ユリアは、しばらくルシアンの黒い瞳を見ていた。

「……ありがとうございます」

ほんの少しだけ、張り詰めていた肩の力が抜けたように見えた。


「その石を、お前から切り離せるかもしれん」

それまで黙って聞いていたマティウスが、ふいに口を開いた。

「本当、ですか?」

ユリアが弾かれたように振り向いた。


「ああ。古びた記録に残っている。こういう黒い石を鎮める神殿のことがな。そこで正しい儀式をやれば、お前からその石を切り離せるかもしれん」

「かもしれない、ですか」

ルシアンが口を挟むと、マティウスは鼻を鳴らした。

「こんな厄介な代物だ。確実とは言えん。だが、可能性があるのは、俺の知る限りそこだけだ」


ルシアンは、なるほど、と思った。

少なくとも、耳触りのいいことだけを並べる男には見えなかった。

「それで、どこなんです? その神殿とやらは」

「南の海の向こう。属州ネフェルティアの砂漠の奥にある古代神殿だ」

マティウスは窓の外、暮れていく空のほうへ顎をしゃくった。

ユリアは黙って、包みを見つめていた。


長い沈黙のあと、彼女は顔を上げた。

「行きます」

声は小さかったが、そこに迷いはなかった。

「これを……今度こそ手放して、村に帰りたいんです。このままじゃ、誰かを傷つけ続けるかもしれない……それは、嫌です」

彼女は包みを胸に寄せた。

「だから……行きます。その神殿に」

マティウスは、少しだけ目を細めて頷いた。


ルシアンは、すぐには何も言えなかった。

逃げたいのだと思っていた。

帝国から。

黒真珠から。自分を取り囲む怖いものすべてから。


けれど、違った。

この子は、逃げたいんじゃない。

帰りたいのだ。

羊を追って、井戸の水を汲んで、転んだ子供におまじないをかけていた、元の場所へ。

ただ、そこへ帰りたいだけなのだ。


ルシアンは、床に転がった自分の鉄輪を見た。

それから、包みを抱えて立ち上がろうとしているユリアを見た。


自分は、檻から逃げ出した。この子は、帰る場所を奪われようとしている。

似ているようで、少し違う。

けれど、放っておけないと思うには、十分だった。


「まあ」

ルシアンは立ち上がって、首の後ろをかいた。

「どうせ、自由になったばかりで行き先もないですし」

ユリアが驚いたように顔を上げた。

「それに、ここまで関わって、途中で放り出すのも、寝覚めが悪いですから」


ルシアンは無造作に剣を拾い上げた。

「護衛くらいは、やりますよ。剣しか取り柄はないですけど」

「寝覚めだけか?」

マティウスが、にやりとしてそう言った。

ルシアンは、少し詰まった。

「……だいたいは」

マティウスが豪快に声を上げて笑い、ユリアがまた、頬を染めて俯いた。



ネフェルティアへ渡るなら、海路が早い。


三人はまず、南の港町ゲヌアを目指した。

街道を避け、林の縁と使われなくなった農道を進んで二日。


潮の匂いが風に混じり始めた頃、丘の上から港が見えた。

ルシアンは、丘の岩陰に身を伏せた。

「……これは」


港の入り口に、帝国の旗が立っていた。

桟橋の手前に厳重な柵が組まれ、鎧をまとった兵が列をなしている。

停泊した船には、出航を待つ人々が押し戻されていた。

兵が一人ひとり、荷も顔も念入りに検めている。


「封鎖されてますね」

「早いな」

マティウスが舌打ちした。

「もうここまで網を張ったか」


ユリアの顔が、さっと血の気が引いた。

「あの人たちは……私を、捕まえに?」

「だろうな」

マティウスは港の兵を睨んだ。

「ほらな。あいつらは、お前を逃がす気なんてない。村に帰すつもりもない。『保護』だの何だの、口では綺麗なことを言うがな。現実にやってるのはこれだ。港を全部塞いで、お前が網にかかるのを待っている」


風に乗って、桟橋の兵のやり取りが、切れ切れに届いた。


「……絶対に傷つけるな、丁重に扱え……保護と確保が最優先だ……」

「黒衣の、大男……剣を持った若い男が、同行……逃亡剣闘士には特に警戒を……」


ルシアンは眉をひそめた。

その言葉のどこかが、引っかかった。

(傷つけるな、丁重に……? 追い詰めて捕らえようとするなら、わざわざ現場にそんな言い方をするだろうか……)


だが、深く考えている余裕はなかった。

柵の向こうの兵の数を見れば、突っ込むのは論外だった。


「ここからは無理ですね」

ルシアンは岩陰から身を引いた。

「正面突破は自殺行為です」

「ゲヌアは使えないな」

マティウスがあっさり言った。

「どうするんです? ネフェルティアまで歩いて行くんですか?」

「いや。東の海岸に、ヴェネスって港町がある」


マティウスは振り返って、丘の反対側を指した。

「あそこなら、まだ抜け道がある。ファンネリア商会だ」

「ファンネリア……?」

「知らんのか? 百年以上続く、ヴェネスの大商会だ。あそこはネフェルティア航路の積荷船を持っている」


マティウスは口の端を上げた。

「正規の旅客船は、どこも帝国に押さえられてる。だが、商会の貨物船なら話は別だ。荷役でも下働きでも、船に紛れ込む口はある。封鎖の網を抜ける目はあるさ」


ルシアンは、ユリアを見た。

ユリアは包みを抱えたまま、不安そうに……けれど、行く先が示されたことに少しだけ安堵の表情を見せていた。


「ヴェネスまでは?」

「普通に歩けば、数日だ」

「普通に歩ける道なんですか?」

「帝国兵がいなけりゃな」

ルシアンはため息をついた。


街道は使えない。

林を抜け、山を越え、宿場の外れを縫って進むしかない。

長い道のりになる。


「まあ、行きましょう。ここで立ってても、港は開きませんし」

ユリアは、小さくうなずいた。


その手の中で、布に包まれた黒い石が、かすかに……本当にかすかに、脈打ったような気がした。

ユリアはそれを、ぎゅっと握りしめた。


マティウスは、二人に背を向けて、先へと歩き出した。

広い背が、夕暮れの斜面を下っていく。


今のユリアの目には、それが頼もしく映っていた。

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