-黒真珠の少女- 第1話 黒真珠と逃亡者
帝国歴143年。サンシャーラ歴 前403年。
メディオラムの西、タウリナ地方の山あいにある小さな村。
朝露がまだ乾ききらない時刻、ユリアは村外れの草むらにしゃがみ込んでいた。
16歳になる彼女は、年のわりに小柄だった。
風に揺れる金髪を耳にかけ、散りかけた羊の群れを追っていたのだが、戻ろうとしたところで、足元の草の根元で、何かが光っているのに気づいた。
羊のほうへ向けていた視線を戻し、ユリアは足を止めた。
朝露かと思った。
だが違う。
草をかき分けると、そこには石とも宝石ともつかない黒い欠片が埋もれていた。
掌に乗せると、表面に朝の空が映り込み、わずかに身じろぎするように光が滑る。
割れた断面のはずなのに、角が指に痛くない。
むしろ、しっとりと吸いつくようだった。
「……きれい」
その一言が、誰に向けるでもなく口からこぼれた。
どこから来たのか、何であるのか、ユリアは知らなかった。
ただ、朝の草の中で、それは黒い真珠のように静かに光っていた。
ユリアはそれを布の端でくるみ、懐に入れて立ち上がる。
羊たちはもう、村のほうへ歩き出していた。
◆
村はいつも通りだった。
井戸端では女たちが洗濯桶を囲み、広場では子供たちが棒を振り回している。
昼餉の煙が幾筋も立ちのぼり、空気には焼いた麦と土の匂いが混じっていた。
ユリアが井戸の水を汲んでいると、すぐそばで走り回っていた男の子が、石につまずいて転んだ。
膝を擦りむいて、わっと泣き出す。
「痛い、痛い……!」
「ほら、見せて。男の子でしょ、そんなに泣かないの」
ユリアは桶を置いて駆け寄り、子供の前に膝をついた。
砂のついた膝小僧から、赤い血が滲んでいる。
男の子は涙で濡れた目をこすりながら、膝を差し出した。
「お姉ちゃん、いつものやって」
「はいはい。動かないでね」
ユリアはその傷の上に、そっと手をかざした。
それは魔法でも何でもない。
村の子が転ぶたびに、彼女はいつもそうしてきた。
「痛みよ、風に帰って」
幼い頃から繰り返してきた、何の力もない、慰めのおまじない。
──いつもなら、そうだった。
ユリアの掌の奥が、ちりっと熱を持った。
懐に入れた黒い石が、ほんの一瞬だけ熱を持った気がした。
子供の泣き声が、ふと止んだ。
ユリアは慌てて手を引いた。
砂と血で汚れていたはずの膝が、何事もなかったように戻っていた。
傷も、血も、ない。
洗い立てのように綺麗な肌があるだけだった。
子供がきょとんと自分の膝を見て、それから不思議そうにユリアの顔を見上げた。
「痛くない……お姉ちゃん、血が消えちゃった」
ユリア自身も、自分の掌を見つめたまま動けなかった。
血を拭ったわけでもないのに、手は汚れていない。
近くで洗濯をしていた女が、桶の縁から手を離した。
木の桶が地面に転がる、間の抜けた音がした。
◆
その日の夜、ユリアは黒い石を捨てようとした。
昼間のことが、頭から離れなかった。
きれいだと思って拾ったものが、ただの拾い物ではないと、もう分かっていた。
家の裏手の崖から、ユリアはそれを思い切り投げた。
黒い石は闇に溶けて、谷の底へ落ちていった。
翌朝、目を覚ますと、それは枕元の布の上にあった。
ユリアは短く息を呑んだ。
誰かが拾って届けたのではない。
布のくるみ方まで、自分が最後に包んだときのままだった。
今度は、もっと遠くまで持っていった。
村外れの川は、洗い場にも使われている細い流れだった。
朝早い時間なら人も少ない。
ユリアは岸辺にしゃがみ込み、震える指で布をほどいた。
黒い石は、掌の上で静かに光っていた。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
ユリアはそれを、水の中へ落とした。
黒い石は小さな音を立てて沈み、流れに呑まれていった。
水面に輪が広がる。
ユリアはそれを見つめたまま、息を止めていた。
最初に変わったのは、足元の草だった。
川辺の青い草が、濡れた墨を落としたように色を失っていく。
細い葉が萎れ、黒く縮れた。
ユリアは思わず後ずさった。
その足が、別の草を踏む。
踏まれた葉も、じわじわと黒ずんでいった。
水面が薄く濁り、小さな羽虫が一匹、草の上に落ちた。
「やめて……」
声にした途端、川の流れの端で、きらりと何かが光った。
流されたはずの黒い石は、すぐそばの泥の上にあった。
まるで、そこから彼女を見上げていたかのように。
ユリアは震える手で、それを拾い上げた。
途端に、草の黒ずみが広がるのをやめた。
濁っていた水が、ゆっくりと元の色を取り戻していく。
落ちた羽虫だけは、もう動かなかった。
ユリアは黒い石を両手で包んだまま、しばらく立ち上がれなかった。
手放せば、近くの何かが傷つく。
持っていれば、それは止まる。
この黒い石は、願いを叶えてくれるものではない。
何かを助けるたびに、どこかから何かを奪っている。
そんな気がした。
それでも、もう簡単に捨てることはできなかった。
◆
噂は、村の中をゆっくりと巡った。
「ユリアが子供の傷を治した」
という素朴な話は、口から口へ渡るうちに形を変えた。
黒い石を拾った娘に不思議な力が宿った。
病人も治せるのではないか。
神の祝福ではないか。
病に伏せた老人を連れてくる者がいた。
手を合わせて拝む者がいた。
一方で、ユリアと目が合うと顔を背ける者もいた。
隠したほうがいいと言う者と、こういうことは帝国に届け出るべきだと言う者が、井戸端で言い争った。
ユリアは、そのどちらにも応えられなかった。
そして数日後、村の街道に、馬の蹄の音が連なって響いた。
◆
ユリアが想像していたより、将校は静かな男だった。
短く刈り揃えた茶褐色の髪に、氷のように静かな灰色の瞳。
マルクス・アエリウス・ヴァロと名乗ったその男は、十数騎を率いて村に入ってきたが、剣を抜かせなかった。
村人が遠巻きにする中、彼は馬を降り、ユリアの家の前で立ち止まった。
懐から、封蝋のついた書状を取り出す。
「ユリア嬢」
声は低く、抑揚に乏しかった。
「あなたを拘束しに来たのではない。保護しに来た」
ユリアは戸口に立ったまま、後ろ手に黒い石を握っていた。
家の奥には母が不安そうに息を潜めている。
広場には村人たちが固唾を飲んでこちらを見ている。
背後にいる全員の恐怖を、彼女は肌で感じていた。
「その黒真珠は、あなたの手に余るものだ」
「黒、真珠……」
ヴァロは続けた。
「すでに、いくつか起きているはずだ。捨てられない。離れれば、周囲に異変が起きる。違うか?」
ユリアの指が強張った。
ヴァロはその反応を見て、ひとつ頷いた。
咎める色はなかった。
ただ、事実を確認するだけの顔だった。
「我々は、あなたを利用するために来たのではない。それに呑まれる前に、隔離と治療を行う必要がある。メディオラムに、それを扱える施設がある」
言葉は正しかった。
少なくとも、嘘をついているようには聞こえなかった。
それでも、ユリアの周りには鎧をまとった兵が並び、馬が地を踏み鳴らしていた。
村を囲むように散らばった彼らの影を見ているだけで、息が浅くなる。
「……村の、みんなは?」
ユリアがやっと出した声は、それだけだった。
「村に害は及ぼさない。それは約束する」
ヴァロは手を差し出しはしなかった。
ただ、馬車のほうへ半歩、体を引いて、道を示した。
強いてはこなかった。
けれど、断れる雰囲気でもなかった。
ユリアは、母の顔を一度だけ振り返った。
それから、黒い石を胸元に寄せたまま、ゆっくりと戸口を出た。
◆
同じ頃、北の都メディオラムの地下では、ひとりの若者が薄暗い石の通路を歩いていた。
闘技場の地下牢は、血と藁と汗の匂いが染みついている。
若者──ルシアンは、首にはめられた重い鉄の輪に指を引っかけた。
額に張りついた黒髪を払うふりをしながら、格子の向こうの看守と、壁に落ちる松明の影を盗み見ている。
足取りは軽い。
まるで、獣が跳ぶ前に身を沈めるような、
油断のない軽さだった。
格子の向こうから、しわがれた声がかかった。
「明日の朝、お前は帝都行きだ」
ルシアンは足を止めた。
声の主は、この地下でいちばん長く生き残っている古株のヌッラだった。
「出世ですね」
ルシアンは肩をすくめた。
「首輪つきの英雄様、ってやつですか」
「嬉しそうじゃないな」
「嬉しい要素、ありました?」
ヌッラは笑い、格子の隙間から何かを滑らせてよこした。
錆びた鉄片だった。
「東の排水溝。明後日には水が抜けて、人ひとり通れる隙間ができる」
ヌッラは壁にもたれたまま言った。
「だが、お前が帝都に運ばれるのは明日だ」
ルシアンは鉄片を握りしめた。
帝都へ送られれば、二度と機会はない。
あそこは檻の中の檻だ。
逃げ出した奴隷の話は聞いたことがない。
「親切ですね。なんでまた」
「お前が逃げりゃ、当分この地下が荒れる。看守が殺気立つ。その隙に俺も動きやすくなる」
ヌッラは歯を見せた。
「礼を言われる筋合いはない」
「……まあ、そういう人のほうが信じられます」
ルシアンは鉄片をぼろ布に包み、懐へ滑り込ませた。
その夜、ルシアンは動いた。
排水溝には、まだ水が残っていた。
冷たい泥水に肩まで浸かり、首輪の鉄が石にこすれる音を殺しながら、ルシアンは隙間を抜けた。
錆びた鉄片は、何度も手から滑りかけた。
指先の感覚はとうにない。
それでも、格子の留め具が緩んだ瞬間、ルシアンは笑いそうになった。
背後で警鐘が鳴ったのは、すでに城壁の外に出てからだった。
「鳴らすのが遅いんですよ」
ルシアンは息を切らしながら、夜明け前の道を走った。
泥水を吸った服が、足にまとわりつく。
喉は焼けるように痛み、首に残った鉄輪が、走るたび鎖の名残のように鳴った。
二度と檻には戻らない。
誰かの持ち物のまま終わるのは、もうたくさんだった。
ルシアンは振り返らず、走り続けた。
◆
ヴァロの隊は、メディオラムへ続く街道を進んでいた。
ユリアは幌のかかった馬車の中で、膝の上に黒い石を置いていた。
向かいには護衛の兵が座っていたが、彼女に話しかけることはなかった。
村を離れて半日。
ヴァロが悪人でないことは、何となく感じていた。
乱暴なことはされていない。
兵たちも、ユリアに刃を向けたりはしなかった。
けれど、村が遠ざかるほど、不安は重くなった。
一度この人たちの施設に入ってしまえば、自分はどうなるのか。
この黒真珠は、本当に外せるのか。
村には帰れるのか。
誰も答えてはくれなかった。
馬車が、林に差しかかったときだった。
先頭の馬が嘶き、隊列が乱れた。
怒号が上がる。
何かが射かけられ、御者が崩れるように落ちた。
「敵襲! 馬車を守れ!」
ヴァロの声が響いた。
幌が切り裂かれ、ユリアは思わず黒い石を胸元へ寄せた。
外では剣戟の音、悲鳴、馬の暴れる音が入り乱れていた。
黒衣の男が、林の中から現れた。
大柄な長身を軽々と操り、男は馬車に飛び乗ると、ユリアを庇うように立ちはだかった。
風に乱れた赤い髪の下で、茶色の瞳が鋭く細められる。
帝国兵の槍が突き出された。
黒衣の男は刃でそれを受け流し、踏み込んだ勢いのまま、相手の喉元を裂いた。
血が散った。
倒れた兵の喉から、空気の漏れるような音がした。
ユリアは息をすることも忘れていた。
人が死ぬところを、初めて見た。
膝を擦りむいた子供の傷が消えたときとは、まるで違う。
赤いものが飛び散り、命が抜けていく。
そのあまりの速さに、ユリアの指先から力が抜けかけた。
「保護、ねえ」
男はヴァロのほうを見て、口の端を少しだけ上げた。
刃についた血を、無造作に振って落とす。
「ずいぶん綺麗な言葉を使うじゃないか。帝国が欲しがるものを、ただ守るだけで済ませるとは思えないがね」
「所属を名乗れ」
ヴァロは剣を構えたまま、抑えた声で言った。
「その娘から離れろ。貴様は保護任務の妨害をしている」
「聞いたか、お嬢さん」
男はちらりとユリアを見下ろした。
「保護任務だとさ。一度あいつらの手に渡れば、君はもう村には帰れない」
ユリアは混乱していた。
この黒衣の男は、自分を守ってくれているように見える。
実際、彼が来なければ、自分は帝国の馬車に乗せられたままだった。
それなのに、倒れた兵の喉から漏れた音が、まだ耳の奥に残っている。
血が散った瞬間、心臓が凍りついた。
この人は、怖い。
ヴァロも怖い。
鎧も、馬も、隊列も、逃げ道を塞ぐような沈黙も怖い。
だけど、少なくとも、ヴァロは嘘をついているようには見えなかった。
どちらを信じればいいのか、ユリアには判断できなかった。
◆
林の外れを、ルシアンは走っていた。
追手の松明はだいぶ後ろに引き離した。
あとは街道を逸れて、北の山に逃げ込めば──。
そう考えていた矢先、前方で剣戟の音が聞こえた。
ルシアンは足を止め、木の陰から覗き込んだ。
帝国兵が剣を抜いている。
馬車の上では、黒衣の男が少女を背に庇っている。
少女は黒い何かを胸元に抱き寄せて怯えている。
将校らしき男が、その娘を連れていこうとしている。
少なくとも、ルシアンの目には、そう映った。
「そこの兄ちゃん!」
黒衣の男が、こちらに気づいて叫んだ。
「手を貸せ! 帝国はこの娘を狙ってる!」
ルシアンは、首にはまったままの鉄の輪に、無意識に指をやった。
帝国の「保護」だの「管理」だのという言葉を、ルシアンは一度たりとも信じたことがなかった。
そういう綺麗な言葉のあとには、いつも檻があった。
首輪があった。
値札があった。
あの言葉の裏で、何人が檻に消えたかを知っている。
「……あー、はいはい」
ルシアンは溜息をついて、剣を抜いた。
逃走の途中で倒した兵から奪った、まだ血のついていない一振りだった。
「帝国が女の子を無理やり連れていく。だいたい事情はわかりました」
「わかるのか?」
黒衣の男が振り返る。
「嫌というほど」
ヴァロが、ルシアンの首の鉄輪に目を留めた。
「貴様、メディオラム闘技場の逃亡者か」
「耳が早いですね」
「その娘から離れろ。お前も利用されている」
その言葉に、ルシアンは少しだけ笑った。
「利用……ね。帝国の人に言われると、なかなか味がありますね」
ルシアンは林を駆け抜け、馬車のほうへ走った。
帝国兵の一人が槍を突き出してくる。
ルシアンは半身でそれをかわし、柄を掴んで引いた。
相手の足が一歩流れる。
その瞬間、ルシアンは踏み込み、膝裏を蹴り抜いた。
兵が崩れたところへ、剣の柄頭を兜の横に叩き込む。
鈍い音。
兵は声もなく地面に沈んだ。
鎧の隙間を狙えば殺せた。
だが、殺さずに済むなら、そのほうがよかった。
別の兵が斬りかかってくる。
ルシアンは刃を下から弾き上げ、相手の手首を打って剣を落とさせた。
返す動きで肩をぶつけ、馬車の車輪へ叩きつける。
「痛かったらすみませんね」
呻く兵に、ルシアンは軽く片手を上げた。
「でも、死ぬよりは安いでしょ」
これに対し、黒衣の男は違った。
倒れた兵がなお剣を拾おうとした瞬間、迷わず喉元へ刃を走らせた。
背を向けた一人にも、追撃を入れて動きを止める。
動きに無駄はない。
怒りに任せているわけでもない。
必要なことを、必要なだけ行っている。
そう言えば聞こえはいい。
けれどルシアンには、その背中が少しだけ冷たく見えた。
「殺さなくても、よかったんじゃないですか?」
ルシアンは、剣を下ろしながらつい口を挟んだ。
「甘いな」
男は刃を払って答えた。
「帝国兵は生かしておくと追ってくる。後で泣くのはこっちだ」
「……まあ、そういうもんですかね」
ルシアンは肩をすくめた。
追手を残さない。
筋は通っていた。
実際的な判断だ。
それでも、納得しきれない何かが胸の奥に残った。
息をするように人を殺すこの男の背中に、冷たいものを感じたからだ。
◆
ヴァロは、部下たちの動きを見ていた。
馬車は押さえられ、御者は倒れ、奇襲で隊列は裂かれている。
ユリアは黒衣の男と逃亡剣闘士のそばにいる。
ここで乱戦を続ければ、彼女を巻き込む危険があった。
「前に出過ぎるな!」
ヴァロは叫び、負傷した兵の前へ馬を寄せた。
斬り込もうとした若い兵の肩を掴み、後ろへ押し返す。
「保護対象に刃を向けるな! 距離を取れ!」
その声に、兵たちが一瞬踏みとどまった。
ルシアンはその隙を見逃さなかった。
足元の土を蹴り上げ、視界を奪う。
槍を構え直した兵の懐へ潜り込み、肘で鳩尾を打つ。
息の詰まった兵から槍を奪い、石突で別の兵の足を払った。
殺すつもりなら、もっと早く終わっていた。
だが、殺さないで倒すには、余計に手数がいる。
剣闘場で嫌というほど叩き込まれた間合いと呼吸が、今だけは役に立った。
黒衣の男は馬車の上に立ち、ユリアへ近づく兵だけを正確に斬り払っていた。
庇っているように見える。
実際、彼はユリアに刃を届かせなかった。
けれど、その足元に倒れる兵は、ルシアンが倒した者とは違って、もう起き上がらなかった。
戦いは長くは続かなかった。
御者を失い、奇襲を受けた帝国兵は、数の利を活かせなかった。
負傷者が増え、隊列は崩れていく。
「退け!」
ヴァロの声が、林に響いた。
傷ついた部下たちを馬の後ろに引き上げ、後退しながら、彼はルシアンのほうを見た。
「逃亡剣闘士」
その声は、戦いの中でも乱れていなかった。
「お前は判断を誤っている。その男を信用するな」
ルシアンは、剣を肩に担いで返した。
「帝国の人に信用を語られても、ちょっと困りますね」
ヴァロは、それ以上は言わなかった。
負傷した部下を庇い、彼は林の奥へと馬を返した。
◆
残されたのは、地に転がる気絶した兵と、息絶えた兵と、切り裂かれた幌だけだった。
将校の最後の言葉が、ルシアンの胸の隅に、小さな棘のように残った。
「助かったよ、兄ちゃん。あんた、腕が立つな」
黒衣の男が、剣を鞘に納めながら笑った。
三十代ほどだろうか。
見上げるほど高い背丈の男は、茶色の瞳を面白そうに細めている。
「俺はマティウス。この娘を帝国から逃がす」
「ルシアンです」
ルシアンも剣を下ろした。
黒い瞳が、警戒を解かずに相手を見据える。
「ついさっきまで、僕も帝国から逃げてました」
「そいつは都合がいい」
マティウスは声を上げて笑った。
ユリアは、まだ馬車の上に立ったまま、黒い石を胸元に寄せていた。
戦いが終わっても、彼女の鼓動は収まらなかった。
何が正しかったのか、まだ答えは出ない。
けれど、目の前のこの男が──ルシアンと名乗ったこの人が、帝国兵をできるだけ殺さずに倒していたのを、彼女は見ていた。
ユリアは馬車の縁に手をかけ、ルシアンを見た。
まだ足は震えていた。
胸元の黒い石を抱く指先にも、力が入りすぎている。
それでも、顔を上げてまっすぐにルシアンの目を見た。
そして、深く頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
ルシアンは、少し面食らったように頭をかいた。
こんな血生臭い状況で律儀に礼を言うことに、彼は妙に調子を狂わされた。
守られて泣いているだけの娘かと思っていた。
けれど、この子は怯えながらも、ちゃんと自分の足で立って、自分の言葉で礼を言っている。
放っておけない、と思った。
それがどういう感情なのかは、まだ自分でも分からなかった。
「……どういたしまして」
ルシアンは、ぶっきらぼうにそう返すのが精一杯だった。
一頭、手綱を引きずった馬が街道の端に残っていた。
マティウスはその手綱を掴んだ。
乗るのかとルシアンが思った瞬間、マティウスは手綱を外し、馬の尻を軽く叩いた。
驚いた馬が、いななきながら街道の向こうへ駆けていく。
「乗らないんですか?」
「帝国の馬だ。目立つし、足取りも読まれる」
マティウスは周囲へ視線を巡らせた。
「走らせておけば、少しは追手の目も散る。歩くぞ。街道は使わない」
ルシアンは短く息を吐き、ユリアに手を差し出した。
ユリアは、その手を見つめた。
まだ震えは止まらない。
けれど、さきほど彼が帝国兵をできるだけ殺さずに倒していたことを、彼女は覚えていた。
黒い石を胸元に抱いたまま、ユリアは差し出された手をそっと取った。
ルシアンは、強く引かなかった。
彼女が自分の足で地面へ降りるまで、ただ待っていた。
日はすでに傾きかけている。
街道の先には夕闇が広がり、三人の行く手を隠すように、林の影が深くなっていた。
◆
林の奥、撤退の途上で、ヴァロは馬を止めていた。
血の滲んだ布で腕を縛った部下が、苦しげに息をしている。
ヴァロはその傷を一瞥し、自らの水筒を無言で部下に手渡した。
それから、来た道のほうを振り返った。
「追跡を継続する」
声は静かだった。
だが、退く気配はなかった。
「保護対象ユリアは、黒衣の男と逃亡剣闘士により奪取された。主要街道と港へ通達を出せ」
部下が顔を上げた。
「港、ですか」
「あの娘は、いずれ海を渡ろうとする。陸路だけでは逃げ切れぬと悟れば、必ず船を探す」
ヴァロは手綱を握り直した。
「この地方から海へ抜けるなら、最も近い大きな港はゲヌアだ。港を押さえろ。一隻たりとも勝手に出させるな」
「はっ!」
馬が、夕闇の中へ駆け出した。
お読みいただきありがとうございます。
本作は全14話、毎朝7時更新予定です。
短い旅の物語になりますので、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。




