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-黒真珠の少女- 第1話 黒真珠と逃亡者

帝国歴143年。サンシャーラ歴 前403年。


メディオラムの西、タウリナ地方の山あいにある小さな村。


朝露がまだ乾ききらない時刻、ユリアは村外れの草むらにしゃがみ込んでいた。


16歳になる彼女は、年のわりに小柄だった。

風に揺れる金髪を耳にかけ、散りかけた羊の群れを追っていたのだが、戻ろうとしたところで、足元の草の根元で、何かが光っているのに気づいた。


羊のほうへ向けていた視線を戻し、ユリアは足を止めた。


朝露かと思った。

だが違う。


草をかき分けると、そこには石とも宝石ともつかない黒い欠片が埋もれていた。


掌に乗せると、表面に朝の空が映り込み、わずかに身じろぎするように光が滑る。

割れた断面のはずなのに、角が指に痛くない。

むしろ、しっとりと吸いつくようだった。


「……きれい」


その一言が、誰に向けるでもなく口からこぼれた。


どこから来たのか、何であるのか、ユリアは知らなかった。

ただ、朝の草の中で、それは黒い真珠のように静かに光っていた。


ユリアはそれを布の端でくるみ、懐に入れて立ち上がる。

羊たちはもう、村のほうへ歩き出していた。



村はいつも通りだった。


井戸端では女たちが洗濯桶を囲み、広場では子供たちが棒を振り回している。

昼餉の煙が幾筋も立ちのぼり、空気には焼いた麦と土の匂いが混じっていた。


ユリアが井戸の水を汲んでいると、すぐそばで走り回っていた男の子が、石につまずいて転んだ。

膝を擦りむいて、わっと泣き出す。


「痛い、痛い……!」

「ほら、見せて。男の子でしょ、そんなに泣かないの」

ユリアは桶を置いて駆け寄り、子供の前に膝をついた。

砂のついた膝小僧から、赤い血が滲んでいる。

男の子は涙で濡れた目をこすりながら、膝を差し出した。

「お姉ちゃん、いつものやって」

「はいはい。動かないでね」

ユリアはその傷の上に、そっと手をかざした。


それは魔法でも何でもない。

村の子が転ぶたびに、彼女はいつもそうしてきた。

「痛みよ、風に帰って」

幼い頃から繰り返してきた、何の力もない、慰めのおまじない。


──いつもなら、そうだった。


ユリアの掌の奥が、ちりっと熱を持った。

懐に入れた黒い石が、ほんの一瞬だけ熱を持った気がした。


子供の泣き声が、ふと止んだ。

ユリアは慌てて手を引いた。


砂と血で汚れていたはずの膝が、何事もなかったように戻っていた。

傷も、血も、ない。

洗い立てのように綺麗な肌があるだけだった。


子供がきょとんと自分の膝を見て、それから不思議そうにユリアの顔を見上げた。

「痛くない……お姉ちゃん、血が消えちゃった」


ユリア自身も、自分の掌を見つめたまま動けなかった。

血を拭ったわけでもないのに、手は汚れていない。


近くで洗濯をしていた女が、桶の縁から手を離した。

木の桶が地面に転がる、間の抜けた音がした。



その日の夜、ユリアは黒い石を捨てようとした。


昼間のことが、頭から離れなかった。

きれいだと思って拾ったものが、ただの拾い物ではないと、もう分かっていた。


家の裏手の崖から、ユリアはそれを思い切り投げた。

黒い石は闇に溶けて、谷の底へ落ちていった。


翌朝、目を覚ますと、それは枕元の布の上にあった。


ユリアは短く息を呑んだ。

誰かが拾って届けたのではない。

布のくるみ方まで、自分が最後に包んだときのままだった。


今度は、もっと遠くまで持っていった。


村外れの川は、洗い場にも使われている細い流れだった。

朝早い時間なら人も少ない。

ユリアは岸辺にしゃがみ込み、震える指で布をほどいた。


黒い石は、掌の上で静かに光っていた。

「……ごめんなさい」

誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。

ユリアはそれを、水の中へ落とした。


黒い石は小さな音を立てて沈み、流れに呑まれていった。

水面に輪が広がる。

ユリアはそれを見つめたまま、息を止めていた。


最初に変わったのは、足元の草だった。

川辺の青い草が、濡れた墨を落としたように色を失っていく。

細い葉が萎れ、黒く縮れた。


ユリアは思わず後ずさった。

その足が、別の草を踏む。

踏まれた葉も、じわじわと黒ずんでいった。


水面が薄く濁り、小さな羽虫が一匹、草の上に落ちた。


「やめて……」


声にした途端、川の流れの端で、きらりと何かが光った。

流されたはずの黒い石は、すぐそばの泥の上にあった。

まるで、そこから彼女を見上げていたかのように。


ユリアは震える手で、それを拾い上げた。


途端に、草の黒ずみが広がるのをやめた。

濁っていた水が、ゆっくりと元の色を取り戻していく。

落ちた羽虫だけは、もう動かなかった。


ユリアは黒い石を両手で包んだまま、しばらく立ち上がれなかった。


手放せば、近くの何かが傷つく。

持っていれば、それは止まる。


この黒い石は、願いを叶えてくれるものではない。

何かを助けるたびに、どこかから何かを奪っている。

そんな気がした。


それでも、もう簡単に捨てることはできなかった。



噂は、村の中をゆっくりと巡った。


「ユリアが子供の傷を治した」

という素朴な話は、口から口へ渡るうちに形を変えた。


黒い石を拾った娘に不思議な力が宿った。

病人も治せるのではないか。

神の祝福ではないか。


病に伏せた老人を連れてくる者がいた。

手を合わせて拝む者がいた。

一方で、ユリアと目が合うと顔を背ける者もいた。


隠したほうがいいと言う者と、こういうことは帝国に届け出るべきだと言う者が、井戸端で言い争った。


ユリアは、そのどちらにも応えられなかった。


そして数日後、村の街道に、馬の蹄の音が連なって響いた。



ユリアが想像していたより、将校は静かな男だった。


短く刈り揃えた茶褐色の髪に、氷のように静かな灰色の瞳。

マルクス・アエリウス・ヴァロと名乗ったその男は、十数騎を率いて村に入ってきたが、剣を抜かせなかった。


村人が遠巻きにする中、彼は馬を降り、ユリアの家の前で立ち止まった。

懐から、封蝋のついた書状を取り出す。


「ユリア嬢」


声は低く、抑揚に乏しかった。


「あなたを拘束しに来たのではない。保護しに来た」


ユリアは戸口に立ったまま、後ろ手に黒い石を握っていた。

家の奥には母が不安そうに息を潜めている。

広場には村人たちが固唾を飲んでこちらを見ている。


背後にいる全員の恐怖を、彼女は肌で感じていた。


「その黒真珠は、あなたの手に余るものだ」

「黒、真珠……」

ヴァロは続けた。

「すでに、いくつか起きているはずだ。捨てられない。離れれば、周囲に異変が起きる。違うか?」


ユリアの指が強張った。

ヴァロはその反応を見て、ひとつ頷いた。

咎める色はなかった。

ただ、事実を確認するだけの顔だった。

「我々は、あなたを利用するために来たのではない。それに呑まれる前に、隔離と治療を行う必要がある。メディオラムに、それを扱える施設がある」


言葉は正しかった。

少なくとも、嘘をついているようには聞こえなかった。


それでも、ユリアの周りには鎧をまとった兵が並び、馬が地を踏み鳴らしていた。

村を囲むように散らばった彼らの影を見ているだけで、息が浅くなる。


「……村の、みんなは?」

ユリアがやっと出した声は、それだけだった。

「村に害は及ぼさない。それは約束する」

ヴァロは手を差し出しはしなかった。

ただ、馬車のほうへ半歩、体を引いて、道を示した。


強いてはこなかった。

けれど、断れる雰囲気でもなかった。


ユリアは、母の顔を一度だけ振り返った。

それから、黒い石を胸元に寄せたまま、ゆっくりと戸口を出た。



同じ頃、北の都メディオラムの地下では、ひとりの若者が薄暗い石の通路を歩いていた。


闘技場の地下牢は、血と藁と汗の匂いが染みついている。


若者──ルシアンは、首にはめられた重い鉄の輪に指を引っかけた。

額に張りついた黒髪を払うふりをしながら、格子の向こうの看守と、壁に落ちる松明の影を盗み見ている。


足取りは軽い。

まるで、獣が跳ぶ前に身を沈めるような、

油断のない軽さだった。


格子の向こうから、しわがれた声がかかった。

「明日の朝、お前は帝都行きだ」

ルシアンは足を止めた。

声の主は、この地下でいちばん長く生き残っている古株のヌッラだった。

「出世ですね」

ルシアンは肩をすくめた。

「首輪つきの英雄様、ってやつですか」

「嬉しそうじゃないな」

「嬉しい要素、ありました?」

ヌッラは笑い、格子の隙間から何かを滑らせてよこした。

錆びた鉄片だった。


「東の排水溝。明後日には水が抜けて、人ひとり通れる隙間ができる」

ヌッラは壁にもたれたまま言った。

「だが、お前が帝都に運ばれるのは明日だ」


ルシアンは鉄片を握りしめた。

帝都へ送られれば、二度と機会はない。

あそこは檻の中の檻だ。

逃げ出した奴隷の話は聞いたことがない。


「親切ですね。なんでまた」

「お前が逃げりゃ、当分この地下が荒れる。看守が殺気立つ。その隙に俺も動きやすくなる」

ヌッラは歯を見せた。

「礼を言われる筋合いはない」

「……まあ、そういう人のほうが信じられます」

ルシアンは鉄片をぼろ布に包み、懐へ滑り込ませた。


その夜、ルシアンは動いた。


排水溝には、まだ水が残っていた。

冷たい泥水に肩まで浸かり、首輪の鉄が石にこすれる音を殺しながら、ルシアンは隙間を抜けた。


錆びた鉄片は、何度も手から滑りかけた。

指先の感覚はとうにない。

それでも、格子の留め具が緩んだ瞬間、ルシアンは笑いそうになった。


背後で警鐘が鳴ったのは、すでに城壁の外に出てからだった。

「鳴らすのが遅いんですよ」

ルシアンは息を切らしながら、夜明け前の道を走った。

泥水を吸った服が、足にまとわりつく。

喉は焼けるように痛み、首に残った鉄輪が、走るたび鎖の名残のように鳴った。


二度と檻には戻らない。

誰かの持ち物のまま終わるのは、もうたくさんだった。

ルシアンは振り返らず、走り続けた。



ヴァロの隊は、メディオラムへ続く街道を進んでいた。


ユリアは幌のかかった馬車の中で、膝の上に黒い石を置いていた。

向かいには護衛の兵が座っていたが、彼女に話しかけることはなかった。


村を離れて半日。

ヴァロが悪人でないことは、何となく感じていた。

乱暴なことはされていない。

兵たちも、ユリアに刃を向けたりはしなかった。


けれど、村が遠ざかるほど、不安は重くなった。


一度この人たちの施設に入ってしまえば、自分はどうなるのか。

この黒真珠は、本当に外せるのか。

村には帰れるのか。

誰も答えてはくれなかった。


馬車が、林に差しかかったときだった。

先頭の馬が嘶き、隊列が乱れた。

怒号が上がる。

何かが射かけられ、御者が崩れるように落ちた。


「敵襲! 馬車を守れ!」

ヴァロの声が響いた。

幌が切り裂かれ、ユリアは思わず黒い石を胸元へ寄せた。

外では剣戟の音、悲鳴、馬の暴れる音が入り乱れていた。


黒衣の男が、林の中から現れた。

大柄な長身を軽々と操り、男は馬車に飛び乗ると、ユリアを庇うように立ちはだかった。

風に乱れた赤い髪の下で、茶色の瞳が鋭く細められる。


帝国兵の槍が突き出された。

黒衣の男は刃でそれを受け流し、踏み込んだ勢いのまま、相手の喉元を裂いた。


血が散った。


倒れた兵の喉から、空気の漏れるような音がした。

ユリアは息をすることも忘れていた。


人が死ぬところを、初めて見た。


膝を擦りむいた子供の傷が消えたときとは、まるで違う。

赤いものが飛び散り、命が抜けていく。


そのあまりの速さに、ユリアの指先から力が抜けかけた。


「保護、ねえ」


男はヴァロのほうを見て、口の端を少しだけ上げた。

刃についた血を、無造作に振って落とす。


「ずいぶん綺麗な言葉を使うじゃないか。帝国が欲しがるものを、ただ守るだけで済ませるとは思えないがね」


「所属を名乗れ」

ヴァロは剣を構えたまま、抑えた声で言った。

「その娘から離れろ。貴様は保護任務の妨害をしている」


「聞いたか、お嬢さん」

男はちらりとユリアを見下ろした。

「保護任務だとさ。一度あいつらの手に渡れば、君はもう村には帰れない」


ユリアは混乱していた。

この黒衣の男は、自分を守ってくれているように見える。

実際、彼が来なければ、自分は帝国の馬車に乗せられたままだった。


それなのに、倒れた兵の喉から漏れた音が、まだ耳の奥に残っている。

血が散った瞬間、心臓が凍りついた。


この人は、怖い。

ヴァロも怖い。

鎧も、馬も、隊列も、逃げ道を塞ぐような沈黙も怖い。


だけど、少なくとも、ヴァロは嘘をついているようには見えなかった。

どちらを信じればいいのか、ユリアには判断できなかった。



林の外れを、ルシアンは走っていた。


追手の松明はだいぶ後ろに引き離した。

あとは街道を逸れて、北の山に逃げ込めば──。


そう考えていた矢先、前方で剣戟の音が聞こえた。

ルシアンは足を止め、木の陰から覗き込んだ。


帝国兵が剣を抜いている。

馬車の上では、黒衣の男が少女を背に庇っている。

少女は黒い何かを胸元に抱き寄せて怯えている。

将校らしき男が、その娘を連れていこうとしている。

少なくとも、ルシアンの目には、そう映った。


「そこの兄ちゃん!」

黒衣の男が、こちらに気づいて叫んだ。

「手を貸せ! 帝国はこの娘を狙ってる!」


ルシアンは、首にはまったままの鉄の輪に、無意識に指をやった。

帝国の「保護」だの「管理」だのという言葉を、ルシアンは一度たりとも信じたことがなかった。

そういう綺麗な言葉のあとには、いつも檻があった。

首輪があった。

値札があった。

あの言葉の裏で、何人が檻に消えたかを知っている。


「……あー、はいはい」

ルシアンは溜息をついて、剣を抜いた。

逃走の途中で倒した兵から奪った、まだ血のついていない一振りだった。


「帝国が女の子を無理やり連れていく。だいたい事情はわかりました」

「わかるのか?」

黒衣の男が振り返る。

「嫌というほど」


ヴァロが、ルシアンの首の鉄輪に目を留めた。

「貴様、メディオラム闘技場の逃亡者か」

「耳が早いですね」

「その娘から離れろ。お前も利用されている」

その言葉に、ルシアンは少しだけ笑った。

「利用……ね。帝国の人に言われると、なかなか味がありますね」

ルシアンは林を駆け抜け、馬車のほうへ走った。


帝国兵の一人が槍を突き出してくる。

ルシアンは半身でそれをかわし、柄を掴んで引いた。

相手の足が一歩流れる。

その瞬間、ルシアンは踏み込み、膝裏を蹴り抜いた。

兵が崩れたところへ、剣の柄頭を兜の横に叩き込む。


鈍い音。

兵は声もなく地面に沈んだ。


鎧の隙間を狙えば殺せた。

だが、殺さずに済むなら、そのほうがよかった。


別の兵が斬りかかってくる。

ルシアンは刃を下から弾き上げ、相手の手首を打って剣を落とさせた。

返す動きで肩をぶつけ、馬車の車輪へ叩きつける。

「痛かったらすみませんね」

呻く兵に、ルシアンは軽く片手を上げた。

「でも、死ぬよりは安いでしょ」


これに対し、黒衣の男は違った。

倒れた兵がなお剣を拾おうとした瞬間、迷わず喉元へ刃を走らせた。

背を向けた一人にも、追撃を入れて動きを止める。


動きに無駄はない。

怒りに任せているわけでもない。

必要なことを、必要なだけ行っている。

そう言えば聞こえはいい。

けれどルシアンには、その背中が少しだけ冷たく見えた。


「殺さなくても、よかったんじゃないですか?」

ルシアンは、剣を下ろしながらつい口を挟んだ。

「甘いな」

男は刃を払って答えた。

「帝国兵は生かしておくと追ってくる。後で泣くのはこっちだ」

「……まあ、そういうもんですかね」

ルシアンは肩をすくめた。


追手を残さない。

筋は通っていた。

実際的な判断だ。


それでも、納得しきれない何かが胸の奥に残った。

息をするように人を殺すこの男の背中に、冷たいものを感じたからだ。



ヴァロは、部下たちの動きを見ていた。

馬車は押さえられ、御者は倒れ、奇襲で隊列は裂かれている。

ユリアは黒衣の男と逃亡剣闘士のそばにいる。

ここで乱戦を続ければ、彼女を巻き込む危険があった。


「前に出過ぎるな!」

ヴァロは叫び、負傷した兵の前へ馬を寄せた。

斬り込もうとした若い兵の肩を掴み、後ろへ押し返す。

「保護対象に刃を向けるな! 距離を取れ!」

その声に、兵たちが一瞬踏みとどまった。


ルシアンはその隙を見逃さなかった。

足元の土を蹴り上げ、視界を奪う。

槍を構え直した兵の懐へ潜り込み、肘で鳩尾を打つ。

息の詰まった兵から槍を奪い、石突で別の兵の足を払った。


殺すつもりなら、もっと早く終わっていた。

だが、殺さないで倒すには、余計に手数がいる。

剣闘場で嫌というほど叩き込まれた間合いと呼吸が、今だけは役に立った。


黒衣の男は馬車の上に立ち、ユリアへ近づく兵だけを正確に斬り払っていた。

庇っているように見える。

実際、彼はユリアに刃を届かせなかった。


けれど、その足元に倒れる兵は、ルシアンが倒した者とは違って、もう起き上がらなかった。


戦いは長くは続かなかった。

御者を失い、奇襲を受けた帝国兵は、数の利を活かせなかった。

負傷者が増え、隊列は崩れていく。


「退け!」

ヴァロの声が、林に響いた。

傷ついた部下たちを馬の後ろに引き上げ、後退しながら、彼はルシアンのほうを見た。


「逃亡剣闘士」

その声は、戦いの中でも乱れていなかった。

「お前は判断を誤っている。その男を信用するな」

ルシアンは、剣を肩に担いで返した。

「帝国の人に信用を語られても、ちょっと困りますね」


ヴァロは、それ以上は言わなかった。

負傷した部下を庇い、彼は林の奥へと馬を返した。



残されたのは、地に転がる気絶した兵と、息絶えた兵と、切り裂かれた幌だけだった。

将校の最後の言葉が、ルシアンの胸の隅に、小さな棘のように残った。


「助かったよ、兄ちゃん。あんた、腕が立つな」

黒衣の男が、剣を鞘に納めながら笑った。

三十代ほどだろうか。

見上げるほど高い背丈の男は、茶色の瞳を面白そうに細めている。


「俺はマティウス。この娘を帝国から逃がす」

「ルシアンです」

ルシアンも剣を下ろした。

黒い瞳が、警戒を解かずに相手を見据える。

「ついさっきまで、僕も帝国から逃げてました」

「そいつは都合がいい」

マティウスは声を上げて笑った。


ユリアは、まだ馬車の上に立ったまま、黒い石を胸元に寄せていた。

戦いが終わっても、彼女の鼓動は収まらなかった。

何が正しかったのか、まだ答えは出ない。


けれど、目の前のこの男が──ルシアンと名乗ったこの人が、帝国兵をできるだけ殺さずに倒していたのを、彼女は見ていた。


ユリアは馬車の縁に手をかけ、ルシアンを見た。

まだ足は震えていた。

胸元の黒い石を抱く指先にも、力が入りすぎている。

それでも、顔を上げてまっすぐにルシアンの目を見た。

そして、深く頭を下げた。

「助けてくれて、ありがとうございます」


ルシアンは、少し面食らったように頭をかいた。

こんな血生臭い状況で律儀に礼を言うことに、彼は妙に調子を狂わされた。

守られて泣いているだけの娘かと思っていた。


けれど、この子は怯えながらも、ちゃんと自分の足で立って、自分の言葉で礼を言っている。


放っておけない、と思った。

それがどういう感情なのかは、まだ自分でも分からなかった。


「……どういたしまして」

ルシアンは、ぶっきらぼうにそう返すのが精一杯だった。


一頭、手綱を引きずった馬が街道の端に残っていた。

マティウスはその手綱を掴んだ。

乗るのかとルシアンが思った瞬間、マティウスは手綱を外し、馬の尻を軽く叩いた。

驚いた馬が、いななきながら街道の向こうへ駆けていく。


「乗らないんですか?」

「帝国の馬だ。目立つし、足取りも読まれる」

マティウスは周囲へ視線を巡らせた。

「走らせておけば、少しは追手の目も散る。歩くぞ。街道は使わない」


ルシアンは短く息を吐き、ユリアに手を差し出した。


ユリアは、その手を見つめた。

まだ震えは止まらない。

けれど、さきほど彼が帝国兵をできるだけ殺さずに倒していたことを、彼女は覚えていた。


黒い石を胸元に抱いたまま、ユリアは差し出された手をそっと取った。


ルシアンは、強く引かなかった。

彼女が自分の足で地面へ降りるまで、ただ待っていた。


日はすでに傾きかけている。

街道の先には夕闇が広がり、三人の行く手を隠すように、林の影が深くなっていた。



林の奥、撤退の途上で、ヴァロは馬を止めていた。


血の滲んだ布で腕を縛った部下が、苦しげに息をしている。

ヴァロはその傷を一瞥し、自らの水筒を無言で部下に手渡した。

それから、来た道のほうを振り返った。


「追跡を継続する」

声は静かだった。

だが、退く気配はなかった。


「保護対象ユリアは、黒衣の男と逃亡剣闘士により奪取された。主要街道と港へ通達を出せ」


部下が顔を上げた。

「港、ですか」


「あの娘は、いずれ海を渡ろうとする。陸路だけでは逃げ切れぬと悟れば、必ず船を探す」


ヴァロは手綱を握り直した。


「この地方から海へ抜けるなら、最も近い大きな港はゲヌアだ。港を押さえろ。一隻たりとも勝手に出させるな」

「はっ!」


馬が、夕闇の中へ駆け出した。

お読みいただきありがとうございます。


本作は全14話、毎朝7時更新予定です。

短い旅の物語になりますので、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。

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