序文
ここに、編纂者ラトゥナ・ケートが記す。
帝国歴40年。
帝位を巡る内乱を制した五代皇帝は、かつてネフェルティアと呼ばれた砂と水路の国を併合し、地中海世界におけるレムリア帝国の覇権を確かなものとした。
王国は属州となり、古い神殿は封鎖され、運河と水門は帝国の管理下に置かれた。
商人たちは帝国の通行証を持って海を渡り、兵士たちは帝国の旗のもとで砂漠を歩いた。
この時代、世界はレムリアの秩序の中にあった。
少なくとも、帝国の正史にはそう記されている。
それから百有余年。
強固に見えた秩序の足元で、奇妙な報告が相次ぐようになる。
ある村では、黒い石を拾った子供が、触れただけで傷を癒やしたという。
ある町では、捨てたはずの黒い石が、翌朝には持ち主の枕元へ戻っていたという。
またある属州では、その石を持つ者の周囲で、草木が枯れ、小さな獣が倒れたという。
深い水底の闇を閉じ込めたような、黒い真珠。
帝国聖遺物監理局は、当初それらを地方の迷信、あるいは未分類の聖遺物反応として扱った。
だが、報告は消えなかった。
黒い石は人を癒やした。
黒い石は命を奪った。
黒い石は、持ち主の手を離れなかった。
本稿に記すのは、その黒真珠をめぐる一つの事件である。
帝国の記録には、彼女の名が短く残されている。
ユリア。
分類:黒真珠災害被害者。
備考:黒真珠災害に巻き込まれ、最後まで他者を救う意思を示した少女。
けれど、その数行だけでは語れぬものがある。
彼女が何を恐れたのか。
それでも、誰の痛みに手を伸ばしたのか。
そして、最後に誰へ己の願いを託したのか。
乾いたインクの羅列は、少女の震える指先までは記さない。
彼女の名を呼んだ声も、その声に応えようとした心も、帝国の記録には残されていない。
ここに記す物語は、大帝国の勝利の年代記ではない。
黒真珠に選ばれたと呼ばれた少女と、首輪の跡を残したまま自由を求めた逃亡剣闘士。
傷を癒やす石に怯えながら、それでも誰かを救おうとした少女。
誰にも縛られぬ明日を求めながら、彼女の願いだけは置き去りにしなかった青年。
これは、その二人が世界の片隅で交わした、短い旅と、ひとつの願いの記録である。
時に、帝国歴143年。
帝都より北西、タウリナ地方の小さな村から、物語は始まる。
――編纂者ラトゥナ・ケート 識




