走灯密室・外1
ひと目見て壊れた。
壊された。
二度と戻らないくらい粉々に。
運命なんて信じない。
そんな不確かなものは頼るに値しない。
恋や愛というものは脳内物質の変容であり、私という人間が関わるべきものではない。
赤の他人に自分の人生を預けるような真似をする人の気持ちがわからない。
遊び、戯れ、気分転換なら理解の範囲だ。
そのようなことすべてを否定したいわけじゃない。
けれど、人生を賭けるような価値はない――そう心からそう確信していた。あのときまでは。
赤ん坊の抱き方について、母親に教えているときだった。
いつものように抱きかかえ、いつものように赤ん坊に笑顔を向け、撃ち抜かれた。
比喩表現だ。
本物の弾丸じゃない。
だけれど、決して大袈裟な表現というわけでもなかった。
あのとき自分に何が起きたのか、いまだ正確には分からない。
赤ん坊に、認識された。ただそれだけの単純な事実があった。
何の変哲もないそれだけのことが、私こと阿波山優を壊した。
壊滅的なまでに、粉々に。
一日中、記憶から焼き付いて離れなかった。
幾度も幾度も、何度も何度も、あの子の様子を思い返した。
我ながら気色悪くなるくらい、ずっとあの子のことだけを考え続けた。
母性、ですらなかったと思う。
一番近い感覚として言えば「前世の自分を目撃してしまった」が近い。
あの子の気持が、手に取るようにわかった。
驚きが、苦しさが、シンプルで原始的な感情が、すべて分かった。
かつての自分がそう感じた。そんな確信すらあった。
予断ではなく予想でも共感ですらない。
私自身が赤ん坊だったときよりも更に前、前世の記憶を思い出す感覚。
誰にも理解できない私だけの実感。
赤ん坊が瞼を開き、最初に私を見た。
そのことにも、きっと必然的な意味がある。
運命が私たちを肯定した。
神か、あるいはもっと偉大なものによって祝福された。
あの出来事は、無神論者である私がそう信じてしまうくらいの奇跡だった。
昨日、阿波山優が生まれた。
私が誕生した。
理性は違うと言い、心はその通りだと頷いた。
私たちは、魂を共有している。
羽場翠と名付けられたその子供を追うことは、ごく自然だった。
少なくとも私にとっては、そうしないことの方がありえなかった。
朝、鏡を見て身だしなみを整えるように、日々『私』を確認しなければならない。
よだれが頬についたままなのは私の恥だ。
おねしょやウンチだって問題ない、私が毎日やっていることだ。
笑えば嬉しいし、泣けば悲しい。
そのすべてを理解する。
親兄弟より、もっと近しい気持ちを共有した。
病院から出た後も、当然の権利として続けた。
何度か通報される場面もあったものの、上手く切り抜けられた。
偶然、と呼ぶには上手くいきすぎていた。
そう、気づけば私に――二度目の奇跡が起きていた。
私は、現実からズレた場所に行くことができた。
キーケースに知らぬ間にあった、見覚えのない鍵。それを握りながら移動すると、周囲の色彩が沈んだ。
色のない世界の中で、私だけが動けた。
人とぶつかることなく、見つかることなく、町を気ままに移動できた。
まるで滅んだ世界を歩いているような気分。
道行く人は影しかいない、その残滓だけが理解できる。
モノクロの視界の中にあって、あの子だけが色鮮やかだ。
一人だけ輝いていた。
私はこのクラストを、狭狭輝と名付けた。
狭く、狭間のこの世の中で、たった一つの輝きを見るためのクラストだった。
クラストの使用後にやってくる疲弊なんて、問題にもならなかった。
そんなものよりも、もっと大きなメリットを私は得ていた。
あそこで『私』が生きている。
あんなにも、鮮やかに、健やかに。
それだけで、気が狂うほど嬉しかった。
見えない私。
誰からも認識されない私。
けれど、いつからかあの子から視線を受けるようになった。
見えてはいない、分かってはいない。
なのにまるで「誰かに指摘されて確認している」ような素振りをした。
あの子が、私のことを認識する。
見えないはずの私を、探している。
そんなことはありえない、許されていない。
あなたは私の前世。
かつて生きていた私の姿。
私は、そんなことを記憶していない。
どうして、なんで、そんなことをする?
なぜ、私の方に怯えた目を向ける?
絶対に違うのに。
そんなことはないのに。
あなたのことを、誰よりも私が知っているのに。
常に、絶対に、私はあなたの味方で、私の行うことはすべて正しいはずなのに。
どうして、運命に逆らう。神が認めた絶対を否定する。
たださなきゃいけない。
ああ、そうだ。
きっとそうだ。その通りだ。
どうして、こんな下らない世の中にあの子を放置し続けたのだろう。
そんなことする必要、無かったじゃないか。
私が、あの子を管理すればいい。
ありとあらゆる汚濁から守ればいい。
きっと汚いことを吹き込んだ奴がいるに違いない、ソイツから離さなきゃいけない。
問題ない、全部OKだ、私がそれを嫌じゃないのだから、きっと喜ぶはずだ。
表面上どれほど嫌がっていても、魂は頷く。
私の行動は、すべて正しい。
いても立ってもいられない。
車をとばし、ドアを開けて近づいた。
あの子を、この世のすべてから認識できないようにさせる。
私のクラストであれば、それが出来る。
そうだ、今度は、逆だ。
あの子にとって、この世のすべては影絵となる。
認識不能の対象となる。
どれだけ遠くに、どこへ逃げても意味がない。
あなたにとっての人間は、私だけ。
私のクラストに閉じ込められれば、そうなる。
これは私が望んだ時にだけ出入りができるクラスト。
他人が入ることなんてできない。
けれど、あの子は私なのだから、問題ない。
血もDNAも戸籍も、証明としては下の下。
この世の果ての、その先までも続く確信こそが真実だ。
他の人を見ずに、私だけを見る。
それはこの世の何よりも楽しいことだ。きっと喜ぶに違いない。
「あ?」
なのに、逃れた。
キーを握り、接触するよりも先に逃げられた。
車を盾にした回避だった。
車を回り込む間に、更に車の下へと逃げ込まれた。
まるで私が来ることが分かっていたような動き。
なんで?
どうして?
私があなたを閉じ込めたいのだから、あなただって私に閉じ込められたいはずだ。
嫌がる意味がわからない。
逃げているのは、何かの遊びか?
ああ、違う、違う、いけない。
間違っている。
これは間違っている。
こんな遊びを、私は望んでいないのに。
頭に血が昇った、と思う。
あるいは、おぞましさだった。
私の左手が、とつぜん私の意思とは違う動きを取ったような嫌悪。
押さえつけて、身動きを取れないように、握り潰すかのように、静止させなければならない。
目の前を液体の飛沫が舞う。
唾だった。
私のものだ
何度も繰り返し、吐き出されていた。
どうやら、叫んでいた。
耳に聞こえる音を認識が拒絶した。
愛とか、恋とか、好きとか、そんなこと、私が叫ぶはずないじゃないか。
車の下に手を伸ばす、全身がアスファルトにつくけど構わない。
この場で轢かれたっていい。
手が、近づく。
怯えたあの子の表情が見える。
顔が自然と笑顔になる。
あの子が私を認識した、嬉しい。
これからは、ずっとだ。
そうだ、この輝きは、私だけの――
何もかも。
消えた。
「まったく――」
部屋の内部にいた。
窓から照らす夕日が目に焼き付いた。
転移した。
そう気づくのに、時間がかかった。
どこかの部室のような場所で、私はうつ伏せに手を伸ばす格好でいた。
「センパイは、本当に人使いが荒いですよね?」
知らない奴が、そこにいた。




