愛玩密室6
ものが腐るには微生物がいる。
それがない場所では、そもそも腐るということがない。
クラスト内は微生物の数が少ない環境だ。
人の死体は腐敗せず、徐々に水分が抜けてゆく。
ある程度の腐敗はありそうだけど、それよりも乾燥してミイラになる方が速かった。
その結果としての物体が、横たわっていた。
年代も性別も関係なく、死骸がある。
「皆ね、あなたになってから――ぷーちゃんになってから、しばらくするといなくなっちゃうのよね、ちゃんとこちらの抜け殻の方もお世話してるのにね?」
おそらく、意識とのギャップだ。
人間と猫、その差が激しすぎて、元の体が耐えられなくなった。
「でもね、みんな幸せだったのよ? そこに嘘はないわ。最後まで愛したし、最後まで愛された――」
ふざけろ。
どんな名前をつけようと、それは尊厳を奪い傷つけていい理由にはならない。
支配と一方的な満足を得る愚行は、望む相手だけにやってくれ。
僕は、該当しない。
絶対に。
「本当に大好きだったのに、どうして……」
「嫌う権利を完全に奪っておいて、なにを言ってやがる」
「え」
喋る。
喋らせる。
接続する。
肉球で接触し、「僕」を操る。
完全に戻ることは――僕自身の体に帰還することは、まだできない。
そこまでの経路がつながっていない。
だけれど、これは僕の身体だ、僕自身だ。
なら、僕として振る舞うくらいはできる。
以前に憶えた接続の感覚。
それを行い、僕を操った――死体のように転がる口が、意味のある音を紡いだ。
「これから先、延々と不平不満を言ってやる、お前という人間がどれだけ傲慢で、身勝手で、生きているだけで迷惑な奴なのかを言い続けてやる」
猫や犬が愛されるのは、喋らないからだ――そんな話を聞いたことがある。
本当かどうかは知らない、けどこれは、ストレスにはなるはずだ。
お前が愛している奴が、お前について評価をする。
「――」
「見れば分かる、お前は殺人を何とも思っていない。人命に価値がないと心から信じている。けど、だったらお前自身にも価値がない。人間であるお前も同レベルのガラクタだ。そんな奴が愛されることがあると、本当に思っているのか?」
視界が、人としてのそれがうっすら伝わる。
わずかに開いた瞼、その隙間からクラストマスターの姿を見る。
猫とは段違いの視界。
動体反応はにぶいものの、色彩は比較にならないくらい鮮やかだ。
だからそれを――クラストマスターの笑顔を、明瞭に見た。
顔中を歪ませた、満面の笑みを。
「それでも! 私は! 愛している!」
意味のない言葉。
根拠皆無の叫び。だが――
「私の愛は変わらない!」
このクラストから脱出できるだけの、ストレスを与えることができていない。
その手にはハーネスが握られている。
首輪ほど締め付けず、けど、ペットの行動を確実に縛るものを。
「お前がそれを言うことは――」
「ぷーちゃんッッッッ!!」
後先を考えない突進が来た。
咄嗟に離れる。
接触が解かれ、喋ることができなくなる。
馬鹿が僕の体にタックルをかましたが、意識のない「僕」は揺れるだけで反応しない。
「あなたは、ぷーちゃんなの! それ以外じゃない!」
勝手に決めるな。
重い猫の体を、それでも全力で動かす。
四本足の瞬発力は、わずかな時間に限定すれば人間には捉えられない俊敏になる。
踏み込んだ先が乾いた音を出した。たぶん乾ききった骨だった。
申し訳ないとは思いながら、さらに駆ける。幸い扉は開いたままだ。
「逃げられない! ぷーちゃんは逃げられない! ここが安全なの! ここが平和なの! どうして分からないの!!」
複数の死体の横で平和を謳歌するな。
お前は馬鹿の権化か?
伝えることができないのが惜しい、ただ唸り声を喉で出す。
リビングへと戻った。
人間の身体を外部から操るという無茶をしたせいで、酷く疲れる。
けれど、ここで寝るわけにはいかない。
ソファー上へと飛び移り、すぐに退いた。
ついさっき僕がいた空間を、人間の体が衝突した。
乾ききった、誰かの死体が放り投げられ激突し、乾いた音を立てて破砕した。
ついでに腐臭も撒き散らす。
「嗚呼嗚呼嗚呼ぁぁ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ぁっぁぁあ!!」
威圧目的と思われる鳴き声を上げていた。
わー、という声がなぜか同時に聞こえた。
クローゼット上へと駆け上がるが、蹴り壊された。
粉砕された木くずが舞い、強制的に下ろされる。
「危ないでしょぉおおおがああぉ!?」
お前がな。
とはいえ――
この状況でも、ここまでしても脱出に至るまでのストレス値になっていない。クリア条件になっていない。
ひょっとしたら、本当の条件は別にあるのかもしれない。だけど、今更別を探す余裕がない。
今の僕は、すべてが肯定されている。
喋ってディスっても受け入れられた。
そして、僕の眠気も徐々に増している。
ついさっき起きたばかりのはずだ、というツッコミが無粋になるほど強烈に。
ここでの睡眠は死と同義。取り返しがつかない。
意識が消え、完全な猫になる。
分かっているのに抗えない、それほどキツイ。
(なら、仕方がないか――)
必要なのは、覚悟だけ。
他に要るものはごくわずか。
この人間は、僕の行動すべてを肯定する。
本当に?
本当の本当に、そうなのか?
僕は立ち止まり、毛づくろいをした。
あまりやっていなかった猫的な行動を唐突に取る。
自分自身の毛並みを整える。
フローリングの床の上で、丹念に。
何もかもを忘れた風に。
「――」
ピタリ、と人間の動きが止まった。
猫となったのかを、観察する動きだった。
疑念は解けていない。
眼球がピタリと僕を捉える。
フゥフゥと荒い呼吸を繰り返している。
四本足で、僕はのそのそと歩く。
頭の中では、妙な感覚が過ぎる。
まあ、仕方ない。
我ながら、本当にどうかしているなと思う。
他に手段はなかったのかな?
床の、キツイ臭い。
ボク、と書いてあるそれを――
赤ワインを、舐める。
前足についていたそれは、ついさっき舐めた。
猫の味覚からすれば、酷く不味い。
途端、超音波じみた鳴き声がした。
人間が叫んでいた。
駆け寄ろうとする動きを躱し、さらに舐める。
赤いそれ、アルコール。
猫にとって完全に毒となる液体。
「ぷーちゃん、だめぇえええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
魂が消えるかのような声。
知っているなら、当然だ。
猫はアルコールを分解する機能を持たない。
少量であっても、酩酊してふらつき、吐き気を催し、呼吸を困難にさせる。
最悪の場合は死に至る。
人間は必死にボクを抱きかかえ、口元の赤ワインを拭き、錯乱した。
「にゃ」
無理に、笑う。
ここはネットにつながっていないし、モノも少ない。
この場合どうするべきか、方法はわかるか?
お前が適切に動かなければ、この猫は死亡することになるぞ?
うん、あるいは、僕自身だってそうなる、死亡する――
知ったことか。
心が死ぬか、心と体が死ぬかの違いだ。あまり大きな差はない。
「覚悟しろ」
酩酊状態の中。おそらくは人で言う急性アルコール中毒となった状況の中で、「僕」の口が喋った。
バス・トイレの方から声がする。
遠隔操作が可能になったのは、死の直前だからこその覚醒か。
「僕は、人殺しを決して許さない」
顔は見た。
部屋はおそらく現実のそれを模している。
追跡は可能なはずだ。
睨む先には、滂沱の涙を流す人間の姿があった。
意識が、消える。
ぷーちゃん……と悲痛に囁く声を聞く。
世界が回り、すべてが消える。
クリアの感覚か、それとも命が消える過程なのか。
次に目覚めることができるかどうかも、分からない。
それでも、睨む、その人間を。
その殺人鬼を。
この決意が変わることはない――
+ + +
そこから先は、あまり言うべきことがない。
僕は、元に戻っていた。
無事の帰還だ。
全身に毛は生えていないし、ヒゲも伸びていないし、太ったということもなかった。
僕がクラストに囚われていた時間は、コンビニの自動扉を出る、その僅かな間のことだった。
その場でふらつき倒れたのを、店員によって介抱された。
タックルされた脇腹がいてえ……
この時間差は、おそらくあのクラストマスターが存分に愛でることができるようにするためだった。
時間的な制約なく、猫を愛でることを求めた。
消耗からの復帰後、僕は全力であの連続殺人鬼の住処を調べた。
使えるツテをすべて使い、あらゆる方法を駆使した。
放置すれば被害者が増える。
あの猫を生き残らせるために、更なる犠牲者が出る。絶対に見つけなければならない。
だけれど――
「行方不明?」
「ええ、そうみたいですね」
犯人は――浜石田羽天と呼ばれるその人は失踪した。
異常な調査能力を持つ文坂さんの調査ですら、そういう結果になった。
「引っ越した様子もなし?」
「家財道具はすべて残っていましたよ」
「それを把握した文坂さんが怖い」
「調査ってそういうことですよ?」
たしかにそうかもしれないけど。
「逃げられた、ってことでもないのかな」
「どうでしょうか」
「文坂さん」
「はい」
「妙なこと訊くよ」
「はい」
「今の僕、猫になってない?」
「センパイはセンパイですよ?」
僕は、ときどき自身の姿を確かめるのが癖になった。
定期的に再確認する必要があった。
「猫への変移に、違和感がなさすぎた――」
気づくとそうなっているんじゃないかという恐れがあった。
「ほんと酷い後遺症だ」
「でも可愛かったですよ?」
「あの姿を褒められてもなぁ」
「犯人である浜石田さんの部屋には、現金等がそのままでした。動画配信の更新もありません」
「……そんなことしてたんだ」
「はい、SNS上の投稿もありません」
「どこまで調べてるの、文坂さん」
知りません、というツラをされた。
結局、あの犯人を見つけることはできなかった。
今このときだけではなく、この先もずっと。
猫好きは猫のように、不意にその姿を消した――
愛玩密室 了




