愛玩密室5
水ってよくわからない。
あんまり見えない。
だから、喉が乾いているのに、人が水面を揺らしてくれないと分からない。
気が利かない人間は、すぐに揺らすのを止めてしまう。
不満に僕が鳴くと、妙な鳴き声と共に再び行う。
ふふふ、とか、そんな鳴き声だ。あまり上手な鳴き方じゃない。
舌で水を絡めて引き上げ、喉をちょっとずつ湿らせる。
人間だったら抱えてごくごく飲めるのに、今はこの舌が手の代わり、とても効率が悪い、一度に飲める量は――
(待て)
今、なんて考えた?
というか僕は、何をしている?
飲んでいる。水を。
そりゃそうだ。
だけれど、どうして「猫として」それをしている?
頭を振る、意識をはっきりさせようとする。
「もういいの?」
人間が僕の背中を撫でる。
いつもそうしているように。
今はただの恐怖でしかない。
(寝てから、時間はどれだけ経った……?)
記憶がハッキリしなかった。
前後が曖昧だ。
猫にとって、過去は不定だ。未来も漠然としている。ただ今現在だけがある。
そうした認識で生きている。
思い出す、ということが難しかった。
「満足?」
腹は満たされている。
渇きが満たされた感覚が腹にある。
けどヤバい、本格的に、ヤバい。
中島敦の山月記を思い出す。「その声は、我が友、李徴子ではないか」っていうアレだ。
自分という意識が消え、動物としての意識に取って代わられる、あの虎の立場をリアルに味わっていた。
自分が消える、いや――
(僕の記憶が、消されている……!)
おそらく睡眠時のタイミングでそれをされた。
僕、というものの根幹を消された。
いくつか、記憶に欠落が見られた。
宇執摩町のことを思い出そうとしても、わからない部分がある。
通い慣れた通学路すら、ところどころにしか思い出せない。
(本当に本当に、マズイ……!)
甘く見ていた。
呑気すぎた。
危機感がまるで足りていなかった。
「いい子ね? んふふ……」
事態の深刻さをようやく理解する。
コイツは、この僕を一方的に撫でているこのクラストマスターは。
僕という人間を、猫にしようとしている。
比喩表現ではなく、本当に。
人を、猫に作り変える。
ここはそういうクラストだ。
+ + +
焦りばかりが脳を焼いた。
小さいそれでは上手くものを考えられない。
いつものゼリー飲料を飲みたかった。
思考のための燃料が不足している。
「んー?」
だが結局――
そうだ、結局のところ話は変わらない。
やるべきことは何も変わらない。
どうすれば、この呑気に僕を撫でている相手にストレスを与えることができるのか?
それだけだ。
それ以外に考えるべきことはない。
ただ、「このままでは僕が本当に猫となってしまう」というリスクが加わっただけだ。
一刻も早く脱出しなければならない、クリア条件を達成しなきゃいけない。
お日様ってあったかいから好きー。
違う! 窓に行こうとするな! 猫的思考に支配されるな僕……!
僕が寝てからどれだけ時間がたった?
見る限りでは、部屋にそこまで変化はない。
経過したのは、数時間程度なのかもしれない。
(いや、そもそも――)
「僕」はどこにいる?
この意思としての、猫に入っている僕ではなく、身体の方はどこに?
無防備に放置されているのなら、野垂れ死にしててもおかしくない。
このクラストマスターが、そうしたことを気にする質だとは思えない。
「んー?」
人間は、どうやら油断している。
僕が立ち上がる姿をのほほんと見ている。
きっと他の連中は、一度寝た後は猫になった。
僕が行動できる機会は、きっと残り少ない。
「そろそろ撮影できるかな?」
そんなことまで言った。
周囲の部屋の様子を見る。
ほとんど変化のない様子。
だが、僕を探しているとき、ドアを開けた。
玄関のそれではなく、バス・トイレのある方だ。
無駄である可能性は百も承知でそちらに向けて走った。
僕はあのとき、聞かなかった。
最後までドアを閉めた音を。
「あ、こら」
ドアが、わずかに開いていた。
その扉側面に爪を引っ掛ける。
気分としては、巨大遺跡を力付くで開けようとしているようなもの。
爪とぎの要領で猫パンチを高速で繰り返し、ドアを手前に引き寄せる、その隙間を広げる。
背後では「しょうがないなぁ」という声と共に追いかける様子があった。
まったく慌てていない。焦ってもいない。だが――
(は…………?)
異臭が鼻を突いた。
腐臭だ、だが、それほど強烈ではない。
バス・トイレのある場所から、それが漂った。
おそらくクラストによる特性だ。
密閉性がありえないレベルで高く設定され、部屋のこちらまで臭気を運ばなかった。
場所としてはよくあるタイプの間取りだ。
風呂場があり、お手洗いがある。壁による仕切りはない。
そこに死体があった。
見えるだけで数体分。
バスタブの中に放り込まれている。
僕の身体もあった。
それらの死体の間にあった。
まだ生きている。
胸が上下している。
だが、安心なんてできない、まったく不可能だ。
「それ、食べたらだめよ? お腹壊しちゃう」
何いってんだコイツ。
「ん? なにか不思議なの?」
不思議どころじゃない。
何なんだ、この有様は。
この、凄惨は――
「そんな抜け殻、もういらないでしょ?」
まったく緊張感なく、悪意すらなかった。
振り返り見れば、はじめてその顔をちゃんと認識できた。
瞳孔の開いた、黒目のそれが僕を捉える。
人間を見る目じゃなかった。
愛しいものを――ただただ猫を愛でる視線だった。
……本当に、本当に甘く見ていた。
扉に手をかけ、寄りかかっているコイツは、猫のために人を殺す連続殺人鬼だ。




