愛玩密室3
事態はやべえの一言だ。
こぼれたワインのことなんて気にもせずに、僕を抱きかかえ続けている。
それなりの重さがあるから疲れるんじゃないかと思うけど、まったく平然と。
ここに――この猫の身体の中に、僕という人間がいると知った上でこれをしている。
「んふふー?」
いや、あなたからすれば僕って知らない人ですよね?
なんでそんなことができる?
怖くないの?
少なくとも僕なら絶対に無理だ。
どれだけかわいい猫だとしても、その中に人間がいると分かった上で「わー猫ちゃーん」とか言えない。
そこまでプライドを捨てられない。
だけれど、この人は素でやった。
男子高校生を、文字通り猫可愛がりしてる。
「だめよー?」
恐怖から逃れようとするけど、できなかった。
的確にツボを抑えた行動が、僕の脱出を許さなかった。
「……!」
周囲に目を向けるけど、この猫の視界では明瞭には見通せない。
遠くに、玄関のドアらしきものがあるのは分かった。
あそこから出れば、脱出クリアか?
「ん、散歩したいの? だーめ」
遮られた。
というか、この外もクラスト?
どれだけの広さがある?
「そんなに、ここから出たいの?」
当然のようにマスターは言った。
「だったら、わたしにストレスを与えればいいわ、外に行く必要なんてない」
なぜ、言う?
「けどね、ぷーちゃんが、わたしにストレスを与えることなんて、絶対にできない」
それは――
「ぷーちゃんが何しても、ぜんぶかわいい、ぜんぶ許しちゃう、あなたのぜんぶが愛おしいの」
やべえ。
このクラストは、想像以上に危険だった。
それはクラストの――密室としての怖さじゃなかった。
ここに命の危険はない、ただ撫でられるだけ、愛でられるだけでしかない。
だけれど、逃げ出すことは難しい。ほとんど不可能だと言っていいくらいに。
それは、このクラストマスターの特性が理由だ。
この人に、「嫌だ」と思わせなきゃいけない。
この楽しそうな表情を、嫌悪や苛立ちに塗り替えなきゃならない。
――どうやって……?
「だから、わたしが満足するまで愛させて」
猫の視界だけあって明瞭じゃない。
だけど、声だけで理解できた。
このクラストマスターには、確信があった。
僕の行動すべてを受け入れ、楽しむことができるという確信が。
それは僕にとって、絶望だった。
+ + +
僕は死んだ目になった上をただ見上げる。
知らない私室の天井を猫特有の瞳に映す。
「うりうりー」
変わらず人間が僕のことを撫でている。
適切な動き過ぎるのが、逆に嫌だ。
適切な力加減で僕の身体の輪郭をなぞる。
思わず尻尾の先が震えるけど、そんな事実は無かったことにして思考をとにかく回す。
小さくなった脳みそで、起きている事態を把握する。
こいつは――このクラストマスターは、僕が人間であると理解した上で撫でている。
よく見えないけれど、少なくとも知り合いではない。そのはずだ。
……そうだよな?
どこかの自称後輩を思い出すけど、さすがにここまで悪趣味じゃないはず……
「わ、おならした?」
してません。
「お腹マッサージしてあげるねー?」
してないのでやめて。
分厚い毛皮を揉むような動きになる。ぐるぐると胃腸が動いて気色が悪い。
「ニャァ!」
抗議の声も、通じなかった。
笑いながら楽しそうにしている。
コイツは、一体何なんだ?
本当に理解できない。
ただ猫が好きなら、本物の猫に対してそうすればいい。
わざわざ人間の意識を突っ込んで猫のように扱う意味がわからない。
ドSの人?
弱い「人間」を一方的にいたぶりたい?
そういう僕には理解できないタイプの人か?
本当に、何が楽しくてやってるんだコイツ……
いや、どちらにしても、このままじゃだめだ。
現状の、受け身のままじゃいけない。
クラストマスターは、僕の前足を両手で保持し、嬉しそうに動かし、「わー!」とか意味不明なことを叫んでる。
こんなことに付き合ってちゃいけない。
ストレスを与えること。
コイツの愛を否定すること。
やるべきことは、それだけだ。
「ッ!」
だからまずは、その肌に噛みついた。
さすがに血を流させるのは嫌なので、ある程度は加減しながら。
「いたーい」
むしろ喜ばせた。
次に爪を伸ばし、引っ掻こうとする。
今は僕のそれは、やけに伸びている。サーベルのように鋭い。
それで、相手の肌に爪を立てる。
肉が裂けるような感触に嫌悪が走った、本能的に爪を引っ込めてしまう。
「もう、ダメよー?」
本格的なダメージにならなかった。
当然、ストレスになっていない。
変わらず手が――巨大なそれが僕の体を包み込む。
キックで反撃しようとするが、届く範囲に何もない。
ただ空中を蹴るだけだった。
半端な攻撃は、まったく通用しない。
それを理解した。
それこそ殺すつもりじゃないと意味がない――
「――」
そこまでしたいか?
そんな疑問が脳裏をよぎった。
殺人しなきゃいけないようなことを、僕はされたか?
「あ、ぷーちゃん、喉乾いた?」
本当に、厄介だ。
現状、僕は被害にあっていない。
ただ猫として扱われている、それだけだ。
それは好ましいことじゃない、僕の意思を否定している。
けどそれは、物理的な攻撃じゃなかった。
全力で否定しきれない。
殺意をもった反撃ができない。
相手の喉笛を噛みちぎるような真似が、できない。
「お水とってくるね? 大人しくいい子にしてて?」
人間が僕から離れ、台所に行く。
考えろ、と僕自身に命じる。
緩んだ思考にを叱咤する。
この僅かな時間、僅かな隙。
人間に構われていない時間。
今ここで、突破口を掴むためにやるべきことは?
攻撃はダメだ。
少なくとも僕は、本気でそれを行えない。
どうやら僕は「優しくしてくれる人を全力でぶん殴る」といった類のことができない人間らしい。
もっと邪悪に生まれたかった。
なら、別の方法を選ぶ。
戦うのが難しいのなら、違う道を探す。
攻撃ではない手段で、このクラストからの脱出を目指す。
部屋の構造は、キッチンとリビング。
トイレや風呂がある場所は閉じられ、この前足で開けることはできない。
やれることは限られている。
取れる選択肢は狭い。
それでも、やる。
部屋の構造を理解し、決断。全力で走った。
人間が背を向け、ペットボトルの水を注ぐ、その五秒もない時間。
こちらが死角に入った貴重なタイミングで――
僕は駆け、跳ねた。
猫としての機動力を存分に活用した。
入り込み、そのまま滑り込む。
「あれ、どこー?」
声がした。
僕を探す声だった。
「もう、かくれんぼ?」
コイツにストレスを与える。
僕が何をどう反応しても通用しない。
噛みついても「愛らしいもの」として扱われる。
だったら、逃げる。
こいつの視界に入らない。
どれだけ探しても、僕の姿が存在しない。
見つからないという状態。
それを続ける。
一時間でも、二時間でも、あるいは一日中だって継続する。
きっとこれが、唯一の脱出ルートだ。




