愛玩密室2
クラストとは密室だ。
出ることができない閉鎖された環境だ。
だけれど、条件をクリアすれば脱出できる密室でもある。
抜け出すチャンスが与えられている。
「もうさ、分かるんだよ? 分かるけど、あんな風に言わなくてもいいじゃんねー?」
けど、身動きが取れないようにされると――ワッシャワッシャと撫でられ続けると、「脱出のための行動」を取ることが出来なかった。
無理に動けば可能なんだろうけど、それができない。なにせ今の僕は――
「ナァぁ……っ」
そんな情けない声を漏らすだけの生物だった。
お腹を晒した無防備すぎる姿だ。
呼吸するたびに自分のそれが大きく動き、ピンク色の地肌が透けてしまうのが嫌だ。
狭い額の毛をくすぐられた。
尻尾の付け根を軽く叩かれ、お腹に顔を埋めてニオイを嗅がれる。
ちいさなこの身体では、抵抗が難しい。
体格差はどれくらいで、体重差に至っては何倍だ。
一方的に、いいようにされている。
逃げなきゃ、と心底思うのに、この心地よさから逃げられない。
「もうさー、タブレットの支払い操作こっちがやってるんだからさー、隣でブチブチ文句を言い続けるのどうかと思うんだよ、聞き流したら聞き流したで不満そうにするしさー」
そして愚痴も止まらない。
いや、そもそも――
この行動は僕が――人間が猫の中に入っていると理解した上でのものか?
「瓶目通りの新しい喫茶店さー、あれ高いし何がイイんだろって言ってたけど、意外と人気なのね、あれくらいウチにも客が来て欲しいんだけど――」
個人情報を盛大に漏らしているのは、「ここに人がいる」のを理解していないからでは?
通常、そんなことは起きない。
クラストマスター自身で作成しておいて何がなんだかわかりません、っていうのはありえない。
けど、このクラストが、他から引き継いだものだったら、起こり得る。
キーだけを手に入れて、何もわからないまま使っているパターンだ。
このマスターにとってここは、「なぜか猫と戯れることのできる密室」でしかないのかもしれない。
クラストという名の猫カフェだ。
「ナァァ……!」
「んー、どうしたー?」
だったら、伝えればいい。
僕は純正の猫ではなく、中に男子高校生が入っていると教えれば行動は止まる。
そのはずだ。
人間を飼って喜ぶような奴は滅多にいない。
ペットはペットだからこそ可愛がる。
まずは身体をひねった。
いつまでもぷっくりお腹を見せ付け続けるわけにはいかない。
「今度はこっちなの?」
決意ある僕の行動は伝わらず、背中を一気に撫ぜられた。
全身の産毛にそうされたかのようにゾクゾクとする。
かき分けて地肌に接触されるのとは、また違う感触。
毛の先端だけを適切に触れられたようなゾクゾク感。
毛穴すべてが人間の手の動きを把握する。
もう一回くらい、これを味わってからでいいのでは?
「いい子いい子ー」
いや、違う。
これは、この行動は、あくまでも「猫」に対して行われたもの。
酷い誤解が起きている最中だ。お互いが不幸になるすれ違いを、直さなければならない。
気づかせる。その異常行動に。
ここでのクラストマスターの理解と反省は、僕の脱出と同義だ。
「ニャッ!」
タイミングを見計らって、膝上から抜け出し、跳躍した。
「ちょ、ちょっと……!?」
身体が重い。
全身に水袋を装着しているみたいに、動きにワンテンポ遅れて跳ねる。
ぽよん、とお腹が跳ねるのは、リアルボディでは味わえない感触。
だが、それでもソファー前のテーブルに着地し、そこに置かれたコップを倒すことに成功した。
猫パンチがガラス製コップを横倒しにする。
「もう、ダメよぉ」
フローリングにまでこぼれた液体は、だらしなく広がり、赤く流れる。
おそらくニオイからして赤ワインだった。
それを拭くか、それとも逃げ出した僕を確保するかを躊躇する人間の様子があった。
その隙に、僕は床へと着地し、前足をワインにつけた。
「あら……?」
肉球付近の毛を筆代わりに、伸ばすように縦に、次に横に、ちょんちょんといくつか足して、その横にぐいっと一筆書きを行った。
フローリングの床に赤く、
ボク
そんな文字を作り出した。
猫が、たまたまこんな意味のある形をつくることなんてない。
筆記できる知恵と意思のある存在だと知らせた。
僕、という漢字の作成は難しく、ぼく、というひらがなは曲線の難易度が高いからカタカナを選んだ。
これで、ようやく誤解が――
「あら、男の子だったの?」
誤解が……
「でも、ダメよ、いくらなんでも、好き勝手汚していいってわけじゃないの、もう」
――え……?
愕然とする僕のことなど知らぬように、その人は抱えた。
猫としての僕を。
ただの猫ではなく、内部に人がいると理解した上で、変わらず抱きしめた。
目をまんまるにする僕を、ぎゅっと抱きしめる。
「かわいーんだから!」
このクラストは、このマスターは、人を動物化させた上でかわいがっている。
前足をワインで濡らしたまま、僕は絶望を理解した。
「わたしの愛は、そんなことじゃ揺るがないわ!」
わけのわからない理屈を、堂々と断言しやがった。




