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水密蓮華3


クラストの発動には、多少なりとも魔力を消費する。

体のどことも言えない、強いて言えば精神が疲弊し、まぶたを開くことですら億劫になる。

その疲労は、クラストの規模によってまるで違う。


このクラストは、割と「重い」方だった。

発動に濃い疲労が伴う。


どうにかこじ開けた瞼の向こう、マスターとしての視座の先には、大きなガラスケースに入った文坂波等羽さんがいた。

いつもの制服姿で立っていた。


部屋は割と大きいが、海の広大さの中ではいかにも小さい。

どこからか光源が灯り、内部の様子を照らした。


僕は海中からそれを眺めた。

息苦しさはないけれど、あまり顔を動かすことはできない。


僕は、文坂さんをクラストに閉じ込めた。


「おー」


きょろきょろと左右を見る中、少しずつ、少しずつ、海水が入る。革靴のかかとを濡らす。


だんだんと、水位は上がる。

それは水というよりも、巨大な生物が体積を増やしているかのようだった。


きゅぼ、ぎゅぼ、と上方の隙間から空気を出し、下方の海水がガラスケースの中へとなだれ込む。

盛大に泡が出ている、抜け出たその空気の分だけ水は入る。


「少し冷たいです」


なぜ嬉しそうなのだろう。


文坂さんは、床に鎖で縫い付けられたトンカチを手に取った。

破壊するためではなかった。


「んー」


足首を越え、さらに海水の流入は増す。

ひたひたと上昇する湖面といった風情で水は上がる。


「そっちですかね?」


僕がいる方向に、文坂さんは顔を向けた。

どういう方法でそれを感知したのかは分からない。本来なら気づかれないはずなのに、その視線は確かに僕を捉えた。


その手で、トンカチを強く握っている。

身体を、浮かさないようにしている。


そう――たぶんこれが、このクラストから脱出する最適解だ。


鎖で繋がれたアイテム、これらは破壊する道具としてではなく、手がかりとしてある。

あるていど海水が流入すれば、床とガラス壁の間に隙間が出来る、その際の移動の助けとして、これらの鎖は利用できる。


「やほー?」


手まで振られた。

水はもう、胸の辺りまで来ていた。

着衣のまま温泉に浸かっているかのような光景だが、湯気はどこからも立っていない。


青い景色の中、命の危険を微塵も感じさせない呑気な様子だ。


「よっ」

「は?」


思わず声が出た。


文坂さんは、腰を下ろした。


脱出できるほどの隙間は、まだできていない。

確認のために一瞬潜ったのかと思ったが、違った。


鎖を引き寄せ、座る体勢を崩さない。

髪がゆるい海流に靡き、開いた目は変わらず僕を見続ける。

頭の先まで、海水に浸かった。


笑っている、気がした。


 「このクラストで負けた場合どうなるかを、試してみたいんです」


その言葉を思い出す。

文坂さんは「負け」ようとしていた。


水は上がる、水流の勢いが増す。

衣服やメガネが透明に揺れる。

僕の心臓は無限に早くなる。


僕の方を見ながら、彼女は微笑んだ。


人間が無酸素で生きていられる時間がどれくらいか。

自殺のようなこれを、いつまで続けることができるか知らない。


あまりにも長く、そこにいた。

ガラスケースの中で、彼女は水に閉じ込められ続けた。


まるで限界だとでも言うように――

ばつん、と僕の意識は断絶した。



  +  +  +



等野静、という人のことを思い返す。

クラストメイトではあるものの、それほど親しい間柄じゃなかった。


事務的なやり取りをするだけの関係性。

大人しいということだけが印象的だった。


「もー」


そんな風に困ったように笑う様子を、何度か見かけた。

彼女よりも背の高い、よく笑う友人がその隣で大笑いしていた。


平和な光景。

どこにでもある風景。

彼女たちは放課後ささやき合う。


「変な夢、見た気がする」

「……へぇ、どんなの?」

「忘れちゃった」

「そっかぁ」


等野静の友人である、真木野五月まぎの・さつきが笑った。

心からの笑みだった。


「夢って、よく憶えられないよね」

「うん……」

「それで来週だけどさ――」


クラスト被害に巻き込んだら申し訳ないと思い、僕はその場を去った。


放課後の、ちょっとしたやりとり。

なんでもない友人関係。


けれど、本当に?

本当にあれは、平和な光景だったのか?



  +  +  +



「もう、何してるんですか」


クラストの敗北は、多大な疲労をもたらすものだ。

ただの疲労じゃない、魔力という訳がわからないものが盛大に消費される。


「あー……」


一番わかりやすいことで言えば、それはやる気だ。

今の僕は、それが根こそぎ消えていた。

クラスト作成時の比ではない。


クラスト戦で敗北した僕は、部室の中で、長机と頬をくっつけるだけの生き物に成り下がった。

口の端からよだれが流れる。


クラストは、いつも僕を苦しめる。


「負けてもいい、って言ったじゃないですか」

「あー……」


そんなことはできない。

僕のせいで何も悪くない人が被害に遭うのは許容できない――

そうした言葉すら、口から出ていかなかった。


だらりと下がった両手を上げることすら難しい。

この世で生きていてごめんなさいと謝りたい、とってもごめんなさいしたい、土下座をするのでどうか許して……


「センパイ、どこまで憶えてますか」


それは当然、文坂さんが鎖をつかんで自分自身で沈んだところまで――


「……その困り顔、やっぱり憶えてないですね」

「ああ……?」


なんの話?

耳ってどうして閉じられないんだろう、聞いてしまうのでどうしても考えてしまう。

思考は今の僕にとってものすごい重労働だ。


「私、満杯になるまで、海水が完全に上に行くまでいましたよ?」


何言ってるんだ、そんなのは目撃していない。

そんなに長いこといなかったはずだ。


「それです、そこです」

「……?」


好奇心が僕の横倒しの頭をどうにか縦にさせた。

心配と納得を混ぜ合わせた表情の文坂さんがいた。


「センパイは敗北し、記憶を失っています、私がどうなったかを憶えていません」


クラストでは敗北した側がペナルティを負う。

そのペナルティは、設計段階である程度選ぶことができる。

記憶は、割とよく選ばれるものだ。

肉体的に傷つかず、精神的に多少不安定になることがあってもダメージにはならない。


自称後輩は偉そうに指を立てた。


「本来、私が確認したかったのって、そこなんですよ」

「……?」

「このクラストは、敗北した人の記憶を失わていせます、どう苦しんだか、どのように負けたのか、わからなくさせてるんですよ」


確かに僕は半端なところで記憶が途切れた。


「……」


憶えている場面は、文坂さんが海に潜った場面。

鎖を手に自ら沈んだ。


そこで僕は、自分で敗北することを選んだ――

本当に?

自殺めいたことをする人間の行動を見過ごせないほど、僕は正義感の溢れた人だっただろうか?


ガラスケースの上まで海水が入り込み、どうしようもなくなった場面なら、切り上げてしまうかもしれない。

本当に死亡してしまう可能性に比べれば安いと考えて、敗北を選択する。


だけど、そこに行き着くよりも前。自分で苦しむことを選ぶような場面なら、僕は見過ごすのでは。


だとしたら――確かに憶えていない、クラスト内で起きた出来事を。


「どうしてこんな設定にしたんでしょうね」

「なに、が……?」

「あのクラストは、繰り返し使用した痕跡がありました」


僕の近くに、ゼリー飲料が近づいた。

文坂さんが差し出すそれに口をつけ、ゆっくりと飲み込む。


水分と甘みが喉を通る。

その嚥下に合わせるように、文坂さんは続けた。


「鎖には、何度も何度も引いて壊そうとした跡が残っていました」

「……」

「床には、道具を使って壊そうとした様子が」

「……」

「上の空気孔にも、爪で引っ掻いた痕跡が生々しく」


それらは、概略を知っただけでは分からない情報だった。

実際に足を運ばなければ知ることができない。


「あのクラストには、人を苦しめ続けた歴史が刻まれていました」


本当の拷問場のようだった。

そこで人がもがき苦しむのを楽しんだ累積があった。


「どっちでしょうね?」

真木野五月まぎの・さつき……」

「へ」

「名前……」

「それ、等野静さんが、クラストを使おうとていた相手ですか?」


僕はどうにか頷いた。


「なるほど……」


文坂さんは嘆息した。

それは、呆れというよりも理解不能の表情だ。


「もともとのマスターは、その真木野さんなんですね?」


等野静は僕にこのクラストキーを預けた。誰かに対して使用することを拒んだ。


僕にキーを預けたときの表情を思い出す。

未だに、あれがどのような感情なのかはわからない。

だが、大人しさの底の、強い地金が覗いていた。

それは弱々しさとは違うものだ。


そう、彼女は、止めることを選んだ。



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