下降継続3
誰もいなかった。
しん、とした静寂だけが鼓膜を打った。
「え……?」
ドッドッド、と心臓の音だけがうるさい。
危険とか言っていられずつかんだ手すりも、ただその硬さを伝える。
左足首はもちろん、打った膝も痛んだ。
しばらく駆け下りるのは無理だろうと思えた。
「……」
ただ、上を注視する。
音はなく、人の姿も無かった。
わずかに弧を描く階段の向こうにいる、ということだろう。
追跡者が無音かつ透明になったなどの絶望がない限り、どうやら――
「逃げ切れた……?」
そんなバカな。
だけれど、僕という参加者が盛大にミスったというのに放置されていることの説明が、他になかった。
僕の荒い呼吸音だけがクラストにこだました。
何度繰り返しても、それ以外のことは起きなかった。
「……移動、しよう」
痛む左足をかばいながら、慎重に降りる。
追跡者がいなくなったからといって、脱出できたわけじゃない。
下降を続ける。
「……なんでだ?」
疑問ばかりが脳裏を巡った。
一番簡単なのは幻だったという説だ。
音と姿で僕を追い込み、自滅させようとした。
「いや、違うか……」
あの追跡が、嘘だとは思えない。
あの動きは生きた人間のそれだ。
何より、この階段だ。
踊り場なんてセーフティをわざわざ作った。
手すりも普通に使える。
自滅させたいのに安全に配慮は矛盾が過ぎる。
後ろから追っかけたアイツが、このクラストのマスターだ。
最低でも、競合する敵対者だ。
無言で追いかけて来た。声が出なかったとしても、壁を叩く、ジェスチャーをするなど、いくらでも「コミュニケーションの意思がある」ことを示す手段はあったはずなのに。
その当たり前をせず、全力でこちらに向かってくる奴は、敵以外にありえない。
「なら、どうして……」
今、来ていない?
本当に、このまま進んでいいのか?
よくあるホラーなら、ここで安心させて、油断した所を襲って来る。
降りる以外にやれることがあるのかもしれない。他に上手い方法があるのかもしれない。
だけれど、立ち止まり調査することも、上に引き返すこともできなかった、そんなこと、できるはずがなかった。
あの黒色のフードをかぶった奴から、できるだけ距離を取りたかった。
次の瞬間にも、あの、
タ、タ、タ、タ、タ――
という足音が復活するかもしれなかった。
まだ痛みの残る体では、それでもう詰みとなる。
「その場合、両足でジャンプするか……」
十段くらいとばしてやる。
着地に失敗すれば更に酷いことになるが、そんなことも言っていられない。
ほぼ確実に失敗するだろうけど。
「ったく……」
舌打ちが自然と出た。
状況は笑えるくらいに絶望的だ。
目に映るのは、変わらないねずみ色の階段。
中央では変わらず左側通行のラインを示し、左右も上下も密閉している。
僕の断続的な、拙い足音だけがした。
荒い呼吸の音は、それでも徐々に収まってくる。
「今、どれくらい下ったんだろ……」
役にも立たない疑問が脳裏を過ぎた。
クラストで正解な時間を求めることほど無意味なことはない。
「ここのマスター、どういう奴だ?」
殺人鬼、ではない。
肝心なチャンスを見過ごした。
「追われる奴の恐怖だけが欲しい奴……?」
生命を奪うのではなく、怯える様子だけが見たい。
そういうパターンはあり得る気がした。
僕が怪我して上手く動けなくなったから、一時的に追跡を止めた。
僕の足首の怪我が復調したら再開する。
「趣味わる……」
獲物を狩るためではなく、獲物が怯えることを喜ぶタイプ。
その欲望のために、このクラストはあるのかもしれない。
「約束の時間には、間に合わないな……」
クラスト内の時間経過はズレることがあるけれど、確実にそうなるわけじゃない。
そもそも、脱出のための手がかりがない。まだまだ時間はかかる。
約束破りは確定だ。
色々と文句を言われるだろう。
「まったく……」
ちらりと上を向いても、何の変化もありはしない。
カバンに常備してあるゼリー飲料を取り出して、一息に飲んだ。
慣れた甘さが、足首の痛みに染み込んだ。
自覚はなかったけれど、想像以上に疲れていたみたいだ。
「行こう……」
下る、降りる、下方へ向かう。
ゆっくりと左へと曲がる階段。
全体としては螺旋状の構造だ。
悪夢みたいに無限に続く。
巨大な構造物の中で、僕の断続的な足音がする。
「次は、何が起きる……?」
おそらく、降りることが脱出条件じゃない。
まだ他に何かある。何かが変化する。
まったく楽しみじゃない出し物だ。
ジェットコースターが面白いのは安全が確保されているからで、安全ベルトを外して乗れば恐怖しかない。
僕は、地獄の底まで続きそうな階段を降り続けた。
三十分か、一時間か、どれくらい降り続けたのかはわからない。
少なくとも、足の調子を取り戻す程度の時間は経った。
まだ不自然な形でだけど、手をつかずに階段を降りれるようになった。
左足首はまだ痛む。
走って降りるのは厳しそうだけど、それでもどこか安心感があった。
「本当に、何にも起きないな……」
恐怖追跡者説はハズレた。
僕は脅されず、ただ降り続けた。
なら、この階段クラストがある理由は?
いや、というか、まさか……
「ここのクラストマスター、くたばってないよな……」
僕は階段とばしで降りた結果、足をくじいた。
踊り場との距離が離れていれば、もっとダメージを負ったはずだ。
このマスターもコケて、致命傷を喰らった。その音を、三段とばしで全力疾走していた僕は聞き取れなかった――そんな可能性はないのか?
自滅した追跡者に怯え、僕は降り続けているのでは。
「……ないない」
これは本当に、希望的観測と呼べるものだった。
そうだという根拠が、どこにもない。
「もしそうなら、ガッカリすぎるマスターだ」
ハハ、と自嘲混じりに吐いた笑い。
その音は、下へと転がり落ちて、先にいる者に当たった。
「……」
座っていた。
人影だった。
それは僕の気の所為じゃなければ。
つい先程、全速力で僕を追いかけてた奴の後ろ姿だった。




