下降継続1
普段、意識しない行動はたくさんある。
子供の頃には恐る恐る学んだことも繰り返せば日常になる。
たとえば僕は昔、電車に乗るのが怖かった。
ひょっとしたら、どこか別の場所へと連れて行かれるかのしれない。乗る電車を間違えるかもしれない。そんな恐怖でドアをくぐれなかった。
あるいは、階段を降りるのが怖かった。
足元だけを見て慎重に降りればいいのに、ついつい先を眺めてしまい、その高さに足がすくんだ。
今となってはどちらも平気。
何も怖くない。
電車を間違えて乗ってもリカバーできる、階段が怖ければ手すりを頼ればいい。
失敗した後の対策や、失敗を防ぐ方法を知らないからこそ、恐れは生まれる。
だからその日、駅の階段を降りるときも何も考えなかった。
たたん、たたたん、とテンポよく、少し長めの階段を下る。
「よっと……」
時間帯のせいか、降車する人の数は少なかった。
階段下り作業を独り占めにする。
最近、駅にエレベーターが設置された。
ボタン一つで上下移動ができる便利なものだけど、階段の方がずっと速い。そんな無駄な競争意識があった。
壁のタイルは白く、階段はコンクリートの素っ気ないねずみ色。上り下りを示すため中央にラインが敷かれているけど、全体としては簡素だ。
たまに現れる踊り場を数歩で踏破し、さらに下る。
足元だけを見て、テンポよく、最速で。
「……?」
おかしいな、と思ったのは、途中途中で現れる踊り場の登場が四度目になったときだった。
この駅、こんなに高い?
視線を先にやると、階段があった。
当然だ。けれど、果てが見えなかった。
どこまでもどこまでも、階段が続いていた。想像よりも、ずっと長く。
「あー……」
振り返り見れば、同じく階段があった。
僕が降りたスタート地点、乗降車する駅の様子があるはずだという期待は裏切られた。
僕が知っている宇執摩駅の階段は直線だ。真っ直ぐ下へと続く構造だ。
だけれど、上も下も、階段は徐々に弧を描いた。
下へ行くほど左方向へとズレ、彼方の遠方では完全に見えなくなる。上は右方向にズレ、徐々に曲がる様子を伝える。
「クラストだ、これ……」
間違いなく、そうだった。
こんなヘンテコな場所を意味もなく作るほど鉄道会社は暇じゃない。
クラスト――怪しげな密室として見れば、果てしなく長く続くこの景色は不適切だけれど、こんな超常的なものは他にない。
足元をつま先で確認するけれど変化はなく、ただその硬さを伝えた。
いや本当に、完全に油断してた。
「先頭なんて、突っ切るんじゃなかった……」
駅の階段で注意すべきことは怪我だけではなく、密室に囚われることもそうだった。
+ + +
テンポのいい速度を止め、慎重に降りる。
迷ったとき、遭難したとき、無駄に動き回ってはいけない。それが一般的な最適解だ。
けれど、ことクラストでは「何も調べないまま」でいる方が危ない。
誰かが助けに来てくれる当てもない以上、慎重に自分自身で探るしかない。
壁の白いタイルには、くすんだ年季があった。
ポスターの類はなし、貼った様子もない。
階段も、よくあるコンクリートそのままの造形、直角の段鼻とも呼ばれる部分にはゴム製の滑り止めがあり、黒い境を強調する。
このクラストマスターは、「参加者を転ばせて楽しむ」方向性ではないようだった。
「けどこれ、クリア条件なに……?」
無限に続く階段を使ってやりたいことってなんだ。
どうすれば「脱出」になる?
ちょっと予想がつかなかった。
無意味に僕を苦しめたい、ってパターンではないはずだ。
そこまで逆恨みされるような心当たりは――多少はあるけど、そういう奴はだいたい叩き潰した。
「やだなぁ……」
復讐説がにわかに説得力を帯びる中、僕は慎重に階段を降りた。
手すりには触れない、壁にも触らない、その行動は罠に触れるチャンスになる。
「今のところ、階段を下るくらいしかないよな……」
観察こそ続けるけど、一番注目しなきゃいけないのは足元だ。
実はランダムに階段の高さが違っていたら普通に死ねる。
仮に僕がマスターなら、そういうトラップを仕掛ける。
「階段とばしも無し」
何らかのカウントをしていてもおかしくない。
一定数以上の階段を降りればクリアという脱出条件である可能性だってある。
一段とばしをした途端、リセットになったら笑えない。
もちろん、実は二段とばし、三段とばしをすることが脱出につながる可能性もあるけど、そういうのはもっと時間がたってから試せばいい。
「親切な案内板の類もなし」
8回異変を発見すればいいタイプでもなかった。
「というか、約束があるんだけど……」
ゲームを一緒にやるという約束をしてた。
ジャンルはFPS、割とやり込んだものだ。
野良と組むのではなく、知り合いと一緒にやるのは久々だった。
自称後輩のクラスメイトじゃなければもっと良かった気もする。
本来なら、時間的余裕があった。
どれだけ寄り道しても間に合ったはずだ。
けど、今となっては帰宅予想時刻は未定となった。今日中に帰れたらラッキーだ。
「……」
焦るな、と僕自身に言い聞かせ降り続ける。
た、た、た、た、とテンポを維持し、姿勢と重心に注意する。
似たような景色の中で、だんだん感覚が狂っていく。
刺激と変化のない景色は人に錯覚を与える。
階段、階段、また階段。
体を前傾姿勢にするなと僕自身に命令し、一定のリズムで下り続ける。
た、た、た、た、た、た――
衝撃と音を全身で味わう。
焦りを押し殺し、下降する。
「――」
繰り返し、繰り返し、降り続ける。
まるでその場でジャンプを続けているかのよう。
これ、本当に降りているのか?
周囲の背景が変化しない。
リズムと衝撃の繰り返し。
現実ならこれはどれだけの高さの建物の階段なのか。
掃除するのが大変そうだ。
そんな考えをしつつ、何事もなく階段を降りる。
平和すぎてあくびが出る。
けど、わずかに、本当にわずかに――
音が重なった。
気のせいかとも思えたけれど、徐々に大きくなった。
た、た、た、た、た――
タ、タ、タ、タ、タ――
別の足音。
階段を下っている。
僕以外の誰かがいる。
前方に人影はない。
反響して聞こえづらいけれど、明らかに後ろからだった。
この事態は、シンプルだ。何も勘違いしようがない。
無限に続く階段、その中で――
僕は、知らないやつに追われていた。




