素人密室2
嘔吐という作業は割と辛い。
本来は一方通行のそれを逆流させる。
だが、一度出てしまえば、意外と楽でもある。
弾みがつけば、次から次へと逆流する。
だから、
「ウェ……エェ……ぐぉぇ……グボ……」
どれほど喉奥に手を突っ込んで嘔吐反応を引き起こそうとしても胃液が途中で止まり、元へと戻るのを繰り返すのはこの上ない苦痛だった。
どれだけ試しても口から吐き出されるのは空気だけだ。
「汚い音だなぁ」
「……音だけで済んでいるのだから、いいでしょう」
「無駄なあがきは止めよう」
「そんなに死にたいのですか」
「いいや?」
寝たまま、器用に肩をすくめてた。
「だから、言った。脱出は止めようと」
「餓死は相当つらいと聞きます」
「そうだね」
「終わり方として望ましくありません」
「なら、下僕の望みは?」
「誰が下僕ですか、普通に脱出ですよ」
「それはぼくを殺すということだ」
提示されている方向性はそれだった。
手にしたナイフを使い、もう片方の人間の腹を掻っ捌いて鍵を入手せよと言っている。
だからこそ、無駄だと分かっていても、鍵を吐き出せるかを試した。
紙にそう書かれているからといって、本当にそうルールが敷かれているとは限らない。
まあ、無駄に終わったわけだけど。
僕はリュックからティッシュを取り出し、口と手を拭いた。
「それも拒否します」
「せっかくの機会だぞ?」
「なに勧めてるんですか」
「ふふん、ぼくは知っている。偉そうにしているやつを引きずり下ろして痛めつけたいのは、人間の本性だってことを」
「本当に悲観主義者ですね」
「馬鹿みたいな楽観主義者よりはマシだ」
「どんな人間だと思いますか」
「……なにがだ」
「これの制作者、クラストマスターですよ」
こうしたクラストには、制作者がいる。
たまたま手に入れた超常の力を用いて、好き勝手を行うことを企む者が。
「クラストマスターの性格、あるいは性質がわかれば脱出の手がかりになります」
「知らないよ、ヒントはないんじゃないか?」
「あなたがマスターですか?」
初めて、横たわる少女のまぶたが開いた。
真上を見ていた目はとても澄んでいた、それが、僕の方へと標的を定める。
「違う」
「そうですか」
「お、信じるのか」
「ここで水掛け論をしても意味がありません」
「違うという根拠はちゃんとある」
寝転んだまま、彼女はふたたび目を閉じた。
「もし制作者なら、ぼくはこんな殺風景で広い部屋はつくらない、代わりにケーキの要塞を作る」
「家ではなく」
「家では要塞特有の狭さが足りない、あと頑丈じゃない」
「お菓子製の建造物に頑丈さまで求めますか」
「それと、ぼくが不利すぎる」
「というと?」
「下僕は嘔吐という手段を試すことができた、物理的に傷つけることを制限をしていない、つまり、ここでは暴力が使えるんだ、それを前提とした争いに勝てると思うほど、ぼくは自惚れてはいない、やるならせめて勝率をイーブンにする」
「なるほど」
「そうした意味で言えば、お前こそが怪しい」
「僕が?」
「ああ、無駄な要素があまりない部屋、ライバルには弱い奴を用意し、逆転できる余計なギミックをなくしている。下僕、このクラストが、お前が無意識下に発動させたものじゃないと、本当に言えるか?」
心の奥底でそれを望んではいないか?
そう問われてしまえば即座の否定は難しいが。
「おそらく違いますね」
「なぜ」
「僕はいじめられているんですよ」
「その憂さ晴らしを?」
「軽い無視のようなものを受けています。そして実は僕はお喋りが好きな質です。こんな寂しい部屋を造りたがる精神状態だとは思えない」
「最初は猫や小動物からはじめた?」
「人を典型的な犯罪者像に当てはめないでください、なにより、ここは僕らしくないと思える、それが一番の理由ですね」
「曖昧だ」
「なにせプロです、そのくらいの断言はできます」
「なんのプロだ」
「クラストに巻き込まれるプロです」
平均的には、10年の一度くらいの頻度で巻き込まれると言われるクラスト。
常識から外れた異常空間。
「僕は月に一度、多いときには週に一度の割合で巻き込まれています」
「……」
「たいていのクラストには、その人らしさが出るんですよ、どれほど偽ったとしても隠しきれるものじゃない。だから、断言できる、ここは僕じゃない」
無視を受けている理由だ。
もっと言えば、誰も僕と関わり合いになりたくない。
関わればクラストに巻き込まれるからだ。
ネット上の知り合いすら、参加者となったことがある。
「妙だな」
「何がですか」
「落ち着きすぎだ、それは多く参加したからというだけでは説明がつかない」
「そうですか」
「やったな?」
確信を持った言い方だった。
「下僕、お前は巻き込まれただけじゃない。裏を体験しているからこそ、確信と落ち着きがある。違うか?」
「裏とは」
「参加者ではなかった、という意味だ」
「……」
「クラストのマスターだったな、お前?」
ため息をついた。
ここは白旗を上げるしかない。
「ええ、一度だけですが「僕がクラストを作った」ことがあります」
「何人死んだ?」
「はい?」
「クラスト内で死んでも、証明ができない、完全犯罪がいくらでもできる。誰を何人殺したところで、参加者が口をつぐめば伝わらない」
「誰も殺していませんよ」
「お前自身は?」
「ええ、僕は」
「悪党め」
僕は心外だと唇を曲げた。
「僕が悪党かどうかとは無関係に、言えることが一つあります」
「なんだ」
「僕は直接的な犯罪をするタイプじゃない。だから、こんなナイフを渡されても困るんですよ」
「なら、下僕自身から鍵を取り出すべきだ」
「僕自身に対する危害も、直接的な犯罪であると定義します」
「腰抜けめ」
「慎重かつ知的と言ってください」
ナイフを机へと思いきり振り下ろした。
古い見た目に反して頑丈だったようで、それは思いの外深く突き刺さった。
僕自身ですら、凶器をすぐには使えないようにした。
その様子を子供は平坦に見ていた。
「それより、ひとつ聞きたいことがあります」
「なんだ」
「あなたはどこに住んでいますか?」
「なぜそんなことを聞きたがる」
「僕は宇執摩町の北に住んでいます。クラストに巻き込まれた位置が、ひょっとしたら鍵となるのかもしれない」
「……言いたくない」
「別にストーカーする予定も情報を売り渡すつもりもありませんよ」
「違う、本当にわからないんだ」
「ん?」
僕は机上の箱、紙製のそれを手慰みに千切っていた視線を上げる。
そこには眉をしかめる子供がいた、まるで悪夢にうなされているような表情だった。
「ぼくは引っ越して以降、あまり外に出たことがない、実を言うと、ここはぼくにとって「広すぎる」んだ」




