帝国の邪教信徒クラリス・エヴァンジェリンはタウンハウスから一歩も出ない
{王よ、準備はできたか}
{我が名はアンブリエル。ザルヴァンの友にして、ザルヴァンの半身}
{我が友、男神の元へ還った時より、我が世界は時を止め}
{今再び、目覚めの時を迎えん}
{見よ、我を見よ}
{男神の酒を解き放たん}
{男神が求めた雫、その甘露}
{今再び、蘇らん}
{おお、ランヴァリオン}
{おお、ランヴァリオン}
{我が最愛}
{我が半身}
{唱え、震わせよ}
{叫べ}
{叫べ}
{汝の名を}
{おお、ランヴァリオン}
{おお、ランヴァリオン}
{アンブリエルが応えよう}
{我が主、我が太陽}
{アンブリエルが伝えよう}
{男神に伝えよう}
{汝が名を}
{汝、ランヴァリオンの太陽}
{そして、ランヴァリオンの黄金}
{ランヴァリオンよ、永遠なれ}
{新たな王の名を刻め}
{キリアン・オーリック・ランヴァリオン}
{ランヴァリオンに祝福を}
八日目にして、キリアンが王宮に戻った。
駆け寄るルシアンにキリアンが口の端をあげて見せる。着ていた衣類は汗染みが浮き、髪も身体も汚れてはいたが、顔は晴れやかに、そして深紅の瞳は輝いていた。
キリアンは、手にしていたコルク栓のついたデキャンタを持ち上げる。
琥珀の液体が並々と揺れ、黄金の雫がコルク栓を湿らせていた。栓をされているにも関わらず、そこからは芳醇なオークと、微かなボタニカルの薫香がフワリと漂う。そして不思議なことに、キリアン自身からも、濃厚なラム酒の、熟成が進んだ香しさが醸し出されていた。
「兄上…おめでとうございます…っ」
全てを察したルシアンが、兄に縋り付くようにして膝を着く。感極まったルシアンの肩を抱き上げ、キリアンは接見の間に乗り込んだ。
ひしめく諸侯達が見たのは、これまでの鬱屈とした青年などではなく、新たな王として立つ覚悟を漲らせた一人の男の姿だった。
「キリアン殿下…」
眼光鋭く玉座の前で立つキリアンは、王の風格を滲ませ階下を睥睨する。
能力に蝕まれ、人を遠ざける孤高の王太子は何処にもいなかった。
「心配をかけたが安心しろ。熱の制御は相成った。ランヴァリオンは安泰である!」
高々と掲げたデキャンタ。
キリアンの宣誓に、諸侯達は一斉に跪き、そして涙を流した。
キリアンがアンバーカノープスを起動させたこと、そして男神の酒を奉納した事は、ランヴァリオン全土に広がった。
王宮に集められた帝国の名代達、そして各国の招待客らは祝福ムード一色ではあったが、ベルンシュタインだけは歯ぎしりを止めらなかった。
「あの小娘……っ!」
与えられた自室で、ベルンシュタインは机に広げられた皇帝からの書簡を全て払い落とした。
力の限りに机を叩き、呪詛を吐き続ける。
「邪教の信徒…帝国に抹殺されたジュネヴァの小娘…っ、どこまでも余計なことをっっ!」
頭を掻きむしりながら、血走った目をあげる。
帝国典礼院・特務調査官。
帝国における血統管理部門の最高責任者。
皇帝から直々に指名されたベルンシュタインは、この職にも皇帝から目をかけてもらったことにも誇りを持っていた。
「陛下、我が君…このオズワルド・フォン・ベルンシュタインは、あなたの僕…あなたの御言葉に従う者です…」
低く唸りながら、机に爪を立てるベルンシュタインは、ランヴァリオンに来る前の事を思い出す。
「のう、オズワルド。余はこの頃特に思う事がある…」
老齢の皇帝の傍には、先日目出度く皇太子に冊立された孫姫が侍っている。
嗄れた声を震わせながら、皇帝は目だけを動かしてベルンシュタインを見た。
「この世は科学が勢い付き、馬がなくとも車が走り、そろそろ巨大な鉄の蛇が地を這って民を遠くへ運ぼうとしておる」
皇帝の言葉をベルンシュタインは、黙って聴く。
「やがて空は、鉄の鳥が大鷲よりも高く飛び、南の国境を超え、テキラナへと我らの手を伸ばさせようとするだろう」
咳き込む皇帝の背を、孫姫がさする。
「これからは科学が益々隆盛を極めるであろうよ」
皇帝の言葉に、ベルンシュタインは頷く。
「そうなった時……邪魔になると思ってな」
顔を上げたベルンシュタインは、皇帝の冷たい眼光を見た。
「他国の古臭い血統能力なぞ、時代錯誤も甚だしいと思わんか」
「…仰る通りでございます」
ベルンシュタインの言葉に皇帝が、低く笑う。
「…この先、血統能力を有するは帝国だけで良い」
「おじい様…」
孫姫の肩を優しく撫でながら、皇帝は続ける。
「お前の監視下にあるジュネヴァは、放っておいてもやがて死ぬだろうが…、テキーラとラムはいかん」
「…は」
「特にラムは危険だ。…自身が膨大な熱を持つ溶鉱炉のような男。即位出来なければ、血統能力も潰える」
老いた皇帝は激しく咳き込んだ後、ふっと笑った。
「ジュネヴァが消えたそうだな?」
「申し訳ございません」
「責めてはおらん。ラムが連れて行ったのなら、揃って消えるのを見届けよ」
或いは。
「ジュネヴァだけでも消しておけ。アレは我らの先見の天敵。存在自体が忌まわしい」
部屋を出るベルンシュタインが見たのは、幼さの残る孫姫の痛ましい表情と、命の灯火が消えかけてた土気色の皇帝の姿であった。
ベルンシュタインは髪を掻きむしる。
反王太子勢力は、聖別中のキリアンの暗殺に失敗した。自分の放った間者も戻って来ない。
策を悉く潰す王弟の暗躍部隊が呪わしい。
ベルンシュタイン自身にも明らさまな監視が付けられている。
キリアンの継承が確実となった今、ジュネヴァの末裔、クラリス・エヴァンジェリンの抹殺だけはどうしても成し遂げなければならない。
ガリリッと机が削れる。
「陛下、…私にどうか、先見の御言葉を……」
唸るように呟きながら、ベルンシュタインは床に散らばった皇帝からの書簡をかき集める。
即位の式典まで二十日あまり。
書簡をひとつずつ開きながら、ベルンシュタインは皇帝の言葉を目に焼きつけるようにして、再び読み込む事にした。
キリアンのラム酒は、男神ラムの神殿に奉納された。
伝説のラム酒を見るために、国民が連日神殿に押しかけ、樽から溢れる香気と甘い薫香に酔わされているらしい。
クラリスは全ての工程が終わったことを見届けると、今度こそばったりと倒れ、三日間の眠りについた。
タウンハウスに連れ戻され、入浴と着替えを侍女達が入れ代わり立ち代わりで行ってくれていたという。
目が覚めた時には、老執事のバルタザールが大慌てでフェリクスと医者を呼びに走っていった。
一通りの診察を終えると、医者からは極度の栄養失調と怒られ、フェリクスからは呆れと安堵のため息を頂戴した。
食堂で滋養の高く、温かでお腹に優しいご飯を食べる。そんなクラリスを、フェリクスは対面から見守りながら口を開いた。
「過酷な作業だったにも関わらず、アンバーカノープスを起動させてくれた事、礼を言う」
頭を下げるフェリクスに、クラリスは首を振った。
「貴重な経験と時間を頂きました。感謝するのは私の方です。それに起動は殿下が自身で行われたことなのです。私はお手伝いしたにすぎません」
ランヴァリオンに来た時より明らかにまた痩せたクラリスではあったが、表情は晴れやかだった。
「謙虚だな、君は」
「本当のことですから」
キリアンが呼ぶニンジン色の髪は、侍女達の手によって美しい艶を灯している。痩せすぎの身体は、男物の作業着ではなく、フェリクスが用意させた邸宅用の簡素なドレスを纏っていて、改めて見るとやはり年頃の女性である事を思い知らされた。
薄く施された化粧が、血色の悪さを綺麗に消している。
フェリクスが見ていたクラリスは、だいたいが具合が悪そうで、吐いたり倒れていたりと気を揉む場面が多かったように思う。しかし、こうして落ち着いた場所で過ごしている姿を目にすると、生来の知的さが如実に表れていて、尚且つ実は非常に美しい娘である事がわかった。
「フェリクスさん?」
食べ終わったクラリスが、ナプキンで口を拭っている。
フェリクスは、なるほどと思った。
「殿下が気に入ったわけだ」
「何を気に入ったんですか?」
首を傾げるクラリスに、フェリクスは「いや」と首を振る。
「報酬の件なんだが」
「あ、はい。お願いします」
居住まいを正したクラリスに、フェリクスが少しだけ目線を逸らした。
「アンバーカノープスの起動に貢献したので、継承の式典までランヴァリオンに滞在してて欲しい」
クラリスが少しだけ茶色い目を見開いた。
「それはお願いしようと思ってたのでありがたいんですが」
まさかそれだけ?
少し不信を滲ませた目つきにフェリクスが苦笑する。
「キリアン殿下がそう望まれたと言う話だ。報酬はちゃんと用意してある」
フェリクスの言葉にクラリスがホッとした表情になる。フェリクスは続けた。
「式典までの間、何をして過ごしてもらっても構わない。ただ、必ず外出には護衛をつけて欲しい」
護衛と言う単語に、クラリスが表情を消した。
バルトロメウスの洞窟で刺客がやってきた事を思い出したからだ。
「キリアン殿下だけが狙われていたわけではなかった、そう教えられました」
「そうだ」
クラリスを狙う首謀者についてはもう特定している。
「ベルンシュタイン伯爵を知っているか」
「…」
クラリスが空を見つめて、それから頷いた。
「皇帝様の側近の方で、エヴァンジェリン家を何かと目の敵にしていた男性…と覚えてます」
フェリクスが肯定する。
「彼は帝国典礼院・特務調査官。皇帝の一族の血統を管理する役職の男だ。彼が今、王宮に滞在している」
本来であれば、クラリスは平民であってもキリアンの客人として王宮で滞在を許される。だが、ベルンシュタインが王宮にいる以上、クラリスを隔離しなければならない。
クラリスは手を振った。
「十分です。ここのタウンハウスは居心地がいいので」
「そう言って頂けて嬉しゅうございます」
お茶のおかわりを持ってきたバルタザールが給仕しながら微笑む。
バルタザールを見上げて微笑み返したクラリスが、フェリクスを見る。
「護衛については承知しました。全てが解決するまで、大人しくしています」
「…。窮屈な思いをさせてすまない」
「いいんです。アンバーカノープスの数式を見返して清書したり、古代語の書き取りについても見返したいので」
「それらについては後でもってこさせる」
笑って礼を言うクラリスが、思いついたように付け加える。
「出来たら……バルトロメウス先生のお話も聴きたいんですが…」
「…」
クラリスの要請に、フェリクスが少しだけ言葉に詰まった。
「フェリクスさん?」
「…。君が目覚める前に、バルトロメウス氏をここに招待したのだが」
「まさか、何かあったとか」
「いや、ご無事だ。襲撃まがいの事があって、その精査に時間を取られ遅くなってしまったのだ」
襲撃と言う言葉に、クラリスの顔色が悪くなる。
フェリクスは安心させるようにぎこちなく微笑んだ。
「大丈夫だから。改めて招待しよう」
「やった、ありがとうございます!フェリクスさん!」
諸手を上げて喜ぶクラリスに、バルタザールが「ようございましたね」と微笑む。
ひとまず、クラリスの身の安全はタウンハウスにあれば問題ない。再び缶詰生活を強いらせることに申し訳なさを感じるフェリクスだったが、当の本人があまりに気してないのを見て、少しだけホッとしたのだった。
以前より精力的に諸侯達の前に出て、政務を進めていくキリアンの姿は、ランヴァリオン王国の貴族令嬢達の視線を奪っていった。
美しく整った顔を苦痛に歪める事もなく、快活に笑い、軽やかに王宮を走り回ってルシアンを捕まえるキリアンを、熱暴走する寸前の危険因子と見なさなくなった。
令嬢たちのお茶会では、キリアン派かルシアン派かで楽しげに囁き交わす事が多くなり、諸侯らも娘たちの様子を見て、王となるキリアンの傍に娘を据える野心を抱くようになる。
そんな中。
即位の式典の準備が急いで進められるある日、キリアンは山と積まれた令嬢たちの釣書を全て処分させた。
「必要ない」
ルシアンが持ってきた法整備の意見書に目を通しながら、キリアンは一蹴する。
釣書を持ってきた公爵家の当主は眉を寄せた。
「しかし、王妃はいずれ迎えなければ」
「妃には、既に決めた女がいる。釣書は要らん」
「なんと」
驚く公爵家の当主に、キリアンは半笑いで返す。
「これから口説くが、時間はかかるだろうな」
「…。ならばせめて側妃だけでも先に」
「要らん!お前は俺の恋路を潰すつもりなのか」
テーブルを叩いたキリアンを見て、公爵家の当主が引き下がる。そんな二人の様子を見ていたルシアンが、うっすらと微笑んだ。
「兄上、そんなに頑張らずとも良いでしょう」
ルシアンの言葉に、キリアンが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
ルシアンはにっこりと微笑んだ。
「私は兄上が喜ぶ事をするのが生きがいなので。万事恙無く準備していますよ」
「…」
ルシアンの様子をしばらく眺めていたキリアンが、少しだけ深紅の瞳を見開いた。
「ルシアン…お前」
「兄上に褒めて頂けたら嬉しいですけどね」
含み笑いを残して、ルシアンが出ていく。
残された公爵家の当主が困惑気味にキリアンを振り返った。
「あまり無体なことはなさいませんよう」
「…。当たり前だろう」
憮然と呟くが、ルシアンのやることだからなぁ、と。
キリアンは頭を搔いてから、公爵家の当主を追い出した。
潮騒の宮殿地下から出てきて以来、キリアンはクラリスと会えていない。
王宮でのやる事があまりにも多い。それと並行して式典の内容にも目を通し、衣装合わせや、儀式の進行を頭に叩き込む等をしなければならず、自由になる時間はほぼなかった。
しかし。以前と比べて寝る事ができる。
キリアンにとってこれは大きかった。
気力も体力も消耗するが、アンバーカノープスの起動にかけたあの時間よりはまだまだヌルい。
何より寝れば回復できるのだ。政務位は余裕でこなせる。
一週間程の期間ではあったが、ひと月にも、一年にも、十年にも相当する濃密な時間だった。
クラリスがいない日常に戻っただけだったが、キリアンの心はスゥスゥと隙間風を感じている。
クラリスが常に立っていた自分の右側。今はいないその薄ら寒い感覚にはまだ慣れない。
アンバーカノープスが、アンブリエルが常に囁いていた、我が友、我が半身と言う言葉が、思っていた以上の深さでキリアンの心に突き刺さっている。
ニンジン色のふわふわの髪を思い出す。
隣で寝こけたクラリスの頭を撫でた感触が、まだ手に残っている。
熱がる事もなく、穏やかな寝顔でキリアンの手を沈めた髪の感触に、愛おしさを感じたのは何日目の事だっただろうか。
キリアンには見えない数式ではなく、キリアン自身の瞳を見た時の、穏やかで深い知性的な眼差しが、まだ頭に残っている。
薄汚れて萎びてはいたが、存外、綺麗な顔立ちをしていることに気付いてしまった衝撃は、きっと忘れることは無いだろう。
クラリスはきっと、自身のそんな美しさを知らないだろう。気付くこともしないはずだ。
そして残念ながら、キリアンの気持ちにも気付かないだろう。彼女は立場を弁える事の大事さを知っている。平民の立場では王の伴侶になれないのだ。
キリアンに求められている事など、想像もしていないだろう。
「アンブリエルより手強いだろうなぁ…」
馬鹿なの?と口をついて飛び出したクラリスの暴言を思い出して、キリアンは肩を震わせる。
ルシアンの言葉にも引っかかりを覚えたが、一先ずは即位だ。
机に置かれたデキャンタからは、相変わらず芳醇なラム酒の香りが醸し出されている。
その薫香を胸に取り込みながら、キリアンはやるべき事に再び集中し始めた。




